157 前言撤回
人の笑い方にはいくつか種類があるが、引き笑い、というものがある。息を吐きながらではなく、吸いながら声を出す笑い方だ。
益州刺史の劉璋は、その引き笑いをする男だった。
「すいません……失礼とは思いますが……可笑しくて……」
ヒッヒッと苦しそうに笑いながら、許靖に謝った。
「いえ、私もまさかこんな形で即日前言を撤回する事になるとは思いませんでした。もはや笑うしかありません」
許靖の方は兄の屋敷にいる時からずっと苦笑しか浮かばない。
劉璋は目尻の涙をぬぐった。
「しかし……これまで太守という役職に就いた人間は数多いますが、家族を食べさせるために仕方なくそうしたのは許靖殿が史上初めてでしょう」
「それはまぁ……そうかもしれませんね」
喜んで太守になった者、嫌がって断った者はいただろうが、仕方なく就任というのはあまり例がないだろう。
ただ、許靖は今の発言が少し失礼だったかもしれないと思い、言い直した。
「いえ、仕方なくというわけではなくて、就任させていただくからには粉骨砕身……」
「いやいやいや、そんな肩肘張っていただく必要はありませんよ。むしろ力を抜いて、ゆったりと全体を見ていただいた方がいいと思います。前にもお話した通り、益州では各勢力の均衡が何よりも大切になりますから」
劉璋の言はもっともだが、これから先の心労が目に見えるようで許靖はげんなりした。
あちらこちらに気を遣いながら政務を取らなくてはならないということだ。太守となると結構な高官ではあるが、間違っても好き勝手な事はできそうもなかった。
劉璋はそんな許靖の心中を察し、心配してくれた。
「色々と不安がおありでしょう。そうだ、いったん交州へ帰って来られたらどうでしょうか。こちらに移るつもりではなかったのだから、片付けも挨拶も十分にされていないのでしょう?」
劉璋は、それで許靖の気持ちが落ち着けば、と純粋に思いやってくれたのだが、許靖はそう言ってくる劉璋自身に不安を抱いた。
(そのまま帰ってこなくなる可能性だってあるだろうに……信頼してくれるのは嬉しいが、やはり人が好すぎる)
個人的には劉璋に強い好感を抱いているものの、乱世の為政者として優しすぎるのはいかがなものか。
同席していた副官の張裔も許靖と同じことを思ったようで、口を挟んできた。
「劉璋様、実務上のことを申し上げますと、出来れば巴郡太守には早めに就いていただけた方がよろしいかと」
その言葉は嘘ではないだろうが、一番の懸念は許靖を一時帰すことへの不安だろう。
許靖はそう感じたし、それは副官として注意を払うべき事柄だ。
ただ、いったん帰らせてもらえるというのは正直助かる。許靖は一つ提案をしてみた。
「私も妻も馬には乗れますので、お貸しいただければ出来るだけ早く往復して参ります。それと、よろしければ劉璋様の信頼が置ける方を誰か同行させてください。私は交趾郡太守の士燮様に良くしていただいているので、そちらへもご紹介いたしましょう」
張裔はその言葉にピクリと眉を上げた。
許靖の提案は急いで往復するというだけではなく、監視役としての同行者を受け入れるということ、そして交州を支配する士燮への誼を通じる手伝いもするということが含まれている。
張裔はこれを有意義な提案と捉えた。
そして許靖はさらに提案を重ねた。
「それと、もしよろしければ同行者の方をそのまま太守になってからの副官としてお貸しください。劉璋様の推薦される方なら私も安心です」
これはつまるところ、太守になった後も劉璋の監視を受け入れる、という宣言だ。
劉璋の側からするとこれ以上ない提案に、張裔は大きくうなずいた。
劉璋もありがたいことだと思ったらしく、顔を綻ばせて早速その同行者兼副官を指名した。
「では、この張裔をつけましょう。これ以上ないほどに優秀な人材です」
まさか自分が指名されるとは思ってもみなかった張裔は、驚きに目を見開いた。
「わ、私でしょうか?」
「この場には他に張裔はいないでしょう。これは大任ですから誰にでも任せられはしません。それに、あなたは過去に魚復県の県長だったことがあるでしょう?巴郡のことはよく分かるはずです」
魚復県は巴郡周辺の県の一つだ。張裔の前歴はその長官だった。
考えてもみれば、適任ではある。
「しかし……」
「大丈夫。ちゃんと一、二年で戻しますよ。許靖殿の仕事が落ち着くまで、益州の従事(副官)として許靖殿に付いて差し上げてください」
州刺史の副官から郡太守の副官では左遷に当たるが、張裔は州の従事という役職のままで許靖の副官を兼務することになる。
劉璋はその辺りはしっかりと気を使ってくれた。
「……分かりました。ご希望に添えるよう、努力したします」
張裔は少しだけ考えたが、すぐにそう返事をした。
新任の郡太守が劉璋や益州に不都合な人間であったら困る。確かにこれは重要な任務であると判断した。
許靖としては張裔の瞳の奥の「天地」から優秀な人間であることは分かっていたので、ありがたいばかりだった。
その「天地」では今も工場が効率的に運営されている。高い事務処理能力がうかがわれた。
「ありがとうございます。張裔殿なら願ったり叶ったりです」
許靖の喜びが劉璋にも伝わったのか、劉璋の心も弾んだ。
そして許靖のためにさらに提案を重ねてきた。しかも次は、自身が妙に嬉しそうな様子だった。
「想定外の太守就任で精神的にもお辛いでしょう。そんな時は美味しいものを食べて、体にも心にも精をつけるに限ります。ぜひ、明日にでも食事会を開きましょう」
「食事会、ですか」
「ええ。もしよろしければ、ご家族もご一緒に。えーっと、何人でしたかな?三十……」
「三十九人ですね。私と妻も含めて」
許靖の回答に、劉璋は目を輝かせた。
「三十九人!では、私と張裔を含めて四十一人ですね。四十一人の晩餐会……これは楽しみです。私は賑やかで美味しい食事会ほど好きなものはないのですよ」
(それは瞳を見ればよく分かります)
許靖は長い箸で互いに食事を食べさせ合う人々の「天地」を見ながら、心の中でそうつぶやいた。
よほど楽しみなのだろう。許靖が否とも応とも返事をする前から、劉璋の中で晩餐会は決定事項になってしまっていた。
しかも張裔の参加は確認もせずに決まっている。
(劉璋様の欲求を叶えるダシにされたような気もするが……まぁ、うちの女性陣は喜ぶだろうからいいか)
許靖には女たちの歓声が耳に聞こえてくるようだった。
(それに、間違いなく劉璋様の望み通り賑やかな会になる)
屋敷での女たちの騒がしさを思い出し、許靖はまた苦笑いした。
思えばあの屋敷に着いてから、ずっと苦笑ばかりしている。女たちの勢いに圧倒されっぱなしだった。
しかも、今後は太守として様々な面倒事に向き合わなければならなくなるのだ。
この先の公私の心労を考えると、しばらくは苦笑いしかできないような予感が許靖にはしているのだった。




