短編 謝妃1
時は遡り、許靖たちがまだ揚州にいた時のこと。
「ぐふぅっ」
という呻くような音と共に、男の肺から息が吹き出された。
息が出されれば、次は吸い込まなければならない。でなければ生物は窒息してしまう。
しかし、その男は息を吸うことが出来なかった。芽衣の拳がみぞおちに突き刺さっていたからだ。
みぞおちのすぐ近くには呼吸のための横隔膜がある。それが衝撃を受けて一時的な呼吸困難に陥るのだ。
苦悶に顔を歪めた男の後ろに花琳が回り込み、活を入れて呼吸を復活させた。
「きちんと腹筋さえ固めておけば、今みたいなことにはならないわ。気を抜かないように」
「は、はい!ありがとうございました!」
男は芽衣と花琳に頭を下げて下がっていく。
花琳の道場では今、組み手の稽古が行われていた。花琳が審判を務め、芽衣が順次相手をしていく。
花琳の道場の生徒で最も人数が多いのは『胡蝶の会』という同好会の徒で、彼らは『芽衣と武術を学びたい』という連中の集まりだ。
だから芽衣との組手は特に喜ばれたし、生徒のやる気にも繋がっていた。
(でも……なんで痛い目にあっても嬉しそうなのかしら?)
花琳にはそれが不思議でしょうがない。
胡蝶の会の会員はみな芽衣との組手に限り、殴られようが蹴られようが嬉しそうにしていた。
(まぁ……本人が嫌でないなら、その方が寸止めよりも成長はするけど)
花琳の道場での基本方針は、明らかに当たる攻撃は寸止めにする、というものだ。
ただし芽衣はすでにかなりの腕前であるから加減は出来るし、痛みを伴う緊張感があった方が成長はする。だから芽衣と胡蝶の会の会員の組手では、花琳も黙認することにしていた。
次の男も顎に裏拳を食らって脳震盪を起こしていたが、それでも笑顔で下がっていった。
(ただ……それにしても今日の芽衣は荒れてるわね。私が止めないギリギリを突いて八つ当たりをしているように感じられるわ)
先ほどからの芽衣の攻撃は、そのような意図を感じるものだった。
明らかにいつもより当たりが強い。表情を見ても苛ついているのが察せられた。
芽衣はもう花琳にとって、正式に義理の娘なのだ。同じ家にも住んでいるし、そのくらいは分かった。
(まぁ……原因は分かるけどね)
花琳はそれに気づいていた。
そして花琳がそれをあらためて思う頃、組手を終えた男たちもそれについて小声で話をしていた。
「……今日の芽衣様、いつにも増してキツいよな」
「ああ、でもそれがまたイイ」
「それはそうだけど、何であんなに機嫌が悪いんだ?」
「馬鹿、お前気づいてないのか?アレ見てみろよ。あの道場の隅で柔軟してる娘」
「え?……うぉ!!なんだアレ!!なんつう可愛い娘だよ!!あんな娘、今まで道場にいたっけ?」
「お前知らないのか?謝倹さんとこの妹だよ。今日は体験入門に来てんだとよ」
「謝倹さんの妹っていうと、あの揚州一の美女だって有名な?」
「おう、その美女だ」
「なるほど、確かにすげぇな。揚州一って評判も納得……ってあれ?一緒に柔軟してるのって、芽衣様の旦那さんの……」
「ああ、許欽さんだな。あの人、たまに道場に顔出しても柔軟とか筋力の鍛錬とかしかしないだろ?だから柔軟を教えてるんだとよ」
「あー……そりゃ芽衣様もお怒りだわ。新婚早々、他の女にあんなに鼻の下伸ばされちゃあなぁ」
「だろう?でも、仕方ないよな。あんな美女、俺も人生で見たこと無いぜ」
「俺もそうだけど……やっぱり芽衣様みたいな至高の嫁さんもらって他の女にうつつを抜かすなんて、許せねぇよ」
「でもヤキモチ妬いてる芽衣様もイイよな。俺たちは眼福ってことで」
「まぁな。あの表情だって、揚州一だよな」
などと男たちが話している時に、許欽の所へと歩いていった男がいる。
許靖だ。花琳に言われて息子の所へ向かっていた。
楽しそうに美女と話している息子の肩を叩いた許靖は、肩越しに親指で芽衣の方を指した。
そして一言だけ、心の底から息子の身を思って警告してやった。
「死ぬぞ?」
芽衣の目付きを確認した許欽は顔を青くし、急用を思い出したと称してすぐに道場を後にした。
***************
「許靖さん、俺の妹はどうだった?」
謝倹は道場での鍛錬を終えた許靖の所へ行き、そう尋ねた。
許靖は竹筒に入った水を飲みきってから答えた。
「噂通りの美人だな。息子の身が危うくなったよ」
「ハハハ、そりゃ自業自得だ。でもそんな見てくれよりも、許靖さんには妃紗麻の中身を教えてほしいんだ。あの娘は兄の俺でも何を考えてるか分からないようなところがあってな」
妃紗麻、というのが謝倹の妹の名前だった。皇后など高貴な妻女の着物を意味する名前で、大層なものといえば大層なものだ。
「兄の謝倹殿に分からないものが私に分かるはずもないだろう」
「謙遜はよしてくれよ。月旦評の許靖っていったら随分な人物鑑定家の名士だそうじゃないか。一時期、中央政府の官僚だった親父もべた褒めだったぜ?鑑定してもらった他の連中も、すげぇすげぇしか言わねぇし」
「座興でそんな話をしてることがあるだけだよ」
「んじゃ、座興でいいから教えてくれよ。妃紗麻の瞳には、何が見えた?」
許靖は瞳の奥に「天地」を見る。「天地」には、その者の本質が現れるのだ。
許靖としては占い師のように思われても困るので、その事実を基本的には否定することにしていた。しかし、それでも人の口に戸は立てられない。
それに、この時代には著名な人物鑑定家の評は時に千金にも値するものだった。自然、許靖自身の名声も広く知れ渡っていた。
「……水母だな」
「水母?」
「ああ、水母だ。私もそれほどよく知っている生き物ではないが、海の中でフワフワと漂う水母が見えた」
許靖の評を聞いた謝倹は、むしろ困ってしまった。
「水母とはまた……どう考えたらいいかよく分からんもんが見えたな」
「そうなんだ。ただ……それを眺めていると、不思議と癒やされている自分がいることに気がついた。フヨフヨと柔こく動いていて、妙に丸っこく愛らしくて、透明感のある色が綺麗で、少し発光しているものに目を惹かれて……」
「あぁ、そりゃ俺もよく分かるよ。子供の頃に捕まえた水母を瓶に入れて、ずっと眺めてた。なんなんだろうな、あれ。なんかずっと見ちゃうんだよ」
「それが癒やしということなんじゃないかな」
「そうそう、確かにあいつが近くにいたら妙に癒やされるんだよ。……でも、それってあいつの内面とかは関係なくないか?兄の俺が言うのもなんだが、妃紗麻みたいな美人が近くにいたらほとんどの人間は癒やされそうだ」
「兄でも妹が美人だと癒やされるか?」
「……いや、少なくとも俺は違うか。赤ん坊の時からずっと見てる顔だから、正直なところ美人かどうかとかどうでもいい感じになってるな。それよりも、妃紗麻のよく分からないフワフワした感じに癒やされる」
「なら、その癒やしが妃紗麻の本質ということだろう。ここからは私の推測だが、水母というよく分からないものだからこそ人は安心感を抱くのではないかな」
「よく分からないから、安心?」
「そうだ。人が『よく分からないもの』に抱く感情は、『恐怖心』か『安心感』のどちらかだと思う。そして水母は、妃紗麻は、その後者ということだろう」
「恐怖心には納得だが……よく分からないものに安心感を抱くかね?」
「悪意が感じ取れないんだ」
謝倹は許靖の主張を、たっぷりと時間をかけて吟味してからうなずいた。
「………………なるほど」
人というものは思いの外、悪意に対して敏感だ。
そして人はずる賢いものだから、自分は悪くない形を作って人を傷つけることに長けている。
しかし悪意は敏感に感じ取られるから、傷つけられた人は悪意の存在に気づいてさらに苦しむのだ。
形式上の善悪はともかくとして、悪意の認識ほど人を苦しめ、また恐怖させるものはない。
「何を考えているかよく分からない、悪意を感じ取ることができない、というのは、ある意味で究極の癒やしなのではないだろうか?」
謝倹は許靖の言に納得した。
しかし、同時に強い不満を抱いた。
「許靖さんの言うことはよく分かった。それに、許靖さんがすげぇってこともよく分かった。だが……肝心の妃紗麻の内面は結局よく分からんってことじゃないか」
本質が水母と言われても、人間からするとそもそも水母は生物として非常に理解が難しい。
それは現代の生物学においてもそうで、動物といえば動物だが、遊泳能力があまりに低いから実はプランクトンでもある。
さらに言えば、分類的にはイソギンチャクやサンゴの仲間であり、中には藻と共生して光合成からエネルギーを得るものもいる。
他の生物にはあまり見られない変態を繰り返すし、生物学的にも非常に難しい生き物なのだ。
「まぁ、よく分からない内面だということは分かった、ということで」
許靖はある意味適当なことを言って話をまとめた。
そんな軽い言い方をされては謝倹も笑うしかない。
許靖は基本的には真面目な男だが、たまにこういう力の抜けたところがある。謝倹はそこが好きだった。
謝倹は過去に許靖を襲った挙げ句、息子である許欽に重症を負わせてしまっている。
が、その後に下された罰をきちんと受けた謝倹を許靖はそれ以上責めなかった。それどころか、こうして気さくに接してくれる。
それは一番の被害者である許欽も同じだった。
さすがの謝倹も初めは遠慮がちだったが、今はもうその好意を受け入れていた。そして謝倹もこの親子を至極好きになっている。
「頓智みたいな話だが、そういうことだな。まぁ、今後も道場には来させるつもりだからよろしく頼むよ」
「続けさせるのか?」
「妃紗麻は体が弱くてな。小さい頃から病気がちだし、この道場で少しでも体力がつけばいいと思う」
「分かった。花琳と芽衣にも無理はさせないように言っておこう」
「俺は妃紗麻と弟の承が元気なら、謝氏は安泰だと思ってる。本当なら承も連れてきて体力をつけさせたいんだが、あのガリ勉野郎はなかなかこういった所には出てきやがらねぇ。もし会う機会があったら、承も誘ってやってもらいたい」
会稽郡の豪族である謝氏の次期当主は、謝倹の弟である謝承が務める予定だ。
兄の謝倹は太守の暗殺未遂などという大事件をしでかしてしまい、一族では『いない人』扱いになっていた。正式に勘当はされていないが、家系図にも残されないだろう。
(承は馬鹿みたいに頭がいいし、その姉の妃紗麻は揚州一なんて噂になるほどの美人だ。きっと力のある男と結婚できるだろうから、二人がいれば謝氏は安泰だな)
謝倹は一族に迷惑をかけてしまったという自覚があるために、そういったことを人一倍気にかけていた。
許靖もそんな謝倹の気持ちは理解できたから、しっかりとうなずいてやった。
「分かったよ。ただ、目下の問題は欽のやつだ」
「あー……芽衣が妃紗麻を嫌うようなら、道場には来にくくなるだろうなぁ」
「あいつも多分、芽衣の殺気を浴びて身の危険は分かったと思うが……」
「殺気って。新婚の夫が妻に殺されんのかい?」
「芽衣の拳骨を千回食らったら、死ぬと思わないか?」
「……食らうのか、千回」
「そういう約束らしい。ちなみに私も花琳に似たようなことを言われたことがある」
「……まぁ……そのくらいの方が、家庭も円満に行くんじゃないかね」
(他人事だから、適当なことを言ってるな)
許靖にはそれが分かったものの、まさに他人事なのであえて何も言いはしなかった。
***************
「海が好きなの?」
そう問われた妃紗麻は、ゆっくりと振り返った。
その視線の先には壮年の女性が佇んでいる。砂浜に立ち、潮風に吹かれながらこちらを見ていた。
「どうして、そう思われました?」
質問に対して質問を返した妃紗麻だったが、果たしてそれは砂浜の女性に向けたものなのか。
視線は確かに女性を向いているのだが、どこか違う所に焦点が合っているようにも見える。
女性はその不思議な視線に様々なものを感じながら、妃紗麻の質問に答えた。
「だってあなた、ずっと海の方を見てたから。しかも海に入ってまで」
妃紗麻は、膝下まで海水に浸かっていた。
靴は砂浜に脱いでいるのだが、服の裾は完全に濡れてしまっている。
たまに大きな波が来てさらに高いところまで服を濡らしたが、妃紗麻には気にする様子すらなかった。
「寒くはないの?」
妃紗麻は女性に言われて初めてのそのことに気がついたようで、目を少しだけ大きくした。
そして、少し考えてから答えた。
「寒い……かもしれません。でも、気持ちいいかもしれません。それに、この海が大切な友達のいるところに繋がっていると思うと、暖かい気もします」
「そう……お友達はこの間の戦で海の向こうへ避難したのかしら?」
しばらく前、ここ会稽郡に孫策の軍が攻めてきた。戦の名分は色々とつけているものの、要は乱世における陣取りだ。
太守の王朗は孫策軍をかなり苦戦させたものの、最終的には小覇王・孫策が勝利した。
現在の会稽郡は孫策の支配下でひとまずの落ち着きを得ているが、戦前・戦中にはその難を逃れようと多くの人間が去って行った。
妃紗麻はその友人との別れ際を思い出しながら答えた。
「はい。芽衣さんっていうんですが、大きなお腹で、双子かもしれなくて、お別れの時には歩くのも大変そうでした。とっても強い武術家なのに、赤ちゃんを産むのって大変なことなんだと思いました」
初対面の人間にそこまで話し始めた妃紗麻に、女性は少し驚いたようだった。
しかし、不快には思わなかった。むしろそんな妃紗麻に対して、自分でもよく分からない好感を抱いていた。
(不思議な娘……)
そう思いながら、女性は妃紗麻に笑顔を向けた。
「仲の良いお友達だったのね」
その言葉に、妃紗麻は嬉しそうに笑い返した。
それを見た女性は、海辺に美しい花が咲いたように思った。
「仲良しでした。でも初めは嫌われていたんです。芽衣さんの旦那さんが私と楽しそうに話してたから。ヤキモチ妬きなんです」
「そうなのね。そんな娘と、どうやって仲良くなれたのかしら?」
「『旦那さんが芽衣さんのことをたくさん自慢してましたよ』って教えてあげたんです。そしたらむしろ仲良しになれて」
「なるほど。それは奥さんは嬉しいわ」
「本当は一言だけ『うちの妻はちょっとアレなところがあるけど、楽しい娘だからよろしくね』って言われただけなんですけどね」
女性はそう告白した妃紗麻を、苦笑しながら眺め直した。
「あなたは……賢い女性ね。上手く生きていくには、そういう嘘も必要だわ」
そう言われた妃紗麻は不思議そうに首を傾げた。そしてやや焦点のズレているような視線で女性を見つめ返す。
「私は嘘を言っていませんよ?」
「え?でも旦那さんは一言だけって……」
「そうですけど、その一言にはすごく愛情がこもっていたんです。短い言葉でも、そういうのが分かる時ってあるじゃないですか。だからたくさんの言葉じゃなくても、たくさん自慢してたのは間違いありません」
でも、それはやっぱり嘘だろう。
とは女性は思わなかった。
少なくとも妃紗麻の態度からは後ろめたいものが全く感じられない。本気で嘘ではなく、真実だと思っている。
ただその一方で、やはり妃紗麻の取った行動は賢い女性のすることだと思った。何の考えもなく発せられる言葉ではない。
その妃紗麻の笑顔に邪気が感じられないものだから、女性は余計にこの娘を気に入ってしまった。
「あなた、うちの子になる気はないかしら?」
初対面の女性からかけられる台詞にしてはあまりに大変なこと言われているわけだが、妃紗麻の表情はさして動かなかった。
そして落ち着いた声音のまま、当たり前に問うべきことを問うた。
「あなたは、どちら様でしょうか?」
女性は凛とした声で答えた。
「多くの人は、私のことを呉夫人と呼びます。今は亡き江東の虎・孫堅の妻、そしてここ会稽郡を陥とした小覇王・孫策の母です。と言っても、あなたと娶せたいのは孫策の弟である孫権の方なのですけどね」




