欲しかった世界に足りないもの
「こんな世界は嫌いです。」
世界を統べる大いなる国の誰より尊い若き王は、ある日突然幼馴染の側付きに言いました。
「我が君よ、どうしてそう思われるのですか?」
「もう君のその言葉からして嫌いなんです。我が友よ。」
玉座に腰掛け頭を抱え、憔悴した声で王様は言います。
「僕は君にはまだまだ名前で呼んで欲しかったのです。どうしてこの冠と椅子を押し付けられた瞬間、君は僕の名前を忘れてしまったのでしょう。」
そんなことを言われても、側付きは困ってしまいます。だってそれは決まりごとなのですから。世界でもっとも尊い方のお名前なんて、誰がおいそれと口にできるでしょう! 王様のめでたい戴冠式からもう一年あまりが経ちますが、あれから王様のお名前は誰一人として口にしたことはありません。
「忘れてなどおりません、我が君。母の名より数多く呼んだ貴方様の名を、どうしてわたくしめが忘れることがありましょう。」
「ならばどうして呼んでくれないのですか? 命令です、名前を呼びなさい。」
王笏で床を打ち鳴らして王様は命令しましたが、かつての彼の友人はお許しくださいとこうべを垂れるばかりです。
「それだけじゃありません。どうして僕だけが暖かい食事を食べられないのですか。」
そんなことを言われても、やっぱり側付きは困ってしまいます。全ては必要なことなのです。
「それは貴方様のお食事が安全であることを確認するためでございます。」
王様の食事はいつだって豪華絢爛。国一番の料理人が毎日腕に縒りを掛けて、この世に二つとない贅を凝らしたお食事を作るのが決まりごとです。ただし、それだけに毒味もたいそう手間がかかり、王様が召し上がる頃にはどれもこれもすっかり冷めてしまうのです。
「僕も君と同じように舌が焼けるほど熱いスープを一緒に飲みたいのです。ココアでも構いません。どうしてこんなことすら許されないのでしょう。」
「どうかご理解くださいませ。尊い御身を思えばこそでございます。」
いえいえ、王様には我慢できないことがまだまだたくさんあるのです。
「我が友よ、僕はできることならまた、君と寝転がって流行りの小説でも共に読みながら、眠くなるまで夜を楽しく過ごしたいのです。興味のない女の人をたくさん寄越されても困るのです!」
その言葉にこそ、ますます側付きは困ってしまいます。
「我が君よ。それは健康なお世継ぎを残していただくために、どうしても必要なことなのです。」
それに、王様の寝所に立ち入ることが許されるのは良い生まれの姫君のみと決まっています。側付きは賢さを買われて補佐役となるべく幼い頃より王と共に勉学に励んできましたが、血筋は普通の平市民ですし、性別だって女性ですらありませんでした。
「僕の言葉がそのまま世界の理だと言うのなら、我が友よ、君はいっそ今から女性になってください。そして今夜から、僕の伽役はずっと君だけに頼みます。」
そんなことを言われて、側付きはこの上なく困ってしまいます。宦官の処置を受けることはできても、彼は女性になることはできないのです。確かに偉大なる王は世界の全てを司ると言われてはいますが、そんなことがただの建前であることは城の誰もが知っています。
「我が友よ。それが無理なら、僕は現人神とか神の器とかそんなものではなかったのです。すぐに冠を外させてください。」
「なりません、我が君。ご辛抱ください。」
宥め続けるのにも疲れてしまった側付きですが、本当は彼とてわかっていました。何しろ子供の頃からの付き合いです。
王様は本当は、煌びやかで重い服なんて着せられて、磨き上げられた金の玉座を更に尻で磨き続けるなんて、そんな生活は全然向いていない性格なのです。幼い頃からこの方は、馬に乗って野原を駆け回り、虫や獣に混じって花の蜜を飲むのが好きで、山の清水を見れば服を脱ぎ捨て魚を素手で採るのがお好きな、自由奔放な性格だったのです。
そして側付きは、そんな友人のことを心から好いていました。敬愛とかお慕いとか、そんな言葉は似合わない好意でした。ただ好きだったのです。
「もうこんな世界では生きていけない……! 頭がおかしくなってしまいそうだ!!」
だから王様が真に望むことであれば、本当は、なんでも叶えてあげたい。
「こんな世界なら、僕はいらない!!」
このままでは王様の心はまもなく冷たく死んでしまうでしょう。
ならばと、意を決した側付きは尋ねます。
「本当に、今の貴方の世界はいらないのですね?」
はるか遠くの王都で、王様が殺されてしまったそうです。
神とも謳われていた王様が人の手で殺められたのですから、空が落ちてくるのでは、山が怒るのでは、大地が割れてしまうのではと、ありとあらゆる心配事が沸き起こり国は大いに騒めきました。
しかし幸いなことに犯人が厳しく処罰されたため、昇天なされた王様は民草をお許しくださったようです。
犯人はなんでも、王様に幸せになって欲しいから自分が殺して死体に火をつけ灰を海に捨てたのだ、などと意味不明な供述を繰り返していたそうです。なので王様のご遺体はないまま、立派な空の棺だけが大きなお墓に埋められたのですと。
そんな噂話が巡ってくるのにたっぷりと三年もかかるような辺境のお屋敷で、とある青年は毎日のんびりと、花や動物に囲まれながら楽しく過ごしています。
三年も前の噂が実際には嘘であると、彼だけは真実を知っていました。
彼が城から逃がされた夜、計らってくれた側付きは言っていました。
「王が死んだと見せかけて、追っ手が来ないと確認できたら、私もここから逃げるよ。貴方は先に安全な場所へ、遠くの自由の世界へ。さあ、逃げて。」
彼はその時、側付きにこう言いました。
「わかった。ずっと、ずっと待ってる。どうかどうか、だから、うまく逃げてね。」