8.掻き消えた炎
『貴様……何のつもりだ……!』
ふらつきながらも立ち上がる黒騎士を前に、私は震える手足を叱咤して真っ直ぐに相手の方を見る。
手の中にある液体──シャルマンさんに渡す為に作っておいた花の聖水が、瓶の中でちゃぷんと揺れた。
先生の本に書いてあった事が事実なら、この聖水であの黒騎士が纏う闇のような魔力を祓う事が出来るはずだ。
「……私は貴方と戦う意思はありません」
『ならば何故……何故貴様は俺達の前に立ち塞がる! その細腕で我等を屠るでもなく、魔法で蹂躙するでもない……! 何故貴様は……そのような目で俺を見る……‼︎』
その問い掛けは、誰かの嘆きのようで。
終わらない苦痛にもがき、その悲しみと怒りで乱れに乱れた彼の魔力は、目視出来る程の歪な流れで周囲に渦巻いていた。
私は一歩を踏み出した。
「貴方は何かに苦しんでいる。それが一体何なのかは、私にはまだ分からないけれど……」
『くっ、来るな……こちらへ来るなぁ!』
また一歩。
「……それでも、目の前で辛そうにしている人が居たら、どうしても放ってはおけないんです。私は……そういう生き方しか出来ないから」
『止めろ……何をするつもりだ、小娘ぇぇぇ‼︎』
もう一歩距離を詰めると、黒騎士は酷く狼狽しながら夜色の大剣を振り上げた。
それが振り下ろされるよりも早く、私はある言葉を口にする。
何かに囚われてしまった貴方に、治癒術師である私に出来る最大限の「痛みからの解放」を──!
「カザレナの花弁よ、乙女の祈りを聞き届け給え──フルール・オー・ベニート……!」
小瓶の栓を開けて振り撒かれたほのかなピンク色の液体は、私の詠唱によって黒騎士を包み込む淡い光となっていく。
カザレナの甘く優しい香りが広がる中で、光の中に佇む黒騎士に変化が現れた。
『これ、はっ……!』
花の聖水、フルール・オー・ベニートには悪魔や呪いを祓う効果がある。
私が唱えた呪文は、先生の本の著者名が書かれた最後のページの裏側にひっそりと記されていたものだった。
この聖水を誰かの為を想って使うのならば、真心を込める事でその効果を発揮する。どうやら私は先生の教えを守れたらしい。
黒騎士から発せられていた悪しき魔力は、聖水の光に呑まれていく。まるで染み込んだインクが綺麗に抜けていくような光景に、その場に居た私達はそれを見守っていた。
そうして遂に、漆黒の魔力が抜け落ちた黒騎士は力尽き床に倒れた。
「やった……のか……?」
うつ伏せに倒れた黒騎士は、ピクリとも動かない。
クヴァール殿下を筆頭に、団長さん達もこちらへ駆け寄って来る。
団長さんは黒騎士がどうなっているのか確かめようと側に屈み込むと、男の頭を覆っていた兜に手を掛けた。そして顔を見ようと仰向けにさせると──
「……っ、おい、嘘だろこれ……!」
団長さんは目を見開き驚愕し、殿下も眉間の皺を深め息を呑んだ。
兜の下は、灰色の髪に逞しい顔付きをした男性だった。
すると、何かに気付いたらしいヴォルカン王子が口を開く。
「なあ、この男の顔……どっかで見た覚えがある気がするんだが……」
「お知り合いの方……なんでしょうか?」
「うーん……多分、な」
首を捻るヴォルカン王子と、いまいち状況が飲み込めない私に団長さんがぼそりと呟いた。
「……この人は、トネール団長に間違い無い」
「トネール団長……?」
聞き覚えの無い名前だ。
記憶を遡っても、トネールという男性の名前には全く覚えが無い。
ティフォン団長が団長と呼ぶ相手ならば、アイステーシス王国の何らかの組織に所属している方で間違い無いんだろうけれど……。
でも、それならどうしてこの男性は王家に復讐するだなんて言って、こうしてお城を襲撃してしまったのかしら。理由が全然見えてこない。
「そうだ、思い出した! アイステーシス王国騎士団の灰色の雷鳴、トネール・グリ! 確か何年か前に死んだって話だった男じゃなかったか?」
「ああ……この顔を見間違えるはずがない。私の剣術指南役でもあった先代騎士団長トネールは、五年前の遠征で落命した。そのはず……なのだが……」
「遺体すら残らない程の激しい戦いだったと報告を受けていたのに……まさか今日まで生きていたっていうのか……?」
混乱するティフォン団長。
クヴァール殿下も彼が生存していたとは思っていなかったようで、顎に手を当てて何か考え込んでいた。
私は側に居たフランマに声を掛けた。
「ねえフランマ。死んだはずの人が生き返るような事ってあるのかな……?」
「命の炎を司る炎の御子になら、そういう魔法は使えなくはないさ。けど、そこの団長の話が本当だってんならそれはあり得ないね。炎の生命魔法は、死んで間も無い魂と肉体が揃っていなくちゃ発動出来ない」
「その条件が必須なら、このトネールさんは偽物って事なの?」
「そうさねぇ……」
言いながら、フランマは鎧の上からトネールさんの胸に手を当てた。
そして、訝しげな表情を浮かべて顔を上げる。
「……この男、心臓に何か細工されてるね」
「心臓に? 大精霊フランマよ、その細工というのは……」
「魔術的な道具を埋め込まれているらしい。まあ、フラムがさっきやってみせた魔法か何かで機能は停止したみたいだが……鼓動は弱々しい。こりゃ遅かれ早かれ死ぬね、こいつ」
「そ、それなら早くトネールさんを治療しないと!」
私が慌てて彼の治療に入ろうとすると、一瞬トネールさんの瞼が動く。
そして、息苦しそうにその眼が開かれた。
トネールさんは両膝を付いた私の顔を見上げ、掠れた声で語り出す。
「無駄だ……お嬢ちゃん」
「無駄なんて事はありません! すぐに身体を治します。ですから……!」
「もう、遅いんだ……。俺の身体は、魔女の呪いでもう使い物にならない……」
「魔女の、呪い……⁉︎」
彼から告げられた言葉に、アイステーシスの歴史を調べた時に知った事柄が私の脳裏に浮かぶ。
「それに……俺はこうして、お前達に破れた……。魔女は今も……復活の機会を窺っている……。俺達はどうにか堪えてきたが、次は……どうなるか、分からない……」
「待ってくれよトネール団長! 魔女の復活ってどういう事だ⁉︎ それに使い物にならないって……」
私の隣で身を乗り出して叫ぶ団長さんに気付き、トネールさんは懐かしそうに目を細めて笑った。
「ああ……お前、ティフォンか……? 少しは貫禄が出て来たじゃないか……」
「団長……もしかして、さっきまでの記憶が無いのか……?」
「……すまないな。あそこで呪いを埋め込まれてから、ずっと記憶が曖昧なんだ……。そこに居る、色男共は……クヴァールとヴォルカンか」
呼び掛けられたクヴァール殿下は、何かを堪えるように言葉に詰まった後、改めて言った。
「……ああ、そうだ。今宵は私の生誕二十五年を祝う記念に、最大なパーティーが開かれていた」
「それをトネールのオッサンがぶっ壊しに来たってワケだ。流石は灰色の雷鳴、やる事がデケえな」
「ははっ……それは済まない事をした……。だが生憎、ゆっくりと話している時間は……残っていないらしい……っ、ゲホッ! ガホッ!」
「団長っ‼︎」
涙声のティフォン団長は、突然咳き込み始めたトネールさんの手をぎゅっと握り締める。
まだ死んではいけないのだと、まだ貴方は生きるべきだと強く訴えるように。
「……ティフォン、これは俺からの最期の願いだ。俺はあの日、間違い無く一度命を落とした。それは……魔女への生贄として、アイステーシス王家によって仕組まれた計画によるものだった……」
「生贄、だと……?」
「魔女の怨念は、遺跡から少しずつ溢れ出している……。それを、封じる器として……俺が選ばれたんだ……。俺が死ねば……次の器は、魔女自らが選び出すだろう」
魔女自らが選び出した器となった人間は、魔女の虜として封印を解き放とうとする。
そうなったが最後、古代の魔女は現代に蘇り、彼女に牙を剥いた全ての人類へ復讐を始めるだろう。
……トネールさんが私達に告げたのは、伝説に語り継がれる魔女の復讐劇の序章に過ぎないかもしれない。
古の時代、人類と大精霊、そして御子達の手でやっと封印された魔女──その怨念を無理矢理閉じ込め、封印を制御していたアイステーシス王家。
魔女の呪いによって操られていた彼が王家への復讐を何度も口にしていたのも無理は無い。彼は遠征任務で殉職したと見せ掛け、本当は魔女の生贄として捧げられていたのだから。
「魔女の封印が解かれる前に……虜を殺すしかない……! 早く……どうか、……頼む……!」
か細くなった声で最期の願いを訴えたトネールさんの手が、団長さんの手から滑り落ちた。
「団長……? おい、団長! トネール団長ぉぉぉぉぉおおお‼︎」
静まり返り崩れた大広間に、ティフォン団長の慟哭が響き渡る。
そして私は……初めて目の前で救えなかった人の最期を見届けた。見届けてしまった。
今からでも間に合うかもしれないと、必死に魔法を掛け続けた。
「もうお止め、フラム。二度死んだ人間は、御子の魔法でも蘇りはしないのさ」
フランマのその言葉に、間違いは無かった。
二度死んだ人間は、例え炎の御子の魔法であっても蘇らない。
何度も何度も試したけれど、状況は何も変わらなかった。
トネールさんは私の目の前で、その生涯を終えたのだ。
私は……炎の治癒術師フラムは、初めて命を救えなかった──。




