小話②
家を守るために最も重要な事と、一人の自立した人間としてどうあるべきか、とは大概似たようなものである。かつて何度か顔を合わせた際に、子爵はヒューイにそう説明した。
つまりは他者に過度な依存をせずに、自らの意思で物事を決められるだけの力を保たなければならない、と。
三人いる娘のうち、長女に婿をとってもらう。子爵の無難な将来設計はしかし、大幅な変更を余儀なくされた。その状態で次期当主を誰とするかは、家を守るため必要不可欠なものになった。
選定に外部からの口出しを許してしまえば、仮に相手が格上の貴族だろうと、今後はいちいちお伺いを立てて、という流れが目に見えている。ここを治めているのは一体誰なのやら、と領地の者にも示しがつかなくなってしまう。
そのためにはできるだけ早い段階で後継、つまりルイーズの婚約者を自分の判断で選んでおく必要があった。つまり、ヒューイの事である。
暴言暴力の付随する脅迫や、一生遊んで暮らせる程度の金品や伝手の提示如きで、己の義務の放棄はしない。
ヒューイは王都で義兄達に顔を会わせた際、明確に宣言した。子爵とルイーズは脇に追いやられ、二対一で格上の相手と直接やり取りするのは想像以上に難儀した。しかしここを乗り切れないなら、とあくまで平静を装いその場を凌いだ。
奇しくもその直後、本当に横やりが入ったのである。ヒューイを害する事でルイーズへの動揺と分断を誘うという、実に嫌なやり方だったが無傷で切り抜け、下手な言質もとられずにその場を離れる事ができた。
それを受けて、確かにヒューイの不明瞭な出自や身分が大いに気になるところではあるが、とにかく貴殿に任せるという結論に達したらしい。義理とはいえ父親となった子爵の機嫌をこれ以上損ねるのはかなりの悪手であり、見直したのか妥協したのか、それとも諦めたのか、必要な教育は順次提供する、というのが別れ際の約束であった。王都での面倒事はこちらで引き受けるので、貴殿はとにかく足元を固めるように、とそういう話になったのだった。
「身内だけで食事会を開くそうだから、そのつもりでいるように」
王都での出来事を思い出しながら食事をしていたヒューイは、子爵の一言で我に返った。昼食の席で、子爵は先ほどの贈り物とはまた別の、届いたばかりらしい手紙の内容をかいつまんで読み上げながら、その視線はこちらへと向けられている。
夫人の実家はお隣の男爵家で、子爵領とも経済的な結びつきが強い。ヒューイとルイーズの挙げた結婚式にはもちろん出席して、後でお礼も兼ねて挨拶にも出向いていた。
そろそろ落ち着いたでしょうから、正式に顔合わせをしておきましょう、という旨の提案である。
「……ヒューイさんには王都からの宿題に、食事の集まりに予定が目白押しですこと。あなた、少し絞ったらいかがですか。実家の事なら、私が話を通しておきますけれど」
夫人の提案に、大丈夫ですよ、と応じたのはヒューイである。ただし、と少し声を潜めた。
「その場合は、本当に食事だけですか?」
「ヒューイ君にとっては今後の予行演習になるように、と話を通しておく。招待された側だから、余興の類は楽しめばいい。ただ身内だからこそ、ここへ来る前の話をせがまれる事はあるかもしれない」
「大丈夫ですよ、お父様、お母様。毎晩ちゃんと練習して、もうほとんどできていますから。いつでも平気です」
「あら、それは素敵ですこと。では早速」
夫人は笑顔でお上品に手を打ち鳴らした。するといそいそと使用人の一人が、手風琴をよいしょと運んでやって来た。軽く鳴らしながら何の曲にしましょうか、とにこにこしながら尋ねて来た。
「……」
両親に向かって得意気に宣言したルイーズとは対照的に、ヒューイが浮かべた表情は我ながらぎこちない。一応練習はしているのだが、前触れなく両親に披露する羽目になるとは思っていなかった。
世間一般で一家団欒とか和気藹々、と称される空気に、ヒューイは未だに慣れていない。子爵家は想像していたよりずっと、仲の良い家族だった。ずっと気難しい男性の代表格として認識していた子爵だが、夫人やルイーズの振る舞いを見るに、家の中では割と親しみやすい部類の父親であるらしい。
「……あくまで楽しく過ごすための余興の一環だ。結婚をせっつかれているような独身男性ではあるまいし、既婚者は配偶者と堂々と一緒にいればよろしい」
子爵はこちらの内心を見透かしたような事を口にする。この手の事は、挨拶の延長線上のようなもので、男女問わず楽しむための共通の趣味教養、と説明されれば理解はできる。ルイーズが毎晩練習に付き合ってくれているので、おそらく無難に踊る程度なら支障はないが、とにかく雰囲気に慣れていないので、ひどく不格好に見えるに違いない。
「お義父殿、一度で良いのでお手本をお願いできませんか。流れの最初からで」
「……いいだろう」
そもそもどんな流れでその場にいる全員が一曲踊ろうか、という空気になるのかさえよくわからないのである。ヒューイが顔を引きつらせている間に、子爵は音楽担当の使用人に指示を出した。
義父は一人息子だったそうで、生まれた時から領地の跡取りとして厳しい教育を施されて来ている。そんな義理の父は一切照れる様子もなく妻の手を取った。いつもは何かと茶々を入れてからかう夫人も素知らぬ顔で、特に何の抵抗もなく応じている。
「……」
冷やかしで頼んだわけではないので、一組の夫婦の一挙一動を真剣な眼差しを以て見つめた。
「……ヒューイ様」
「では、僭越ながら。……お手を」
「どうか、肩の力を抜いて下さいませ」
ルイーズは嘲笑でもなく、愛想笑いでもなく、任せてくれと言わんばかりの自信に満ちた品のある笑みを浮かべた。王都での数日間は彼女の方が明らかにあたふたしていたのに、こちらへ戻る頃にはすっかり落ち着いて、ヒューイに色々と気を遣ってくれている。
ここ数日、寝る前に彼女が練習です、と基本的な動きを教えてくれた。文字通り一歩間違えると足を踏んづける事になるのだが、怖がる様子はない。どうぞどうぞ、初めは皆そうだなどと笑って見せる。
練習の時の同じように、と正面に立ち、手を取り合って視線を交わしながら、たまに身体を支えるように手を回した。
競技や試験ではないので、出来栄えを競うわけではない。誰かの目に留まるために背を伸ばすのとも異なる。順調な出だしに彼女は目をゆっくりと細めて、口元を綻ばせた。
「楽しいですね、ヒューイ様」
「……ええ」
これだけ距離が近ければ、周囲に同じような人々がいても、楽団の演奏が鳴り響いていようとも、簡単なやり取りならば可能だろう。
肯定する返事を無意識にしてしまったので、彼女の碧い瞳には、どうやら楽しんでいるように見えるらしい。それには少しほっとした。打ち合わせた動きを繰り返しながら、短く言葉を交わす。
彼女の姉二人はずっと格上の家に、自分の意思で嫁いで行った。一方ルイーズは家と領地のためだと父親の判断を素直に受け入れた。周囲の思惑に流される事なく、いつまでもヒューイと共にある事を約束してくれた。
だからせめて、幸せだと思っていて欲しい。そうできるだけの環境を、ヒューイが守らなければならない。
ヒューイの静かな決意とは裏腹に、ルイーズは先ほどからずっと照れたような笑みを浮かべている。やっぱりちょっと恥ずかしいです、などと囁いた。そうでしょうね、と苦笑しながら応じる余裕を保ちつつ、何とか間違えずに終わりまで到達した。
それではもう一曲、と明るい演奏と開け放たれた窓から入り込む初夏の気配は、まるで新しい生活への期待に満ちているかのようだ。真面目に練習の成果を披露していたはずが、結局二人のやり取りは楽し気に子爵邸へと響くのだった。
あらあら、と娘の様子に夫人は微笑み、子爵は食後のコーヒーに黙って口をつけている。けれどその表情は、午後のひとときに流れる時間と同じく、どこまでも穏やかだった。




