189 約束
「え!?ナマズ髭さん、死んじゃったの!?」
春鈴は驚きのあまり、祖父の部屋で大声を上げてしまった。
あまりに大きな声だったので、隣りに座る弟の許游が顔をしかめて耳に手を当てた。
「ん?ナマズ髭?」
許靖は聞き慣れない単語を耳にして聞き返した。
「あ、いや……張占さん。でも処刑って……」
春鈴と許游の二人は祖父の部屋に呼ばれ、話を聞かされた。
張松が裏切って劉備を引き入れていたこと、それで戦になるであろうこと、そして張松とその妻子の処刑が決まったこと。
「まだ実行はされていないが、そういう判決だ。父親である張松殿の罪があまりに重すぎる。今後裏切り者を出さないためにも、妻子も含めて斬首ということになった」
張松は劉璋に仕えながら、その政権を他の者に奪わせようと画策したのだ。言ってみれば売国奴であり、最上級の罪を与えられても仕方がないだろう。
しかし、春鈴はまだ十五だ。人の死を受け入れるのに少し時間がかかる。特につい先日まで元気だった者が死ぬと聞いても実感が湧きづらかった。
それに、納得もできない。
「でも、息子の張占さんが悪いことをしたわけじゃないのに……」
その点に関しては、許靖も春鈴の言うことに同意だった。
全て父親である張松がやったことであり、その責任が妻や子に及ぶということに許靖自身も疑問を抱き続けている。
「そういう世の中なんだよ」
許游が諦めたような言い方でそうつぶやいた。この子はまだ十五にも関わらず、変に世を諦観したようなところがある。
許游の言う通り、この時代では連帯責任で親族まで罰を被るという事が当たり前にあった。場合によっては妻子どころか、もっと広い範囲の親族までまとめて誅せられることもある。
連帯責任。
まったくもって意味不明な単語である。罪がなくとも罰を受けるのだ。
犯罪防止・違反防止だと考えても、一部の運の悪い人間が損をする制度とは一体何なのだろう。
しかも人間同士の負の感情を利用し、連帯責任が発効した場合にはその人間関係が壊れることを前提としている。
許靖はこの点に関して、孫たちに正しい回答を与えてやることは出来なかった。
しかし、二人に一つだけ教えておかなければならないことがある。
「春鈴、許游。よく覚えておきなさい。これが戦というものだ。今回の処刑も裏切りへの見せしめという性質を持つ以上、結局は戦の一部だ。戦では罪のない者が次々に命を落とす。悪いことをしたかどうか、そんな事は関係ない。相手を自分の好きにするために、自分の理屈を通すために、自分の利益を確保するために、罪の有無を検討することもなく殺し合う」
平時ではたとえ死刑になることが明らかな重罪であっても、それが本当に死に値する罪であるかが検討される。しかし戦ではそのような検討などあるはずもない。
個人の罪など考えず、『戦争状態にある』『その相手が目の前にいる』というに二条件が揃うだけで殺すのだ。
もちろんここに『相手が戦闘員である』『戦闘の意思がある』という、もう二条件が加わることもあるわけだが、それには相手の良識を期待しなくてはならない。
春鈴も許游も、祖父に対して何も答えられなかった。
二人とも人を壊す術である武術を教わってはいるが、実際の殺し合いを本気で考えるには花琳の道場は暖か過ぎる。
それに花琳は『武術は人を傷つけるために学ぶものではない』と常日頃から諭してきた。
もともと人を傷つけるのが嫌いな許游はもちろん、武術に積極的な春鈴にとっても相手を殺すということを想像するのは難しかった。
だが、今回のことで二人は二人なりに様々なことを考えるだろう。もしこの戦を無事に生き抜くことができたなら、二人は善くも悪くも大きく成長するはずだ。
祖父として、孫たちには善い方向へ成長してもらいと思っていた。
「それと、特にここからが大切だからよく聞きなさい。もし戦闘に巻き込まれることがあったら、とにかく危険を避けること。逃げるんだ。絶対に戦ってはいけない」
春鈴はそれには笑って答えた。
「靖じい様。心配してくれるのは嬉しいけど、私たち結構強いよ?少なくとも普通の人よりはかなり死ににくいと思うけど……」
バンッと部屋に大きな音が響き渡った。
許靖が目の前の卓を強く叩いたのだ。祖父は怒っているようだった。
春鈴も許游も驚いて身をすくませた。温厚な祖父のこのような姿は、産まれてこの方一度も見たことがなかった。
「だから私は怖いんだ!……お前たちは確かに強い。だがどんなに強い人間でも、死ぬ時は死ぬんだよ。私はお前たちがその強さに油断して、危険に身を晒してしまうのが恐ろしくて仕方ない……」
卓を叩いた許靖の手は震えていた。
春鈴と許游はその手を見て、祖父が心の病の発作を起こしているのだと気がついた。
祖父が董卓につけられた心の傷のことは二人とも知っている。今までも何度か目の前で発作を起こしていた。
許靖は喘ぐような声を上げた。
「人など、簡単に死ぬんだぞ……簡単に殺せてしまうんだ……」
許靖は震える手を握りしめた。すると、握るほどに血で滑った剣の感触が蘇ってくる。
その剣で十人殺した。いつまでも、忘れることができない感触だった。
春鈴と許游は許靖の手の上に自分たちの手を重ねた。小さい頃から、手を握ったり抱きしめてあげれば、祖父が少しずつ落ち着いてくることを知っているからだ。
実際、孫たちの手の温かさで、許靖の呼吸は徐々に緩やかになってきた。それは優しい温かさだった。
許靖はこの温かさを失いたくはなかった。
「春鈴、許游……この戦の間、絶対に戦わないと約束してくれ。お前たちは、私が必ず守るから」
孫二人は哀願するような祖父の瞳に、ただ無言でうなずいた。




