192 嫌な感じ
「花琳ばあ様、今夜はなんだか嫌な感じがするんだ……」
許游は外で夜風に当たり、月を見上げていた。ちょうど城壁の上端にかかるようにして月が浮いている。
花琳も同じ様に月を見上げた。
「月が、嫌な感じなの?」
許游はかぶりを振った。
「初めは月が嫌な感じなのかと思った。でも違う。その少し右側が嫌な感じなんだ」
「月の少し右側……」
花琳は目を凝らしてその方向を見たが、警備の兵以外に何も見えはしない。
しかし目だけではなく、あらゆる感覚を開くようにしてそちらに向けると、確かに感じるものがあった。
そしてそれは許游の言う通り、決して良いものではなかった。
「……游。芽衣と凜風、翠蘭に春鈴も呼んできなさい。多分、四人とも薬の調合を手伝っているわ」
許游は花琳に言われた通り、背後の屋敷へと走って行った。かなりの部屋数がある大きな屋敷だ。
(こんな豪邸を権力者から取り上げて下々に開放するなんて……劉璋様は本当に民思いの刺史ね)
屋敷へと入っていく許游を目で追いながら、花琳はあらためてそう思った。
この屋敷には、つい先日まで州の要人たちが集まって居住していた。要人をできるだけ一ヶ所にまとめて警備を厳重にし、安全を図ろうという趣旨だ。
しかし、今は劉璋の命令で病院として使われている。戦で怪我した人間や病の重い民などを入れ、要人たちはもっと粗末な建物へと移らされた。
怪我人、病人たちは快適な居住空間に喜んでいる。
花琳たちはその病院の手伝いをしていた。こんな時だから、ただ道場だけをやっているわけにはいかない。
食事の用意をしたり、衣服や包帯を洗ったり、薬師の手伝いをしたりしてありがたがられていた。
今日は特に仕事が多く、気づけば夜半になっていた。先ほどまで許游と花琳は一息ついて、夜風に当たっていたところだった。
許游が四人を連れて帰ってきた。いや、四人だけでなく許靖も一緒だった。
「どうしたんだ花琳?」
「あなた……そう、あなたも来てくれた方が良かったわね。でもちょっと待って」
花琳は許靖から武術四人娘へと向き直って尋ねた。
「游があの月の少し右側から嫌なものを感じているようなんだけど、あなた達は何か感じるかしら?」
四人は花琳が指さしたほうを向き、じっとそちらの方を見た。
その様子、目つきがこの世のものを見ているのではないように思えて、許靖は少し怖かった。
やがて、まず凜風が口を開いた。
「言われてみれば確かに……嫌な感じ。でも、こういうのは翠蘭のほうが得意よね。どう、なにか感じる?」
「お姉様の言う通り、私も嫌な感じがしますわ。しかも大きいというか……数が多いような……」
翠蘭の言うことに芽衣も同意した。
「あ、確かにそんな感じかも。でも言われてみれば、くらいだけど」
許游は母親の横に立って不満そうな、そして不安そうな声を上げた。
「嘘だろ母さん、これものすごく嫌な感じだよ。何ていうか……五百人くらいが殺しにかかって来るような感じがする」
「殺しに!?」
許靖は許游の言葉に驚いて声を上げた。
「殺しにって……殺気のようなものを感じるということか?」
平時ならともかく、今は戦時だ。しかも成都は完全に包囲されている。
城壁から多人数の殺気が放たれているなど、冗談では済まされない。
加えて、こちらの守備兵が活発に動いているようには見えなかった。
ということは、夜に乗じて敵軍が城壁を越えようとしており、しかもこちらの軍は気づいていないということだ。
花琳も皆と同じ方向を見ながらため息をついた。
「四人とも同じ様に感じているのなら間違いないでしょうね。あなた、まずは軍へ連絡してください。ちょっと説明は難しいでしょうけど、太守のあなたが言えば動いてくれるはずです」
「分かった、そうしよう。だが、花琳たちはどうするつもりだ?」
許靖はそれこそ嫌な感じ、というか嫌な予感がして聞いた。
花琳は許靖を見ず、城壁の方を睨みながら答えた。
「私は……行きます」
それは許靖にとって予想していた回答だったとはいえ、認められるものではなかった。
「行くって、どこへ?」
許靖は分かりきったことをまた聞いた。
花琳も許靖が分かっていることを知っていたから、わざわざ直接の回答をしなかった。
「城門が開いて街が戦場になれば、多くの民間人が殺されます。しかもこんな暗い時間なら、なおさら」
許靖は花琳の腕を掴んだ。
「何を言うんだ!花琳だって兵ではない、民間人だ。戦に参加する必要などないだろう」
花琳は許靖の腕を掴み返した。
そしてその手に力を込め、夫に鋭い目を向ける。
それは花琳が許靖に向ける目にしては珍しく、負の感情を帯びているように感じられて許靖はたじろいだ。
「……揚州で軍から逃げる時、港に残るあなたと欽を私がどんな思いで見ていたか分かりますか?」
花琳の手と声は、震えていた。
花琳は息子を失ったあの日、逃げる船から飛び降りて、港に残る夫と息子のところへ行こうとした。
しかし、周囲に人間たちから羽交い締めにされて止められた。さらに許靖から産気づいた芽衣を守るよう言われたことを思い出し、心を押し潰されそうになりながら許靖を信じて待つことにした。
その結果、許靖と許欽の働きで船の乗員たちは助かったものの、花琳は息子を守ることはできなかった。
「あの時、私は初めてあなたを憎いと思いました」
花琳は目に涙を浮かべていた。
許靖は言葉を失った。妻のこんな目は、数十年に及ぶ結婚生活で一度も見たことがなかった。
花琳に掴まれた腕は痺れるほど締め付けられている。
「もちろん、今でもあなたのした事が間違いだったとは思いません。あなたがああしなかったら、船の人間は皆殺しでもおかしくありませんでした。でも……今でも母として、息子を見殺しにしてしまったように思えて……私は苦しい……」
花琳の頬を、一筋の涙が伝った。
そしてそれが地面に落ちた時、許靖は掴んでいた花琳の腕を離してしまった。
花琳も許靖の腕を離し、城壁の方を睨みつけた。
「だから、私は行きます。もう家族を失いたくない……でも、芽衣たちは連れていきません。芽衣、あなた達は万一に備えてここで怪我人や病人を守ってちょうだい」
花琳にそう言われた芽衣は、この娘らしく軽く笑って首を横に振った。
「花琳ちゃん。欽兄ちゃんのことは私だって同じくらい後悔があるよ。私だって家族を守りたいと思ってる」
芽衣に続いて翠蘭も声を上げた。
「私も!……私も、家族を守りたいです。私にとって家族は、何よりも大切なものですから」
凜風もからりと笑って続いた。
「私も大切な家族、とりわけ大切な妹は絶対に守らなくちゃいけないから。ただ待ってるって選択肢はないよね」
「お姉様……」
翠蘭は姉の手を優しく握った。姉も妹の手を握り返す。この姉妹は時を重ねても相変わらずどころか、より仲睦まじくなっていた。
女たちの意思は固いようだ。
許靖はそれでも行かないで欲しいと思った。しかし同時に、この女たちを止めることは出来ないのだということも悟っていた。
特に息子を亡くした時のことを思えば、花琳には何も言えることがない。
ただし、一つだけ譲れないこともあった。
「春鈴と許游だけは絶対に駄目だ。二人とも、ここの病院で待っていなさい」
祖父の言葉に許游は素直にうなずいたが、春鈴は不服そうに声を上げた。
「でも、私だって……」
「駄目だ!約束したはずだぞ。この戦の間、絶対に戦わないと」
「それは……そうだけど……」
春鈴の声は尻すぼみに小さくなっていったが、それでも不服がにじみ出ていた。
花琳はそんな春鈴の肩にそっと手を置いた。
「春鈴。ここの人たちは、守ってあげなくてはならない人たちよ。恐らく敵もわざわざ病院を襲ってきたりはしないだろうけど、もしもの事があったら自分の足で逃げることもままならない人が多いわ。あなた達が守ってちょうだい」
「……分かった」
これ以上の反論は無駄と分かった春鈴は、不承々々うなずいた。
「それと芽衣、凜風、翠蘭。あなた達には城壁ではなくて、別に向かって欲しいところがあるの。杞憂かもしれないけど……」
芽衣は自分の胸を軽く叩いてみせた。
「よく分かんないけど、任せといて。花琳ちゃんの言う通りにするよ」
花琳は最後に許靖に向き直った。
「では、あなたは軍へ走ってください。全力で」
「分かった。皆、絶対に無事でいてくれ」
許靖は祈るような気持ちでその言葉を残し、言われた通り全力で駆け出した。




