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113 鬱

 許靖は薄暗い天井を力ない瞳で見つめていた。


 どれだけの時間そうしているだろう。許欽を海に葬送してからずっとなので、もう数日は経っているように思う。


 何日経ったか、正確な日数など覚えてなどいなかった。それを考えるだけの気力も湧かない。


 許欽は亡くなった日の夕方、船の乗員全員に見送られて海へと流された。


 船に乗る全員にとって、許欽は命の恩人だ。その身を呈して自分たちを守ってくれたのだから、誰もが感謝と尊敬とを胸に抱いて葬列に立った。


 許欽は芽衣の名前が彫られた指輪をはめ、安からな顔をして夕陽の映る水面へと沈んでいった。


 許靖は水葬を終えてから、自分の魂もが海へ吸い取られたのではないかと思うほどの脱力感を覚えた。


 体から全ての力が抜けたようで、とにかく一人で横になりたいと思った。そして陳覧にそう頼んだ。


「お前ら親子はこの船の救世主だ。一番の部屋を空けてやるよ」


 陳覧はそう言って、楼の一室へと案内してくれた。


 そこは確かに良い部屋らしく、壁には美しい彫刻まで施されていた。


 しかし許靖にとってはどうでもよいことだ。そこが高級な部屋であろうが、洞穴だろうが関係なかった。それを喜ぶだけの気力が湧かないのだ。


 無駄に高級な部屋を断ってもよかったのだが、断るだけの気力も湧かない。黙ってその部屋で横になった。そして、天井を見つめたまま数日が経った。


 天井を見つめながら、頭の中ではずっと同じ思考が繰り返されている。


(私のせいだ。私が交州へ避難したいなどと言い出さなければ……)


 自分が戦を過度に恐れるあまり、息子の死を招いてしまった。なぜそこまで恐れてしまったのか、なぜ戦への恐怖に勝てなかったのか。


 董卓から受けた心の傷が原因だとしても、それを選択したのは自分自身だ。責任というものは、原因とはまた別に考えなければならない。


 そして何より、董卓のせいだと言われても許靖自身が自分のことを許せなかった。


(もし戦への恐怖に打ち勝つことが出来ていれば……もし交州への避難を実行しなければ……もし一人で軍を止めようなどと考えていなければ……もし許欽が残っていることに気がついていれば……もしもっと速く櫓を漕いでいれば……もし港の方へ注意を向けていれば……)


 そんな不毛な仮定ばかりが脳内を繰り返し巡った。


 過去とはもう決定してしまった事実であり、やり直せないことなど分かっている。


 しかし、何か一つでも違っていれば今の結果にならなかったのだと、人はいつまでも思い続ける。それが後悔という感情だ。


 何の気力も湧かないにも関わらず、後悔だけは望まずとも心の奥底から湧き上がってきた。


 いや、むしろすでに後悔を望んでいるのかもしれない。許靖はその暗い感情の海にどっぷりと浸かり、苦しさの中に一種の安定を見出していた。


 そしてそこから抜け出すことに、なぜか拒否感を覚えるのだった。


「あなた、入っていいかしら?」


 部屋の外から花琳の声がした。食事を持ってきてくれたのだ。


 しかし、それに反応する気にすらならない。


 許靖の返事がなくとも花琳は扉を開けた。ここの所、ずっとそうだからだ。


「船の料理人さんが食べやすいように粥にしてくれました。少しでも食べてください」


 花琳はそう言って許靖の体を起こし、口元に無理やり粥を押し付けてきた。


 許靖は仕方なく口を開けて喉に流し込んだ。料理人がしっかり作ってくれたはずなのに、何の味も感じなかった。


 許靖は三口ばかり食べてから、首を振って横になった。


「あなた、もう少し」


「……食べたくないんだ」


 許靖はか細い声で何とかそれだけを言い、花琳に背を向けた。


 花琳はそんな夫を悲しそうに見つめていたが、やがて粥を持って立ち上がった。


「明日は五日ぶりに船が港に着くそうです。そうしたら少し港町を歩きましょう。きっと、良い気分転換になりますよ」


 花琳は夫の返事を待ったが、何の反応も返ってこなかった。


 何か声をかけようかと考えたが、何も思いつかない。自分自身も息子を失って苦しいのは同じだ。どんな言葉も慰めにならないことは分かっていた。


 花琳は結局何も言わず、粥と水だけは置いて部屋を出て行った。


 普段の許靖であればその背中から伝わる悲哀に耐えられなかったはずだが、それを感じるだけの余裕すらない。心の中を、後悔と自責の念だけが埋め尽くしている。


 結局、許靖は翌日の寄港中も部屋から出てこなかった。

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