155 兄の思惑
「許靖さん、お久しぶり。また会えて嬉しいよ」
朱亞はそう言って笑った。年老いてなお、魅力的な笑顔だった。
(相変わらず太陽のような笑顔だ。瞳の奥の「天地」も、暖かい太陽だな。陳祗とよく似た「天地」だが、朱亞さんが近くにいるおかげで陳祗もあんな魅力的な「天地」になったのだろう)
許靖は久しぶりに会った義姉の「天地」が昔のままであることを嬉しく思った。
たまに曇る陳祗の「天地」と違い、朱亞の太陽はいつでも明るく輝いている。それが周囲の人間の心をも明るくさせてくれるのだった。
(そういえば、兄上はこの笑顔が好きで結婚したのだったな。あの時は随分揉めたが……)
許靖はそんな事を思い出していた。
朱亞は元が奴隷の身分だったものを、兄が見初めて結婚したのだ。
許靖の家は、豫州ではそれなりの名家だ。
有力な政治家を何人も出すような家で、その家の人間が奴隷の娘と結婚するなど反対意見が出ない方がおかしかった。
しかも兄は朱亞のことを、こういう呼び方は嫌ったが、正妻・第一夫人にすると言って聞かなかった。妾として囲うのとはわけが違う。
(しかも結婚しようと思った理由が『笑うと可愛い』だからな。こっちが笑ってしまった)
だが、その兄の気持ちも今ならよく分かる。
朱亞は孫が大人になるような齢になっているにも関わらず、その笑顔の魅力は衰えるどころか増しているように感じられた。
(そういえば小芳が言ってたな。この世には『本物の美しさ』というものがある、と。それは若いとか、顔が整ってるとか、肌や髪が綺麗だとか、そういうものではない。それは年老いても、顔が傷ついても、肌や髪が荒れても、そんな事とは関係なく輝き続ける、と)
朱亞の笑顔は『本物の美しさ』なのかもしれない。許靖はそう思った。
「兄上のことは、ご愁傷さまでした」
そう言って頭を下げる許靖を、朱亞は手を振って制した。
「やめなさいよ、あの人が辛気臭いのを嫌いなのは知ってるでしょ?あの人は皆に笑っていて欲しいと思ってるはずよ。だから、あなた達もそうしていて」
朱亞はそう言いながら、やはり笑ってみせた。
「花琳さんも遠いところをありがとう。それとそちらの二人は……」
朱亞は依依と明明へと目を向けた。
花琳とは一応面識があるが、依依、明明の母娘は当然初対面だ。
「あ、あたしたちは……えっと……」
なんと言っていいか悩む依依の代わりに花琳が答えてやった。
「旅の道連れです。交州からの移住者の方なのですが、母娘の二人旅では危険なのでご一緒することになりました」
さすがに『あなたの夫に窃盗を働いた女です』などと言うわけにもいかず、花琳はそれだけを伝えた。
朱亞はその説明に納得したわけではなかったが、どことなく話したくなさそうな雰囲気は感じ取った。
それでそれ以上追求するのをやめた。そういう女なのだ。
「そう。じゃあ、とりあえず家に入りましょう。みんな旅の汚れを落として、一息ついてちょうだい。ほら、あなた達もとりあえず家に入って!!」
手をバンバン叩きながら大声でそう言うと、陳祗を囲んだ女たちはぞろぞろと屋敷へと戻り始めた。
陳祗もようやく圧迫から開放されてホッとしているようだ。
(朱亞さんがこの大所帯のまとめ役だと思って間違いないようだな。兄上は第一夫人、第二夫人、などと序列をつけるような人ではなかったが、自然とそうなっているのだろう)
許靖はそう推察すると共に、あらためてここに着いてからの疑問について考えた。
(兄上には妻が五人もいて、確かに子も孫も多いはずだが……兄上の子は全員が女だったはずだ。そのほとんどが嫁いで家を出ているはずだから、これだけの人数が屋敷いるのはおかしい)
見たところ、三十人くらいはいただろうか。
しかも全員女性だった。嫁いだ娘の夫はたまたま居ないのか。
許靖は屋敷の廊下でそれらの疑問について、朱亞に尋ねた。
朱亞はその質問に驚いた。
「なんだい、あの子から何も聞いてないのかい?」
「ええ、陳祗からは特に……」
朱亞はため息をついて、まだ女たちから押しくら饅頭されながら先を歩く陳祗へと目をやった。
それから先ほどとはまた別の種類のため息をついた。
「まぁ仕方ないか。まだあの齢だからね」
(それは確かにそうだが、何か、本当に重大な何かを聞きそびれているような気がする……)
許靖は嫌な予感がした。朱亞はそんな許靖へ丁寧に説明してくれた。
「あの人には私を含めて妻が五人いたのは知ってるね?」
「はい」
「その妻一人一人に、子供が二人ずついる。すべて娘だよ」
「では、娘が十人ですね」
「そう。で、その娘たちは全員結婚してて、それぞれが二人ずつ孫を産んでる」
「となると、孫が二十人」
「その孫は陳祗以外は全員女だ。だから、こんな女ばかりの大所帯になってる」
「えーっと……五人の妻と十人の娘と二十人の孫で、三十五人」
「ご名算。三十五人家族で、三十四人が女だよ」
「しかし、娘は全員結婚しているはずですよね?全員が家を出ていないのですか?それに、娘の夫は?」
許靖は一番の核心を尋ねた。相変わらず嫌な予感は続いている。
「娘たちの夫は全員、病や数年前の反乱で死んでしまったよ。しかも反乱の影響で向こうの家も大変なところが多くて、面倒みきれないってんで子供を連れて帰ってきた」
許靖は絶句した。
この時点で、自分を太守に推した兄の思惑にはっきりとした確信を持ててしまった。
(さすがに兄上一人ではこの人数は養えまい。だから月旦評で知名度のある私を太守に祭り上げてから、生活費をたかろうと……)
許靖の思考を遮るように朱亞が明るい声を上げた。
「いやぁ、許靖さんが来てくれて本当に助かったよ。実は明日の食糧すら怪しかったんだ。食べ盛りも多いから、食事を減らすのも可愛そうだしね。身内に太守様がいれば、この大人数でも食いっぱぐれることはないだろう」
許靖は表情を凍らせた。
許靖だけでなく、隣りで花琳も同じ顔をしている。
朱亞はそれに気づかない様子で明るく続けた。
「もちろん私たちもできる範囲で働いてはいるけども、小さい子供も多いし、女の賃仕事じゃ大した稼ぎにならないし。本当に飢えるか身売りするかというところだったよ」
(陳祗が『飢えるか身売りするか』と言っていたのは、巴郡の民ではなく家族のことか……)
陳祗の過剰な反応の理由がようやく理解できた。最も重要なところで大きな勘違いがあったわけだ。
許靖はおずおずと声を上げた。
「す、すいません。ちょっと厠へ……」
「あぁ、そっちの廊下を突き当たりに行って、右手の中庭の向こうだよ。案内しようか?」
「いえ、結構です。花琳も行っておこう」
「あ、はい。そうですね」
許靖と花琳はそそくさと朱亞たちの一団から離れていった。
厠の前まで行き、小声で話す。
「花琳。仮に交州へ全員連れて帰ったとして、私の稼ぎで養っていけるだろうか?」
「無理です。道場の収入を入れても無理ですよ。ちょっと多すぎます」
許靖は答えの予想できている質問をし、予想通りの答えが帰ってきた。
三十五人はさすがに多い。
「陶深に援助を頼めないだろうか?職人としては結構な高名らしいじゃないか」
「陶深さんはああいう人ですから、良いものを作るために採算を考えないんですよ。それこそ小芳が目を光らせていないと赤字にだってなりかねないんです」
「そうか……」
「そうでなくとも、長く陶深さんのお世話になるわけはいかないでしょう。人を養うのに、その場しのぎではあまりに無責任です」
許靖は花琳の言う通りだと思った。家族とはいえ、ある程度の線引きは必要だ。
「兄上め……」
あるべき兄弟の線引きなどまるで無視して弟を頼った兄を思い起こし、許靖は歯ぎしりした。
つい先ほどまで悼んできた兄の死が、今は憎らしくすら思える。しかし死んでしまっては文句の一つも言えない。
「どうしたものか……」
許靖は頭を悩ませた。
さすがに兄の妻や娘、孫たちに対して飢えろとも身売りしろとも言えない。
が、本当は一つの解決策が頭に浮かんではいる。しかし、その選択肢を取りたくはない。今さら言葉を翻すのが恥ずかしいという気持ちもある。
黙って床を睨む夫へ、花琳はポツリと呟くような声をかけた。
「……太守になれば、あのくらいの人数は養えますね」




