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183 虎を放つ

「いや、ここのナマズ料理は最高ですね。さすがは厳顔(ゲンガン)殿、良い店をご存知だ。しかもご馳走していただいて……」


 許靖は出てきた料理に舌鼓(したづつみ)を打ちながら、あらためて礼を述べた。今日は厳顔に誘われて食事を馳走になっている。


 小ぢんまりとした庶民向けの店だったが、厳顔がわざわざ連れて来ただけあって美味い。やはり年の功か、厳顔はこういった知識が豊富だった。


 ナマズが香草で焼かれたもの、煮られたもの、油で揚げられたものが出されていた。


 中国ではナマズは一般的によく食べられている食材で、許靖も当然食べ慣れている。しかし、この店のナマズ料理は今まで感じたことのない風味と透き通った味がした。


 厳顔は許靖の礼に対し、首を横に振った。


「いやいや、礼を言わなければならないのはこちらの方です。許靖様がお声掛けしてくださったおかげで、今一度劉璋(リュウショウ)様に考えを述べる機会を得られました。さすが(しょく)郡の太守は力があられる」


 厳顔の言葉通り、許靖の今の役職は蜀郡太守だ。


 ()郡の太守から広漢(こうかん)郡の太守を経て、蜀郡の太守へと転任した。


 転任、といっても実際には栄転だ。広漢郡は益州の首都とも言える成都(せいと)に隣接する郡であり、さらに蜀郡はその成都が属する郡だ。


 言ってみれば、県知事が都知事になったようなものだろう。


 つまり許靖は太守としてより重要な土地を治めるようになっている。他人から見れば、許靖は相当な権力者だった。


(しかし、実際にはそこまでの力はない……)


 現実にその立場になってみると、そう簡単なものではないと思うことが多かった。


 厳顔と今話題にしようとしていることに関してもまさにそうだ。


「いえ、私など……それで、劉璋様のご反応はいかがでしたか?」


 厳顔は箸を止めて、ため息をついた。


 許靖にはそれだけで大体のことが察せられた。


「だめ、でしたか」


 厳顔はうなずいて肯定した。


「一人山奥で座し、猛虎を放って自らを守らせるようなものだとお話したが……分かっていただけなかった。そんなことをしたら、虎に食われるに決まっている」


「やはり劉備(リュウビ)殿は猛虎、ですか」


 許靖は若干の暖かい懐かしさを滲ませながら、その名前を口にした。


 劉備。


 この乱世における群雄の一人で、中山靖王劉勝ちゅうざんせいおうりゅうしょう(過去の皇族)の血を引くと自称している男だ。


 それが今、この益州に来ていた。しかも二万の軍勢を引き連れて。


 といっても、益州を侵攻しに来たわけではない。むしろ、益州の主たる劉璋に請われて入蜀して来たのだ。


「あれが猛虎でないなら龍の類ですな。なんにせよ、危険です。いくら他者との連携が求められる時代になってきたとはいえ、このやり方はあまりにも……」


 劉璋が劉備の入蜀を求めたのは、ここしばらくで乱世という時代が一段階進んだのが最も大きな要因と言える。


 後漢王朝が実質的な力を失って以来、各地に群雄が割拠し互いに競い合う時代が続いた。


 初め頃の群雄たちは州一つかそれ以下程度の領地をもって争う場合が多かったが、戦って相手を倒せばその領地が手に入る。自然、統合が進んで群雄は少なくなり、一人一人の規模は大きくなる。


 許靖は龍たちが互いを飲み込んで大きくなろうとする姿を思い浮かべた。


「ここ益州は天然の要害とはいえ、こうして一つ一つの勢力が大きくなればいつ攻め込まれるとも限りません。私もどこかと手を組むこと自体は必要だと思いますが……」


 益州がこの乱世の中でも無事でいられたのは、群雄たちにとって益州を攻めるのが危険だったからだ。


 ただし、それは益州の反撃が危険だからではない。峻険な山に囲まれ攻めるのに難しい土地であり、攻めている間によそからの攻撃を受ける可能性があったからだ。


 そういった事情の中で、益州は独立国のような自治を保つことができていた。


 しかし今は勢力の数が少なく規模も大きいため、敵国を牽制しつつ益州を攻めるだけの兵力を持ちうる情勢なってきている。益州だけが安心して山奥に座していられる時代ではないのだ。


 厳顔としても、他勢力と手を組むこと自体には賛成だった。しかし、現在の状況には賛成できない。


「百歩譲って劉備と組むのは良いとしましょう。しかし何の警戒もなくその軍勢を招き入れて、漢中の張魯(チョウロ)を討ってもらおうなどという甘い考えが通用する時代ではありません」


 許靖もそれには同意だった。


 益州を治める劉璋は配下の進言に従い、提携相手として劉備を選んだ。そしてその軍勢を益州に入れて、北の反逆勢力である張魯を討たせようとしている。


 張魯は益州の北に位置する漢中(かんちゅう)という土地を支配下に置く群雄の一人だ。五斗米道(ごとべいどう)という宗教勢力の長でもある。


 漢中は元々劉璋の父である劉焉(リュウエン)の支配下にあったが、もう長く不服従を続けていた。


 劉璋のそういった依頼を劉備は快く受けて、益州の地に軍勢を進めてきたのだ。


 しかし要害の地の中へわざわざ他の軍勢を入れるなど、あまりにも危機感がなさすぎる。人を信じるにしても、劉璋の人の好さが悪い方向に出てしまった最たる例だろう。


 許靖もこの話はあらかじめ聞いていたが、はっきりと反対していた。


「私もあまりに危険だと思いました。劉璋様にもそう伝え、劉備殿の人となりもお話したのですが……」


 許靖は過去に劉備を()たことがある。


 世間では劉備はとても徳の高い群雄として認知されているが、それは許靖の鑑たものと少し異なる。


 劉備の瞳の奥の「天地」には巨大な劉備自身がいて、それが「天地」の全てという珍しい男だった。


 それは劉備が巨大な自我の塊であるということを示している。心が「人」そのものであると言ってもいい。


 劉備の徳が高いと評判なのは、ひとえにその器の大なるがために過ぎない。


 であれば、劉備がその器で必要だと思えばどんな不徳なことでもやりうるだろう。少なくとも許靖はそう思っていた。


「ですが、私が劉備殿を鑑たのはもう何十年も前のことです。そして何より、私は軍事が専門ではありませんから……」


張松(チョウショウ)法正(ホウセイ)孟達(モウタツ)の仲良し三人衆が、そう言って口を塞ぎにかかってきたのですな。人の嫌なところを突くのがうまい奴らだ」


 許靖は厳顔の言い様に笑いながら、軽くうなずいた。


 張松、法正、孟達は、劉備の軍勢を受け入れる事を最も強く主張していた三人だ。


 厳顔の言った通り、この三人はとても親しい朋友同士だった。


「ですがまぁ……こと軍事に関しては知識も経験も無いのは確かです」


 そこを突かれると、許靖には何も言えないところがある。


 実際のところ自信もないから、軍事の議題で『これはこうだ』と言われれば単純に『そうなのか』と思ってしまうところもあった。


(ただ、それでも今回のことはあまりに危険すぎるように思える。歴戦の武人たる厳顔殿から言ってもらえば、多少は響くかとも思ったが……)


 折り良く厳顔自身から劉璋に繋いでほしいとの依頼が来たため期待を込めてそうしたのだが、やはり駄目だった。


 厳顔は今、将として巴郡の守備を一任されている。太守には趙韙(チョウイ)の一族である趙莋(チョウサク)という男が任命されているが、軍事は厳顔が取り仕切っていた。


 元々今回の措置には反対を表明していた厳顔だが、ここ最近は劉備の動きを探らせてより危機感を募らせていた。


 それで成都まで出向いて劉璋への警告を行ったのだった。


「劉備は葭萌関(かぼうかん)に布陣して以来、漢中を攻める気配を全く見せません。それどころか多くの有力者に会い、将兵と歓談し、益州の人心を掴むことに必死になっております。しかも、すでにかなりの人間がほだされているとの報告で……」


「人をほだす……それが劉備という男です。そういったことが出来る男なのです」


 許靖は劉備の瞳の奥の「天地」を見た時のことを思い出していた。


 その「天地」の中で、長く大きな腕に包み込まれる。その心地良さは、いまだに胸の奥底にうずくまるようにして残っていた。


 厳顔は震撼した。


「恐ろしい。武将として、相手にそのような人間がいることほど恐ろしいことはありません」


 厳顔は『戦は人だ』と思っている。


 人と人とが争う。であれば、より多くの人、より強い人を味方にできる者ほど強い。


 許靖は戦に関して素人だが、厳顔の言わんとする事は分かる。コクリとうなずいたが、また別のことも思った。


(そう言っている厳顔殿自身も、劉備殿に会えばきっと惹かれるだろう。それは人として仕方のないことだ……と言っても、もしかしたら厳顔殿は劉備殿よりも張飛殿と合うかもしれないが)


 厳顔の瞳の奥の「天地」は岩であり、張飛の「天地」は地だ。性質が似ているもの同士は気も合いやすい。


 厳顔は一つため息を付いてから、酒を大口で煽った。


 大きく喉を鳴らし、それからため息とは違う熱い息を吐いてから快活に笑った。


「まぁ、ここで無駄に心配していても仕方ありませんな。そうなったらそうなったで、私は必死に戦うだけです」


 許靖には厳顔の笑顔が眩しく感じられた。


(これなら巴郡の兵はよくついてくるだろうな)


 それで戦に勝てる保証などはないが、蜀郡の太守としては頼もしい限りだった。


 明るく酒を飲んでいた厳顔は、ふと思い出して許靖に尋ねた。


「そういえば許靖様について、妙な噂を聞きましたぞ」


「なんでしょうか?」


「なんでも今回の劉備入蜀を企図した張本人である張松の息子と、許靖様の孫娘に見合いの話が進んでいるとか。孫娘というと、あの春鈴ですな。いや、まさかとは思ったのですが……」


「あぁ。本当のことですよ」


 多少声を小さくしていた厳顔とは対象的に、許靖は軽く応じてみせた。


「張松殿と私とが劉備殿の件で対立したのは確かですが、別に孫には関係のない話ですから。それに結婚は本人同士が考えて決めればいいものです。会うだけ会ってどちらかが違うと思えば、縁談を進める必要もありませんし」


 この時代、なかなか普通はそうも思えないものだが、許靖の姿勢に厳顔は感心した。


「さすがは許靖様、ですな。しかし許靖様が応じたということは、張松の息子と春鈴との相性は良いということですか?」


「いえ、今回は私が特別にそう思ったわけではありませんよ。どうも先方が街で見かけた春鈴に一目惚れしてしまったとかで……かなり強く頼み込まれました」


「なるほど。確かにあの娘は腕っぷしに似合わず、綺麗な顔をしている」


 厳顔は花琳の道場に通っていたので、春鈴とも面識がある。その武術の才を認めていたし、春鈴は春鈴で厳顔を三人目の祖父のように思って懐いていた。


 許靖は見合い相手の「天地」を思い浮かべながら、目の前に並んだ料理に箸を付けた。


「まぁ二人の相性が明らかに悪ければ私も止めるのですが、そうでもないと思うんですよね。水と魚で……ん、美味い。やはりここのナマズ料理は最高です」


 厳顔は誇らしげに厨房の店主を指した。


「そうでしょう?あの店主が良いナマズのいる川を知っているのです。水の澄んだ所に棲むナマズは泥臭さがありません」


 ナマズは現代の中国でも非常によく食べられているが、その身は見た目の印象と大きく異なり上品で臭みが全く無い。特に養殖では水のきれいな環境で飼育されるからだという。


 許靖は厳顔の説明に大きくうなずきながら、また舌鼓を打った。


「なるほど。それほどきれいな水質の川があるのですね……ん?川?」


 許靖はそこでふと気づいた。


「川……川……ナマズ……ナマズは川魚、ですね……」


 つぶやくように当たり前のことを言った許靖に、厳顔が笑って答えた。


「ええ。確かにナマズは川魚ですが、それがどうかしましたか?」


「いえ……川魚を海に入れると、どうなりますかね?」


「私は海のない土地で生きてきたので詳しくありませんが、川魚は海の水では生きられないと聞きます。死ぬのでしょうな」


「ですよね……死にますよね……」

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