17.約束を胸に、未来に向かって
私の頬に、愛しい人の紅が散る。
私の耳に、女が笑う声が響く。
「グラース……さん……?」
──彼の返答は、無い。
その代わりだとでも言うように、宙に浮かされたままの彼の身体が、どさりと地面に落とされた。
仰向けに落下した彼の表情は、苦しそうで……辛そうで。
虚ろげに開かれた 双眸に、いつもの優しい光は、宿っていない。
「どうして……どうして貴方が、こんな目に……」
黒い稲妻に貫かれたはずの胸元には、目立った外傷は無い。
魔女が放ったあの魔法は、彼の鎧をすり抜けて──グラースさんの心臓を貫いたのだろう。
……そっと、彼の頬を撫でる。
嫌な胸騒ぎは止まらない。
それでも私は、彼に声を掛けながら──頬から首元へ、それから胸元へと手を滑らせた。
「……でも私が、私が治しますから……。だからきっと、大丈夫です」
私の治癒魔法なら、きっと彼を癒せるはずだ。
──生命魔法は、命を落としてすぐの状態で、魂を宿らせる肉体が残ってさえいれば蘇生が出来る。
黒騎士として魔女に蝕まれていたトネールさんを蘇生しようとした時、フランマがそう言っていたのを覚えている。
トネールさんの肉体は既に滅んでいたので、あの時は何もする事が出来なかったけれど……グラースさんなら、助けられるに違い無い。
私は指先から魔力を放出するイメージで、オルコに殺されかけたあの日、自身に生命魔法を掛けた時のように魔法を構築していく。
そしていつもの治療と同じ要領で、自身の魔力で周囲に漂う精霊達の気を集めるのだ。
ここは火山。炎の精霊が最も活発化する、私の性質によく合った土地である。
これなら、きっと──!
「我が呼び声に応えよ、炎の精霊よ……」
私の命の炎を、グラースさんに分け与えるように。
彼の美しい魂が、もう一度健やかに燃え続けるように。
そんな祈りを込めながら、私は次の詠唱を口にする。
「我は望む……この炎が、健やかなる焔であり続ける事を。《フラム・アーム・アンタンシオン……!》」
柔らかな赤い光が、グラースさんの身体を包み込んでいく。
しかし、彼はピクリとも動かない。
彼の意識も、呼吸すらも戻りはしなかった。
私は想定外の事態に、何も考えられなくなってしまった。
「何で……? 確かに今、生命魔法を発動したはずじゃ……」
狼狽える私を嘲笑うように、頭上から魔女の楽しげな声が降ってくる。
「ふふふ……。わらわの呪いの雷は、例え御子の力であろうとも解く事が出来ぬ、死の呪いじゃ」
「死の……呪い……」
彼女の口から語られた内容に、誰もが言葉を失った。
その上でこの魔女は、私達を更なる絶望へと陥れようとしてくる。
「この男の魂は、永遠に闇の中をさまよい続けるのじゃ……。そなた程度の力では、これは決して覆せぬ。さあ、絶望しろ! 炎の御子よ……‼︎」
魔女は再び杖を振るう。
その次の瞬間、私の視界がぐにゃりと歪んだ。
「フラムっ……‼︎」
「フラムちゃん!」
殿下が、シャルマンさんが……皆が必死に叫んで走り、手を伸ばす。
けれども私の周りには黒い霧が立ち込めて、彼らの手が届くよりも前に──景色が移り変わっていた。
その場所は、暑くも寒くもない。
どこまでも続いているようで……けれども、圧迫感のある薄暗い宮殿の中だった。
きょろきょろと辺りを見回してみても、出口らしきものは見当たらない。
「ここは……」
「我が宮殿へやって来た女は、そなたが初めてじゃ」
「……っ!」
背後を向けば、玉座に座って脚を組む、黒衣の女性が佇んでいた。
先程まで、彼女の姿などどこにも無かったはず。
「ここはわらわの宮殿……わらわの生み出した狭間の空間じゃ」
「……こんなところに私を連れ込んで、どうするつもり? 私は貴女と違って、戦う力なんて無い。こんな事で時間を浪費している暇は無いのよ……!」
彼女を睨み付けたところで、状況が好転する訳でもない。
それでも今の私には、一分一秒すらも惜しかった。
グラースさんを貫いた呪いの雷は、私一人でどうにか出来るものではない──そう魔女が告げていた。
それなら、殿下や皆の知恵を借りて、全員の力を合わせてグラースさんを救えば良いのだ。
「……絶望、しないのか。愛しい男があのような目に遭ったというのに、そなたはわらわを……世界を呪おうとは思わぬのか?」
信じられないものでも見るような目付きで、彼女は言った。
「当たり前でしょう? 私は諦めが悪いんです。皆を……愛する人を救う為なら、私は何だってしてみせる! 貴女という伝説の魔女が相手だとしても、私は絶対に──絶望なんてしないんだから‼︎」
その時、私の言葉に反応するようにして、私の右手首──透明な水晶がはめ込まれたブレスレットが輝き出した。
「何だとっ……⁉︎ その忌々しい魔力の輝きは……‼︎」
これはシャルマンさんのお姉さん……ソルシエール家当主のコンセイユさんから譲り受けた魔道具だ。
この魔道具には確か、魂を封じ込める能力があると言っていたけれど……。
それが反応しているという事は、これを作り出した彼──魔女の瘴気を抑え込む呪具を発明した、レヴリー・ソルシエールの導き……なのだろうか。
「それをこちらに寄越せ! その魔力……覚えがあるぞ。何故それをそなたが持っているのかは知らぬが、それに込められた力は……!」
魔女は怒鳴りながら立ち上がり、私に向かって杖を振りかざそうとする。
しかし私は、彼女が行動するよりも早くブレスレットの力を解放させた。
ほんの少し魔力を流し込んだだけで、それ以上の魔力が抜き取られていくのを感じる。
「お願い……力を、貸して下さい……!」
すると、ブレスレットは更に強い輝きを放って、私と魔女を包み込んでいく。
その刹那、魔女の身体が急速に私の方へと引き寄せられ──頭を殴られたような衝撃と共に、彼女が私の中に入り込んだのだ。
ドクンッ、ドクンッ、と心臓が音を立てて、頭の中に何かが濁流のように流れ込んで来る。
私の意識はどこかへ飛ばされるように、鮮明な光景が脳内に浮かび上がっていく。
これは、レヴリーの記憶を見た時と同じだ──それを思い出しながら、強制的に叩き付けられる記憶に意識を持っていかれた。
******
その村には、とても美しい娘が暮らしていた。
夜を思わせる滑らかな黒髪に、誰もが目を惹く鮮やかな紅玉の瞳。
彼女は結婚を約束した恋人との生活を夢見ながら、森や渓谷で摘んできた薬草を売る仕事をしていたのだ。
けれどもある日、彼女は崖の上に生育する薬草を求め、誤って滝壺の中へと落ちてしまった。
その時、彼女は不思議な力を持った存在に、命を救われる事になる。
(あれは……黒い、獅子……?)
衣服が水を吸い込み、満足に身動きが出来なくなった娘の前に、黒い毛並みの獅子が姿を現したのだ。
その獅子は水に濡れた様子も無く、彼女に何かを告げてから──忽然と姿を消した。
それからだ。彼女が……ジャルジーという少女が、不思議な力を操る魔法使いと呼ばれ始めたのは。
その当時、ジャルジー以外に魔法を操れる者は存在していなかった。
何故なら魔法とは、大精霊達が人類に与えた──魔女ジャルジーと戦う為に授けた力であるからだ。
魔法の力を得たジャルジーは、その力を人助けに使った。
村の誰もが彼女に救われ、村長である父も娘を頼りにしていた。
しかしある時、そんな彼女の日々に異変が起きる。
遠くの町との商談に出掛けていた恋人が、凶悪な山賊達に誘拐されたのである。
ジャルジーはすぐに彼を助けに向かい、持てる力の全てを駆使して恋人を救い出した。
(これからもわらわが、愛しき人を守っていこう。黒獅子に授けられたこの力さえあれば、必ずや村の皆だって守っていける……!)
……そんな彼女の思いは、必ず守ると誓った人々によって裏切られる事となる。
「今、何と言った……?」
唇を震わせ、顔を真っ青にさせたジャルジーが問う。
彼女を村のはずれに呼び出したのは、婚約者である青年だった。
「だから言っただろう? お前の力は……まるで化け物だ。お前とは一緒になれない。私は街に移り住み、そこで出会った女性と将来を誓ったのだ」
「わらわが……化け物、じゃと……?」
彼女の魔力は、今もなお伝説として語り継がれる程の、強大なものだった。
青年は恐ろしいものを見る目付きで、更に言葉を畳み掛ける。
「お前は気付いていないだろうが……この村の誰もが、裏ではお前を魔の手の者──恐怖の対象と見なしている。その力に目覚め、私を山賊どもから救い出したあの日の事……忘れたとは言わせぬぞ」
「あの日……?」
ジャルジーが恋人を救い出した後、青年は彼女の力に恐怖した。
山賊達は残らず彼女の魔法によって惨殺され、彼らが根城にしていた古い砦も、跡形も無く消し飛ばしていた。
こんな強力な……得体の知れない能力を自在に操る少女を、どうすれば愛する事が出来るだろうか。
青年は商談に向かった先で、ごく普通の少女と恋に落ちていた。
それはもう、半年以上も前の事。
ジャルジーはそれを知らずに村の仲間達を──仲間だと信じていた人々を助けながら、将来を約束した恋人にまで裏切られていたのだ。
(これまでわらわが信じてきたものは……何だったのじゃ……? わらわは、皆の為に……そなたの事を一番に想って……わらわは、わらわはっ……!)
愛する男に、信じていた者達全てに絶望した少女は、その日、故郷の村を飛び出した。
──それから数年後。
彼女は魔獣を操る魔女ジャルジーとして、歴史に名を残す事になる。
******
「今、見えたのは……ジャルジーの記憶……?」
彼女が生まれ育った村と、恋人と、同じ村の仲間達。
けれども彼女は、その力を頼っていた人々に化け物呼ばわりされていた。
何より少女の心を傷付けたのは、愛していた男性に裏切られたという事実。
だから彼女はレヴリーに……シャルマンさん達の一族に、愛の呪いなんてものを植え付けたのか。真実の愛を得られなかった苦しみを、誰かに味わわせてやる為に……。
『……見たな、わらわの記憶を』
頭の中で、彼女の声がする。
どういう事だろう。ジャルジーの姿は見えないはずなのに、どうして……?
すると、呆れたような声が返ってくる。
『そなたがその魔道具を用い、わらわをその体内に封じたのじゃろう? それも知らずに使いおったのか……』
「わ、私の体内に⁉︎ でもおかしいでしょ? このブレスレットには、魂を封じ込める力があるはずなのに……どうして貴女が肉体ごと私の中に……!」
その疑問に、彼女がすぐに回答する。
『……わらわの肉体は、とうの昔に滅びておる。魂のみの存在となったのじゃから、当然の結果であろう。だが……説明する手間は省けたな』
「な、何の説明よ」
『そなたをわらわの駒……否、愛する者に裏切られた者同士として、手を組まぬかという話じゃ』
「は……?」
とんでもない取引を持ち掛けてきた彼女に、思わず素のままで返事をしてしまった。
彼女は続ける。
『そなたがわらわの記憶を見たように、わらわもそなたの記憶を見ておったのじゃ。……そなたも、婚約していた男に裏切られていたのじゃな。それがあの男……オルコだった』
ジャルジーも、私の過去を見ていたのか……。
彼女の魂が、私の中に収まったせいなのだろう。同じ身体を共有しているのだから、そんな事もあり得なくはないのかもしれない。
……いや、よく考えたら、これはかなりまずい状況なのでは?
私の身体が彼女に乗っ取られたら、彼女はまた世界に牙を向けるに違いない。
『ああ、その点は心配せずとも良い。今のそなたでは、わらわが肉体の主導権を握るには至らぬからな』
「……そんな言葉、信じられるはずが無いじゃない」
『何故わらわがあの騎士を手に掛けたと思う? そなたを絶望させ、生への執着を捨てさせる為じゃ。そなたが無気力な人形と化せば、肉体を失ったわらわがそなたを乗っ取り……内部から国を崩壊させる事も可能じゃったろう』
可能だった、という彼女の口振り。
察するに、それは出来なくなったという事だろう。
『そなたは目の前で恋人を失おうとも、希望を失わなかった。今もわらわへの敵対心は強く、顔を上げ、前を向いている……』
彼女の声は、どこか悲しげで……諦めのようなものが滲んでいた。
『わらわもそなたも、努力する事しか能の無い女じゃった。それがある日突然、己でも信じられないような力を手に入れ──人生がガラリと変わってしまった。わらわと同じような人生を歩んでおったはずなのに……どうしてそなたは、世界に絶望しない? 何故他人を……あらゆる可能性を信じられるのじゃ……?』
私達が似た人生を歩んでいるというのは、間違いではないだろう。
もしかしたら私だって、オルコへの怒りが激しい憎しみに変わり、ジャルジーのような魔女になっていたかもしれない。
けれど……私と彼女には、大きな違いがある。
「……私は、素敵な恋がしたかったの。それに、叶えたい夢だってあった。そんな私が絶望の底から這い上がれるように、いつも力を貸してくれる人達が居たわ。彼らに出会えていなかったら、私はきっと……貴女に手を貸していた事でしょう」
私はアイステーシス王国で、新たな人生を歩む事が出来た。
あのカーシスの森での出会いが無ければ、私は絶望に呑み込まれた最期を迎えていたはずだ。
「私は、私を救ってくれた人達の力になりたかったの。多分私は、貴女が思っている以上に我儘な女だわ。恋も夢も叶えたくて、そのうえ皆の役に立ちたいだなんて……欲張りすぎるもの。だけど──それが私の生き方なのよ」
私は暗い宮殿の天井を見上げ、右手を伸ばす。
それをぐっと握り締め、声を張り上げた。
「どれだけ辛い目に遭っても、私は絶対に諦めない……! だから私は絶望しない。貴女の誘惑にだって負けやしないわ」
『……証明出来るか? この先にどのような困難が待ち受けていようとも、決して絶望せずに──闇に堕ちずに歩む覚悟を』
私は非力な人間だ。
偶然にも大精霊と縁が結ばれた、地道に努力する事しか出来ない治癒術師だ。
そんな私だからこそ、ここまで生きてこられたのだと……そう思う。
「この命を掛けて、証明してあげる。もしも私が絶望するような事があれば……そこから立ち直れなかったら……。その時は、私の身体を貴女にあげるわ』
『……それは、わらわとの契約だと見なすぞ?』
「ええ、それで構わないわ。私が絶望したら、貴女にこの身体を明け渡す。その代わりに、その時が来るまで私に力を貸してほしいの」
──これは、魔女と御子による契約だ。
互いに条件を出し合う事で、私達の契約は確実に実行される事になる。
私の心が折れれば世界が終わり、最期まで希望を失わなければ、少なくとも数十年は平穏な時が訪れる。
魔女は、私の言葉に小さく笑う。
『……良いだろう。その契約、確かに聞き届けたぞ』
彼女の声が終わると共に、私の右の甲に、赤い光が灯った。
その光は、私達の間に交わされた契約の魔法陣。
ジャルジーが施したであろう小さな円の図形は、すうっと消えていく。
『これで契約は果たされた。これより、わらわの力の一部をそなたに貸し与えよう』
その言葉に間違いは無かった。
魔法陣が溶けるように消えた次の瞬間から、体の奥底から膨大な魔力が込み上げてくるのが分かった。
止めどなく溢れる、魔力の泉。
これが、伝説の魔女と呼ばれた彼女の──ジャルジーから借り受けた力なのだ。
それと同時に、彼女が知るありとあらゆる魔法の知識が流れ込んで来た。
「……見届けてね、ジャルジー」
『当然じゃ。そなたの生き様が、この世界の命運を左右するのじゃからな。もしも、そなたが絶望したその暁には──その魂、わらわが全て喰らい尽くしてやるわ』
彼女の心の内を表すような、私達以外誰も居ない、静寂の宮殿。
「これは私達の間に交わされた、絶対の約束。またここから、私達は新たな人生を歩み始める事になるわ」
両手で水をすくい上げるようにして、手で小さな器を作る。
その中身を辺りに撒くように大きく両手を広げ、私はとある呪文を口にする。
「万物の精霊達よ……。我らの誓いに、祝福の花の螺旋を授け給え! 《フルール・スピラル‼︎》」
その詠唱を終えれば、視界いっぱいに光と花弁が満ち溢れた。
このフルール・スピラルの魔法は、古くは結婚式でよく使われていたものだったのだと、コンセイユさんから渡されたメモに記されていた。
私が新たな誓いの祝福として選んだのは、カザレナの花だった。
『この花は……』
ほのかな優しいピンク色の花弁が、螺旋を描きながら舞い踊る。
光と花に彩られた宮殿は、いつしかその物悲しさを失っていた。
『故郷の渓谷に咲いていた、カザレナの花──』
カザレナの花には特別な魔力があり、その花弁を用いた聖水には、邪悪なものを祓う力がある。
私は、ジャルジーの行いを許しはしないだろう。
だからといって、いつまでも彼女の魂がこの世に縛り付けられているのも──良い事ではないはずだ。
だから私は、この人生を懸けて彼女を変えたい。
彼女がグラースさんにした事は、多分一生許せない。
それでも……。
──いつの日かジャルジーの魂が、自ら進んで、この世との未練を断ち切れるように。
そんな願いを込めて、私は「未来への希望」という花言葉を持つカザレナを、彼女に見せてあげたかったのだ。
視界が歪む。
いつしか景色は、灼熱の火山に変わっていた。
突然姿を現した私に、殿下達が慌てて駆け寄って来る。
「フラム……! 無事だったか!」
「魔女に何もされてねえか⁉︎ どっか怪我してたりは……」
「大丈夫ですよ、団長さん。皆さん、ご心配をお掛けしてすみません」
私の言葉に、シャルマンさんやサージュさん達がほっと息を吐く。
「……グラースさんは、まだこちらに?」
それに答えてくれたのは、クヴァール殿下だった。
「……グラースの亡骸なら、ここにある。既にシャルマンが保護の魔法を施しているが……」
「ありがとうございます。……それでは、これより治療を行います」
「えっ……? でも、魔女が言うには、フラムちゃんの魔法でも治せない呪いだって話なんじゃ……」
戸惑う彼らの間を通り抜け、その奥で静かに横たわるグラースさんの横に両膝を付いた。
彼の目蓋は閉ざされ、両手はそっと組まれた状態だった。
誰かが口元の血も拭ってくれたのだろうか。見た目だけでは、ただ穏やかに眠っているように見える。
「……それでは、治療を開始します」
今の私には、魔女ジャルジーの力が宿っている。
彼女の膨大な魔力の一部だけだというけれど、それでも私からしてみれば、私の何倍ものとんでもない魔力量だった。
ジャルジーから流れ込んだ知識を信用するのなら、今なら彼に掛けられた死の呪いも解く事が出来る──はずだ。
この疑問は、試してみなければ晴らせない。
何故なら、ここに戻って来た瞬間から、彼女との念話が途切れてしまったからである。
私は平常心を心掛け、頭に浮かび上がった言葉を口に出す。
「我が呼び声に応えよ、闇の精霊よ」
私の詠唱に、背後に並び立つ彼らが息を飲むのを感じた。
それもそのはずだ。本来ならば、私には闇属性の魔法は扱えない。
そもそも、闇魔法は魔女に連なるものとして忌避されており、それを好んで操る者は魔女の手先として罰せられる。
そんな魔法を突然私が使おうとしているのだから、殿下達からしてみれば、まるで訳が分からないはずだ。
「その命に巻かれし鎖の呪縛を、今解き放たん」
たったそれだけの詠唱で、グラースさんの身体から、何か仄暗いものが抜け出していくのが分かった。
続いて、次の魔法の準備に入る。
「我が呼び声に応えよ、炎の精霊よ。我は望む。この炎が、健やかなる焔であり続ける事を」
私はありったけの魔力を込めて、グラースさんの胸に両手を添えた。
「《フラム・アーム……アンタンシオン……!》」
詠唱に応じた炎の精霊達が、無数の赤い光の渦となって踊り出す。
それだけではない。
青、緑、黄色──あらゆる精霊達が集まって、私に力を貸してくれているのだ。
それらの光は私を……そして、グラースさんを飲み込んだ。
四つの光が合わさった白い世界に、私と彼の二人だけが寄り添っている。
私は魔法の成功を祈りながら、彼にそっと呼び掛けた。
「グラースさん……? 私です、フラムです。私の声が聞こえていたら、どうか……どうかその目を開けて下さい……」
僅かに、彼の目蓋が震えた。
その瞬間に私の鼓動が速くなるのを実感しながら、私は彼の手を握り締めて、その名を呼んだ。
「グラースさん……!」
ゆっくりと……彼の意識が覚醒していく。
私が渇望して止まなかったアイスブルーの瞳が、私の情け無い表情を映し込んでいた。
「グラースさん! 私の事が分かりますか? フラムです、貴方のフラムです……!」
その言葉に応えるように、彼はそっと顔を綻ばせた。
「ああ……私の、愛しいフラム……。そうか……貴女が、私の命を救って下さったのですね……」
「いいえ、いいえ……! 救われたのは、私の方で……。いつだって貴方が支えてくれたから、私は今日まで生きてこられたんです……‼︎」
生命魔法はその名の通り、命を活性化させる魔法だ。
私の魔法によって生命力を取り戻したグラースさんの瞳には、私の大好きな彼の優しい光が宿っていた。
彼はそっと上体を起こして、グズグズと泣き出してしまった私をその胸に抱き寄せる。
「……私達はもう、互いが居なければ生きられない身体になってしまったのでしょうね」
「私もっ……私も、グラースさん無しには生きていけません……! だから、だから私は……っ⁉︎」
彼は少しだけ身体を離すと、次の瞬間──彼の唇が、私の唇に落とされていた。
ほんの数秒だったのか、それ以上の時間だったのか……分からない。
けれど、彼の少し冷たい唇に私の体温が移っていくのがとても心地良かった事だけは、確かに覚えている。
「奪って……しまいましたね。本当は、式を挙げるまで唇は取っておきたかったのですが……抑えきれませんでした」
「あっ、えっ、い、今、その……!」
慌てふためく私を見て、グラースさんはクスッと笑う。
こういうやり取りがまた出来るのが、とても懐かしいような錯覚を覚える。
火山の熱以外の要因で火照る頬を、彼がそっと指の背で撫でた。
「これからは思った事、感じた事は、我慢せずにすぐ貴女へ伝えます。……後悔したまま命を落とすような事は、もう二度と経験したくありませんので」
「グラースさん……」
そうしていつしか、精霊達の光の壁はふわふわと崩れていった。
それから間髪を容れず、壁の向こう側で見守っていた殿下や団長さん達から、歓喜の声が上がる。
彼らの喜ぶ光景を見て、ようやくいつもの日常が帰ってきたのだと──そう強く実感するのだった。
その後、何故私がグラースさんを救えたのか、事細かに説明を求められた。
私の中に魔女が居る事は、アイステーシスの国家機密として扱われる事になるだろう──と、殿下が苦笑と共に話してくれた。
そんな話をしつつ、私達は火山の外をを目指しながら歩いていく。
「全く……お前は本当に、とんでもない事をやってのけたもんだなぁ……」
若干引かれているような気がするけれど、ティフォン団長は私を褒めてくれている。
「公には何て説明すれば良いのかしら……。アタシ達でも半信半疑なのに……あっ、別にフラムちゃんが嘘を吐いてるなんて思ってる訳じゃないのよ⁉︎」
「それだけ前代未聞の偉業を成し遂げた、と言いたいんだろう? 彼女だってそれぐらいの理解は出来るさ」
大慌てで訂正するシャルマンさんと、小さく笑みを零しながら告げるサージュさん。
「そうだな……。表向きには、炎の御子によって魔女の悪しき魂は異界に封じられ──その功績が認められた炎の御子は、大精霊の祝福を受け、新たな力を授かった……とでも発表しようか」
さらっとした口調で、新たな伝説を生み出そうとする殿下。
きっと彼ならば、そんな信じられないような話でも、上手く信じ込ませる事が出来るだろう。
「しばらくは事後処理で忙しくなるが……その後は、約束通りこの面々で宴を開こう。皆の者、異論は無いな?」
「勿論です! 皆さんにご心配をお掛けした分と、感謝の気持ちを込めて……精一杯お料理を作らせて頂きますね!」
ドラコス伯爵家が引き起こした、連続殺人事件。
そして、世界を闇で呑み込まんとした魔女の手に堕ちた、オルコの罪。
それらは殿下が帰国次第、正式に伯爵家を裁く事になるという。
これから、騎士団も魔術師団も忙しくなるだろう。
魔女の影響によって凶暴化した魔物達への対応と、今日の事があって何か変化があったのか調査する必要もある。
それを上手くこなしつつ、人手が足りていない地域に私達が派遣される事もあるそうだ。
世界はまだ、完全に平和になった訳ではないのだから。
隣を歩く、愛しい彼を見上げた。
彼は甘くとろけるような微笑みを浮かべて、薄っすらと頬を染めている。
私は、そんな彼の笑顔が大好きだ。
「貴女の手料理を頂ける日を楽しみに、明日からの業務に励まなくてはなりませんね」
「あ、あまり得意という程ではないですが……最低限、ちゃんと食べられるものにはしてみせます!」
歴史的な決戦の後だというのに、あまりにも和やかな会話。
王族、貴族、平民という身分の壁も無く、自分の感じた通りの事を打ち明けられる仲間達。
私は、そんな彼らが居る世界が好きだ。
だから私は、これからも彼らと共に生きていきたい。
失ったものも沢山あった。
救えなかった人や、悲しい思いもしたけれど。
その分新しい経験や、人との出会いがあった。
そんな色とりどりの世界に生きている事を、私は嬉しく、同時に誇りに思うのだ。
だってそれが、私の人生の──
──炎の治癒術師フラムの奮闘記なのだから。
【第一部 完】




