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181 個別の事案と斡旋

 花琳は叫ぶような声を上げて、老人に抱きついた。


 老人は軽くよろめいたが足腰はしっかりしているらしく、花琳を抱きとめた。


「おお……久しぶりだな、花琳。本当に久しぶりだ。なのに、お前は何も変わらないな」


「嘘。すっかり齢を取りましたよ」


「何を言う。父親にとって、娘はいつまでも可愛い娘のままだよ」


 花琳は目に涙を浮かべて父、王順(オウジュン)との再会を喜んだ。


 許靖もあまりの懐かしさに胸を熱くしながら歩み寄る。


「王順さん、お久しぶりです。お元気ですか?」


「この齢で元気も何もない。日々あちこち悪い所が出てくる。しかもこの老人に長旅をさせて、また働けと言ってくる者がいるのだからな」


 王順は笑った。その笑顔に浮かぶシワが明るくて、許靖がずっと抱えていた一つの不安が消えた。


 高齢になり商いを引退した義父に、新たな仕事を頼むのは迷惑だったのではないかと心配していたのだ。


「大丈夫ですよ。細々した仕事は全て習平(シュウヘイ)さんがやってくれます。生活は美雨(ミウ)さんがいれば安心ですしね。そうでしょう?」


 許靖はそう言って王順についていた夫婦へ向き直った。


「習平さん、美雨さんも本当にお久しぶりです。お元気そうで何より」


 夫婦は王順の店の元番頭、習平とその妻の美雨だった。王順と同じく十数年ぶりの再会となる。


 習平と美雨も懐かしさに頬を綻ばせた。それもまた、明るい笑顔だった。


「ええ、元気も元気。また旦那様にこき使われるかと思うと、ため息が出そうなほど嬉しいですよ」


「何言ってるの。この人こんなこと言ってますけど、今回のことが決まってから急にいきいきし始めたんですよ?」


 妻にそう言われた習平は、明るい笑い声をよく晴れた空へと飛ばした。気持ちの良い天気もまた、再開を祝してくれているようだった。


 許靖が二人の縁談に一役買ったこともあり、洛陽に住んでいた時には親密な付き合いをしていた。洛陽を離れてからもずっと手紙のやり取りは続けている。


 そして手紙で経済に関する相談をしている内に、夫婦でこちらに来ても良いという返事をもらえたのだ。


 高齢の王順に斡旋役を頼むことができたのは、実務的な部分を習平にやってもらえる目算が立ったことが大きい。


 それに、習平も商人としての実績は十分過ぎるほどだ。許靖としては将来的に習平を中心に斡旋機関を回してもよいと考えている。


(皆、新たな生活に希望を持って益州に来ている。安心して暮らせるようにしなければ)


 頼んだ側の許靖としては、太守としての仕事にいっそうの熱が入るのだった。


「も、もしかして……豫州(よしゅう)の大商人、王順様ですか?」


 震える声に振り返ると、趙才が信じられないといった顔で王順を見ていた。


「いかにも私は王順だが……大商人、か。今は古ぼけた骨董品にすぎないが」


 王順は自嘲して、深くなった顔のしわを撫でた。


 趙才はそれに大きくかぶりを振った。


「そ、そんなことはありません!王順様の敷いた流通網で、この乱世の中でも私ども商人たちは商いが出来ているのです。それに、王順様は私が商人を志した幼い頃からの憧れです。ずっと……いつかは超えたいと思って働いてきました」


「ほう……超えたいか。ならば、あなたは商人としての見込みがある」


「……!あ、ありがとうございます!」


 趙才は珍しく、顔を赤くして興奮している。


 許靖がこの男らしくないな、と思っているところへ、趙才はさらに趙才らしくないことを言い出した。


「あ、あの……もしよかったら、握手を……」


 趙才がおずおずと差し出した手を、王順はすぐに握ってくれた。


(ちょっと面白いものを見られたな)


 許靖は目を輝かす趙才を愉快な気持ちで眺めつつ、三人を招聘した者としてあれこれ説明を始めた。


「紛争斡旋機関の始動は一月後を予定していますので、それまではゆっくりとこの土地に慣れてください。生活に必要なものはきちんと用意させてもらっていますし、屋敷も良い物件を押さえました。三人で使うには少し大きな屋敷かもしれませんが……」


 そこまで聞いたところで、習平が口を挟んだ。


「三人?三人ではないのだが……」


「え?」


 許靖は驚いた。王順、習平、美雨の三人以外に誰か来るとは聞いていない。


 習平が王順の顔を見た。


「旦那様……奥様とお嬢様も来ること、手紙で伝えたっておっしゃってましたよね?」


「いや……すまない、そういえば失念していたかもしれない……」


 王順の返事は妙に歯切れが悪かった。


 許靖は以前に交州へと避難する際、陳覧から聞いていた話を思い出していた。


(王順さんのお嬢様というと……十年くらい前に産まれたという子のことだな。王順さんの齢も齢だし、娘の花琳に伝えづらかったのかもしれない)


 許靖は王順の気持ちが少し分かる気がした。


 その子と花琳とは腹違いの姉妹になるが、かなり齢が離れている。しかも、恐らく母親は花琳よりも年下だろう。


(いや、年下などころか……母親は多分花琳の娘くらい、その娘は孫くらいの年齢だろうな)


 実際、十年ほど前に産まれた子だとすると、花琳の孫である春鈴、許游とほぼ同年代のはずだ。そう考えると、伝えづらいのはなんとなく分かる。


 許靖は王順を気遣って、出来るだけ明るい声を出した。


「大丈夫です。全く問題はありません。五人で住んでも十分な広さがありますから。お二人はどちらで?」


「いや、あれらはすぐには来ない。なんというか……体調が優れず……交州の知人の商家で休ませてもらっている」


 王順はまた少し口ごもり、珍しく狼狽したような様子だった。


 許靖も花琳も不思議に思った。このような様子の王順は、あまり見たことがない。


 その一方で、習平と美雨は二人で顔を見合わせてにんまりと笑っていた。


 それから美雨が可笑しそうに口を開く。


「許靖さん、実は全部で五人じゃないんですよ。六人になる予定」


「六人?いや、でもここにいる三人と、奥さんと娘さんと……」


「それと、奥様のお腹にいる子がもう一人」


 美雨の言葉に、許靖と花琳の目が勢いよく王順の顔を向いた。


 しかし王順は二人と目を合わさず、店の商品の方を向いている。ただし、どの商品にも全く焦点が合っていなかった。


(王順さん……もう七十をいくつも越えているはずだが……)


 許靖は色々と思うところがあったが、男としては尊敬の念も浮かんだ。


 王順に誰も何も言えないところへ、趙才が声をかけた。


「王順様は、お子が何人おいでです?」


 王順には沈黙が辛かったのか、渡りに船というようにすぐに趙才の方を向いて答えた。


「上に二人兄がいる。そして今は娘が二人だ」


「なるほど、ではもうすぐ五人になられる予定ですね。でしたら私は六人以上は作りましょう」


 趙才は憧れの人に会えて舞い上がっているのか、妙なことを言い出した。


(何を競っているんだ……)


 許靖は半ば呆れてそう思ったが、口には出さずに別の言葉を口にした。


「……めでたい!本当にめでたいことです!おめでとうございます!」


 こういったことは結局、どんな事情があろうとも最終的にはそこに行き着くしかないのだった。

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