悪戯の顛末
外は活気に満ちているのだろう。運動部の掛け声、吹奏楽部が奏でる楽器の音、教室や部室で談笑する生徒達の声。
それはきっと、誰もが思い浮かべるような、学び舎にふさわしい放課後。
私はそこから背を向ける。踵を向けた先は、学び舎としての役目を終えた、旧校舎の放送室だった。
放送室といっても、既に本来の用途に必要な機材や備品の類は取り払われている。辛うじて消音材で囲まれた内装と、古ぼけたカーペットだけが名残のように残されているだけだった。普段なら、誰にも用事のない場所に過ぎない。
それに、部屋の構造のせいなのか、外界の音をすべて断ち切ったような静寂で満たされた場所だった。ひとりなら、私でも入るつもりにはなれない。
それは誰かに見つかって怒られるよりも、一人で入ってしまったときの、静寂が怖いのだと思う。そのせいか先に彼女がいるはずだとは分かっていても、少し躊躇ってしまう。
ドアの前で携帯の画面を見ると、ショートメールに彼女からのメッセージが入っていた。
文面は簡単に、待っているとだけ。それに背を押されるような気持ちで、ドアを引いて部屋に入る。
「お待たせ、絵莉」
「未希」
彼女は背中を壁に預けるようにして、座っていた。声をかければ、こちらを向いて微笑む。内向的で、どこか儚くさえある雰囲気を纏う彼女が、学校の中でこうも屈託なく笑うことは珍しかった。
「おそいよ」
「ごめんね」
たわいもない言葉を投げかけあって、私は絵莉の傍に座る。がらんどうなこともあって、けして狭い部屋ではない。二人でも持て余しそうな広さだけれど、私達はいつも身体を寄せあう。
特に変わったことをするのでもない。学校での休み時間と同じようにお話をしたり、あるいは隠して持ち寄ったお菓子を摘む。まるで忘れ去られたように訪れるひとはいないから、誰にも邪魔されることはない。
そうやって過ごす時間は、私にとって何よりも暖かく、心地よい時間。絵莉も、きっと同じように感じているはずだと思う。
今日の絵莉は、少しばかり眠たそうだった。甘えるように、絵莉の身体が私にしな垂れかかる。瞼は既に半ばまで閉じられて、表情も相応に眠たそうに見えた。
思い当たる心当たりは、恐らく体育の持久走のせいだろう。普段から活発な性質ではないから、起きているだけでも大変だったに違いない。
「絵莉」
「ん……」
「眠たい?」
「うん……」
「今日の持久走、大変だったもんね。いいよ、いつまでもそばにいるから」
「ありがと……。おやすみなさい、未希」
「お休み、絵莉。佳い夢を」
言葉をかければ、絵莉は幸せそうに微笑んでくれる。私に凭れたまま、袖に縋って目を閉じる。
しばらくもしないうちに、微かな寝息か聞こえてくる。けれど、眠ってしまったからといって、私が退屈を持て余すようなことはなかった。起こしてはいけないから、身体を動かすことはできないけれど、心地よさそうな寝息は聴いているだけでも気分が良かった。
少し視線を転じれば、人形のように繊細で、可愛らしい造形はいつまでも見飽きない。時間が止まってしまえばいいのにと、叶わぬ願いを幾度願っただろう。
傍にいたいと、どれだけ思ったことだろう。いつも優しく、真っすぐな絵莉は、私が憧れていることに気づいているのだろうか。
いつしか、そんな感情を抱くようになっていた。最も、私が抱えているそれは純粋な憧憬ではなく、もっと後ろ暗いものだった。
ダメなこと、いけないことだと分かってはいる。けれど、もう耐えることもできそうにない。
喪失。
この瞬間が、いつか単なる過去に埋没してしまう恐怖。
きっと、ずっと傍にいることなど叶いはしないだろう。幸せな時間は、永久に続きはしないだろう。
何よりも、どんなものよりも優しく、無垢で、そして美しい絵莉と、いつまでも一緒にいられるほど、私が絵莉に相応しいとは思えなかった。
共に在ることが許されないのなら、せめて私と絵莉を掴んで放さない、強い何かが欲しい。
それはもはや、思慕であるとか、愛情であるとか、そんなものでなくて構わない。
忘れられてしまうぐらいなら、憎悪して欲しい。それは我ながら度し難いほど醜い、だけど偽りようのない私の心だった。
「絵莉……、ごめんね」
絵莉が覚えていてくれるなら、どうなっても構わない。そう望んでしまうほど、私の獣性は留まりそうになかった。身体を預けて無防備に眠っている絵莉の傍で、私はひどく邪な意志を抱いた。
綺麗な色を持つ唇を奪って、私のものにしてしまおう。今なら、それは容易く手に入るはずだった。
起こさないように、細心の注意を払って絵莉を抱き寄せる。眠っているせいなのか普段よりも高い体温を感じて、否が応でも鼓動が高鳴ってしまう。
それに怖気ついたというわけでもないが、いきなりに唇を奪ってしまうのは躊躇われた。興味心もあって、目の前の白く滑らかな頬を舐めてみる。
柔らかくて、少し、しょっぱくもある。そうして絵莉の顔を見ると、よほど疲れていたのか、相も変わらず可愛らしい寝息を立てていた。
絵莉の、蕾の綻ぶような唇を汚してしまえば、どれくらい甘美なのだろう。明確に絵莉を傷つける行為は怖いけれど、何故だか心のどこかが昂っているのも自覚する。
「えり……」
息を詰めて、ゆっくりと唇を近づける。馬鹿みたいに緊張して、だけど同じぐらいに興奮してしまっている。起きてしまわないうちに、と決意して目を伏せて一息に奪う。
触れた瞬間に、全身が甘く痺れる。触れただけなのに、甘美な多幸感を味わうだけで溺れてしまう。熔けてしまいそうなぐらいに身体は熱く、動くこともできない。
そんなさなか、不意に唇が離れていく。まさかと思って反射的に顔を上げようとしたけれど、何故だかそれは叶わない。
「みき」
「ぇ、……」
背中から首筋にかけて、何か柔らかなものが触れていた。それが絵莉の腕だと気づいて、抱きしめられていることを知覚する。
「初めて、取られちゃった」
「起きて、たの……?」
「うん。眠り姫は、王子様のキスで目覚めるでしょう……?」
細い視界から眠っていたはずの絵莉が、悪戯をした子供のように屈託なく微笑んでいるのが見えた。嫌悪されるものだと、憎まれるものだとばかり思っていたせいで、絵莉の純真な瞳を直視できなくて、目を逸らしてしまいたかった。だけど、抱きすくめられた私には、そのようなことなどできなかった。
「……ごめん、なさい」
重罪人のように惨めで、ひどく打ちひしがれたような感覚だった。
事実、絵莉を傷つけようとした大罪を犯したのだけども、彼女はそれを咎めようとしない。本当なら泣くことさえ許されないはずなのに、無性に涙か零れてしまいそうだった。
「意地悪、だったかな? 未希に、お返し」
もともと、互いの距離は吐息が頬を擽るほどもなかったけれど、その僅かな隙間を埋めるように、絵莉から口づけを受ける。
その事実を理解して、総身が震えてしまう。さして長い時間ではなかったはずだけど、その一瞬で、腑抜けたようにくずおれそうになる。
「……絵莉」
「ありがとう。だから、そんな泣いてしまいそうな顔をしないで」
絵莉はそんな私を、しっかりと抱きしめてくれた。私も縋るような気持ちで、絵莉にしがみつく。
暖かくて、柔らかくて、とてもいい匂いがした。それは私の大好きな、そして憧れの人が伝えてくれるもの。
「未希。未希はいつから、わたしを好きでいてくれたの……?」
「……分からない。忘れて、しまったの」
私が恋い焦がれた時間は、あまりに長くて、もう思い出すことすら叶わない。だけど、ずっとずっと、未希に憧れていた。
「ん、そっか……。未希、お願いがあるの」
「絵莉?」
「わたしの、わたしだけの王子様でいて? 悪い夢から、救ってくれるように」