ヒュース・ブラクネスの生い立ち
「前にも言ったが……俺は最初からスパイとして帝国に潜入した。妻と結婚したのも目くらましのために過ぎない」
ゆっくりとヒュースが話し始める。
「サクヤはその過程で産まれた娘でしかないからな。まともに向かい合ったことなんて、ほとんどないと思う」
――二十歳くらいの頃、俺は共和国で冒険者をやっててな。
帝国みたいに魔獣が出没することはないが、それでもそこそこ忙しかったよ。住民による殺傷事件、窃盗、喧嘩……そんなのは日常茶飯事だった。
だから毎日悶々としていたんだよ。これだけ頑張ってるのに、共和国は一向によくならない。俺たちのやっていることに意味はあるのか……ってな。
そんなときだ。ヴァイゼ大統領の演説を見ることになったのは。
ああ、でもそのときは大統領じゃなかったな。あくまでも幹部クラスに過ぎなかったが――それでもヴァイゼは、当時からすげえ頭角を現してたと思う。
演説の内容はおまえさんたちも聞いたことがあるようなもんだ。
皇帝ソロモアの企みについて。
いまこそ共和国が一致団結して、帝国と戦わないといけないことについて……
ヴァイゼの話には不思議な力があったよ。俺も最初は何の気なしに聞いていただけだったが、すぐに演説に引き込まれた。
で、いま共和国が混乱しているのもすべて帝国が悪い……そう思うようになったんだな。
だから俺は冒険者を辞めた。
神聖共和国党に入ったのはその後だ。
その過程で色々と知ったよ。
二千年前の戦争について。
勇者エルガーについて。
帝国と共和国の仲について……
事情を知るにつれ、帝国に対する恨みはすこしずつ膨らんでいった。
熱心な活動を続けるうちに、俺は党員から尊敬されるようになってな。二十二歳の頃には、もうリーダーになっていた。
帝国に潜入したのはその後だ。
リーダーになったからには、最前線で活動しなくちゃいけない……愚かしくも歪められた、くだらぬ正義感に突き動かされてな。
そして目くらましのために妻を娶り、娘を……サクヤを生んだ。
いつの間にか、雨がちょっと強くなっていた。
だがルイスもアルトリアも、動じることなくヒュースの話に聞き入っていた。
――妻もサクヤも、俺の思惑なんてまるで気づいていなかったよ。
俺はあくまでスパイでしかない。
なのに、毎日のように彼女たちは言うんだ。
――あなた、愛しています。
――パパ、大好きだよ!
正直、ちょっとだけ心が揺らぐこともあったよ。特にサクヤは子どもだったからな。俺が帰ってくると無邪気に笑うんだ。パパ、お仕事お疲れ様! ってな。
はは、おかしいだろ? あいつの言う《お仕事》って、帝国を滅ぼすためのスパイ活動なんだぜ?
けど、こいつらはしょせん帝国人。俺と相容れることはありえない。だから過度な干渉は禁物だと――常に自分に言い聞かせていた。
俺が失態を犯しちまったのはそのときだ。
俺が灰色のローブを被って活動しているのを、妻に見られちまった。
我ながらダサい顛末だよ。仮初めの家族に浸かることで、俺自身、ちょいとおかしくなっちまったのかもな。
当然、妻からは激しく問いつめられた。あいつには《冒険者をやっている》って嘘をついてたからな。それなのに、得体の知れない連中とコソコソ動き回っている……不審に思うのも無理はねえ。
なんにも答えない俺に、妻は泣きながらまだ言うんだ。
――あなた、愛しています――
――だからどうか、危険なことだけは辞めてください――
俺は耐えられなくなった。スパイたる俺に、まだそんなことを言うのか。俺は最初からおまえたちを騙していたんだぞ、ってな。
すべてが鬱陶しくなった。
こんな奴に惑わされるわけにはいかない。俺はスパイのために帝国に来たんだ。これじゃリーダーとして失格だ。
だから、こう考えたんだ。
――こいつを殺して口封じすれば、なにもかもが丸く収まる。
気づいたとき、俺は多くの魔獣を召喚していた。
魔獣が蔓延る帝国内において、魔獣の仕業にして殺人を犯すのは簡単だった。
……まあ、アルトリア。あんたは気づいてたようだがな。
「っ……」
ルイスは思わず下唇を噛んだ。
ヒュースの妻を殺したのが、まさかヒュース自身であったとは……
「パパ! ママは……! ママはどこにいったの!?」
サクヤは大泣きしたよ。
そりゃそうだよな。
十代そこそこの娘が、こんなこと耐えられるわけがない。
ほとんど原型を留めていない妻の遺体に寄り添って、
「ママ! 帰ってきて!」
ってひたすら言うんだ。
「私、強くなるから! ぐんじんさんになって、ママを守れるくらいに強くなるから! だから帰ってきて!」
俺もなかば疑心暗鬼に陥っていたよ。
――共和国の正義のために帝国に潜入した。
――けれど、俺がやったのは本当に正しかったのか?
――俺たちは本当に正義なのか?
わからなくなっちまったんだ。
なにもかもが。
「……いや、あんたは間違ってねえよ。共和国のために、よく頑張ってくれた」
そんなとき、俺に近づいてくる人物がいた。
そいつこそが、共和国におけるヴァイゼの右腕――レスト・ネスレイアだ。
「あんたたちは優秀な召喚士だ。だから利用させてもらうぜ。これからのためにな」
レストにそう言われたところで、俺の記憶は曖昧になっちまった。