6 対決
ヒューイは迷わず銃を抜いた。手に馴染んだ感触と重さに、北の国境線の身を切るような寒さを思い出す。
じりじりと距離を詰めていた白い虎の足元に一発、そしてサーカスのテントの天井に渡された足場の、アランの頭上を狙って重い引き金を引いた。鈍い衝撃が掌を伝い、テント内が耳をつんざくような音と硝煙の匂いで満たされた。
高い場所でアランが何か喚いているが、最初に武器の有無を確かめなかったのは落ち度である。それより問題は白い虎の方で、音に驚いたのか最初に出て来たカーテンの辺りまで下がったものの、残念ながらそれ以上奥へ退く気はないようだった。
当たり前だが怒らせたようで、銃声の反響がおさまった代わりに獣の、低い雷鳴のような唸り声が響く。
銃弾は残り四発。予備の弾倉はあっても悠長に交換している時間がない。他に持たされたものと言えば、迷子対策に子爵の友達にもらった鳥の手紙が何枚かと、宛名書き用の棒状の黒鉛、後はハンカチくらいしか持ち物がない。
ヒューイと虎が対峙している円形の舞台には木箱や骨組みが放置されているが、それを使って安全な足場の上に逃げるには少々高さが足りない。登っている時間もない。同じ理由で、虎の注意を逸らさないまま背を向け逃走する事は不可能だ。
人間相手なら照明を破壊して視界を塞ぐ事が多少有効でも、夜に動く獣にそれほど時間が稼げるとも思えない。
むしろ使えるのは火か、と思った時に虎の注意を引くための考えが浮かんだ。これがダメだったら、いよいよ射殺以外の方法が無くなる。
白く優美な虎が、飛び掛かろうと姿勢を低くした瞬間にもう一発撃って、怯んだ隙に鳥の手紙と黒鉛を取り出した。
ルイーズの名前を書いて外へ飛び出されては本末転倒なため、腹立たしいが宛名は足場の上の鬱陶しい相手にした。銃を引っ込めた代わりに、走り書きした封筒を掲げた瞬間、炎が手の中に燃え上がった。その向こうの、虎の青い目に映った火が揺れるのが見える。
現れた紅い鳥は役目を果たすためにヒューイから離れ、飛ばずに舞台の真ん中で宙を見上げた。そう言えば、最低でも窓の外で使わないとちゃんと飛べないよ、と前にルイーズに送るため購入した店の主人の注意を思い出した。
困ったように、無防備に首を傾げ頭上のアランを見上げる鳥に、咆哮と共に虎が飛び掛かる。すんでのところで躱した鳥は舞台の上を逃げ、役目を果たそうと必死で置かれた木箱や骨組みに登った。
それを追った白い虎が木箱に乗ったのを見届けたヒューイは身を翻し、舞台を飛び降りて走り出す。背後でアランの悲鳴と銃声が聞こえたのと同時で、見えた出口に人影が見えた。
「お疲れ様です。……後は俺の仕事なので」
ヒューイをここへ案内した、おそらく軍人らしき仮面の男は、後ろの騒ぎを全く意に介さない様子で、労いの言葉と共に敬礼する。何か裏のありそうな言葉と異様な雰囲気に躊躇したが、とりあえず害意だけは無さそうなのでそのまま横を走り抜けながら、左手を胸に添え返礼した。
テントの外へ出る事に成功したヒューイは、再度懐から鳥の手紙を取り出し、今度こそ愛しい婚約者の名前を書きつける。
今度はしっかりと空へ舞い上がった紅い鳥は、一直線に公園内の林へ突っ込んだ。一番最初に踊る約束を律儀に待っているのか、舞踏会のメインの会場らしき一際明るい方向からは少しずれている。
申し訳なさと同時に、少しだけ嬉しく思いながら、ヒューイは鳥の消えた方向へと走り出した。
「……遅くなった、すまない」
何とか合流できたルイーズは、抱きすくめられたままで首を横に振った。何も言わないまま、ドレスと同じデザインの手袋をした掌でヒューイのジャケットを握りしめている。初めて会った時は恥ずかしかったのか抜け出そうとしていたのに、今は口を閉じたまま大人しくしていた。
ただならぬ様子の婚約者を庇うようにしながら顔を上げると、役目を果たしたとばかりに紅い鳥は封筒へ姿を戻した。
辺りが薄暗くなると同時に相対していた少年は、こちらへと取り繕うような笑みを浮かべる。よそ見の間に、その背後には護衛らしき青年がいつの間にか控えていた。体格や髪型からしてテント前で別れた軍人とは別の人間で、やはりさっきの凶器の有無を確認しない状況は何か変だったらしい。
「子爵家は貴方に、重大な不利益を隠しています。社交界で最も危険な立ち位置に、何も知らないまま晒されようとしているのですよ」
「……子爵からは逃げずに立ち向かえ、との話なので全ては承知の上です」
灰色の瞳の王太子の話を遮って、ヒューイは言葉を紡ぐ。
実際は、後継者が見つからない理由もヒューイを選んだ経緯もきちんと聞き出せていない。孫と遊園地に行ったり友人の話が長かったりで、子爵は王都に来て以降、文字通り振り回されて全く思うように動けていなかった。
ちゃんと真意と事情を確認していないのはヒューイの落ち度で、しかし今それを悟られるのは不味い。今ここで『そんな話は初めて聞いた』などと口走れば、その矛先は全てルイーズに向く。相手の狙いはおそらくそれだ。別行動のヒューイがもし傷の一つでも負っていれば、婚約者は大いに動揺したに違いない。
子爵の真意は後で聞けばいいだけの話で、ここでルイーズを問い詰めるような事だけはしてはいけない。勿論、そういう話に持ち込まれてもいけない。
子爵家に後継者が見つからなかった理由が、子爵領が田舎過ぎる事だけが理由ではない事は冷静になって考えればわかる。ルイーズ、という姉二人が美人と評判で、結婚によって労せず領地と爵位、しかも公や候と呼ばれる人間と自動的に縁続きになれる。
これに、財産を継げない貴族の次男以下が食いつかないとは考えにくい。それはいくら貴族の考え方に疎い自分でもわかる。これで結婚相手が見つからないのはおかしい話なのだ。最初は借金でもあるのかと疑ったが、逆にお金はあると子爵本人が口にしている。
「しかし、社交界は貴族の出身でない方には…」
「私のような、高貴な方々と縁遠い人間が社交界に入る事に関して反発も多い事でしょう。しかし、殿下のような身分に囚われない方が王太子の地位にある、という事実が後押しして下さいました」
こうした舞踏会を頻繁に開催している事で、王太子アストラは、身分や家柄にこだわらない考えの持ち主だと言われている。しかし本心は別にあって、そのためヒューイがルイーズの婚約者の地位にある事を良しとしていない。
結果としてわざわざ鳥の手紙、という異性から届けば特別な関係を示唆する方法で引っかき回し、アランを使って自発的な婚約の取り止めを引き出そうとした。
「……聞けば、技術開発にも多大な寄付と貢献をなさっているとか。この夜会の幻想的な照明や、まるで楽団がこの場にいるかのような録音、再生技術は殿下の支援の賜物だと耳にしました」
相手が口を開こうとするタイミングを見計らって、聞きかじった適当な賛辞を並べていく。場を混乱させるのが目的である相手の対処法は、とにかく喋らせないに限る。王城内や、通常の厳格な形式を重んじた夜会ならともかく、敢えて形式に囚われない仮面舞踏会で会う形を作ったのは都合が良い。
ヒューイ自身は、向けられる悪意に慣れてしまっている。親がいない幼い子供、は働き手にもならず、押し付けられた親戚からすれば邪魔な事この上ない。孤児院でも士官学校でも、ずっとそうだった。
しかし、ルイーズは違う。
灰色の鳥の宛名がルイーズだった時の、途方に暮れたような表情、そして今浮かべている泣き出すのを堪えるかのように小さく震えている指先も。
この状況を作った本人が目の前の王太子である事を、ヒューイは忘れない。いくらこの後、アストラがどんなに素晴らしい治世を築いたとしても絶対に許さない。
「……初めて腕に抱いた婚約者がどれだけ大切で、可愛くて、離し難い事か。私はあの瞬間に、確かに救われたのです」
王太子の話題が尽きたので単なる自慢話に突入した。アストラばかりか、後ろの護衛の人の口元まで引き攣ったがヒューイには関係ない。王族に一方的に婚約を無効できる権限は無く、話が平行線でいいなら圧倒的にこちらが有利だ。
子爵も、ルイーズの義兄であるカーライズ公爵も夜会の出席を止めなかった。それどころか王都で一番の仕立屋まで手配し、もう彼らの方針は定まっている。
子爵家は後継に貴族ではない人間を指名し貴賤結婚だと馬鹿にされる事よりも、ヒューイをこの立ち位置に据える事による、何らかの利益を選んだ。
その決定が下った以上、この場は何とか切り抜けるしかない。
「……お前に、こちらの話を聞く気がないのはよくわかった」
舞踏会の出し物の一環なのか、銃声に似た音と共に夜空に色とりどりの花が咲いた。
それが合図のように、アストラの空気が変わる。仮面をゆっくりとした動作で外し、露わになった灰色の瞳がヒューイを見据えた。十八、という事前に知っていた年齢よりも幾らか幼く見える顔立ちが相まって、癇癪を爆発させる寸前の子供そのものに見えた。
「…せいぜい義兄達の足を引っ張る事だ。今の子爵のように、領地に引き籠ってやり過ごす事は許さない。恥を晒して、可愛い婚約者から惨めに捨てられる末路がお似合いだ」
「……それだけはあり得ません」
ヒューイが何か言い返す前に、小さくとも凛と背を伸ばしたルイーズが庇うように前に出る。
「私がヒューイ様を笑い者になんてさせない。勿論、絶対に離したりしません」
初めて聞く、婚約者の怒りの声に驚いている間にアストラは舌打ちを残してさっさと身を翻した。舞踏会は中止だ、と捨て台詞のように言い捨ててその場を去る。残された護衛が、申し訳なさそうにこちらに一礼して、その背中を追いかけた。
「……ヴィクター!」
主人の怒声に、予定通りに花火を打ち上げて休憩していた侍従は振り返った。大股で歩いて来るアストラの後ろで、護衛についていた同僚が肩を竦めている。
「…こちらは殿下の思惑通りに全て片付きましたけど」
「空気を読んで足止めくらいしろ!」
それがあれば上手く行った、と王太子は無意味に花火の筒を蹴っ飛ばした。
「……そんな事を言われましても、俺が聞いたのは鬱陶しいアランをドサクサに紛れて再起不能にする事でしたが。大体、余計な事をするといつも機嫌を悪くされるではありませんか」
アストラは侍従の一人であるアランに、ヒューイという軍人上がりの男の婚約を辞退させるように誘導を命じた。手段は問わない、もみ消しは任せろと増長させるような一言まで付け足して。勿論、アランが士官学校に在籍していた頃から、その男に強い敵意を持っている事は調査済みの上だった。しかも、アランのとった手段はサーカスの虎を使って脅す、という一歩間違えば舞踏会の招待客に死人が出る危険な内容である。ちなみに、冗談交じりに提案したのは殿下自身である。ヴィクターは冗談だと思ったが、アランはそうではなかったらしい。
日頃から西の大貴族の家の出身である事を鼻にかけ、アランの言動や勤務態度、そして仕事の出来も酷いものだった。しかし、軍の人事を握っている人間が無理やりねじ込んできた人事で、簡単にクビにはできない。だからこそ、擁護のしようがない状況を作る必要があった。
そこでヴィクターの仕事は、表向きは協力しつつアランの始末である。誰にも悟られるな、という指示でコソコソしていた甲斐もなく、アランは相手にけしかけた虎に襲われ勝手に自滅。表向きは、勤務中に虎の檻に悪戯をして逃がしたうえで襲われる、これは実家に強制送還しかない。
アランは予想外に獣と闘う羽目になったが、あの至近距離で一発も銃弾は白い獣に当たらなかった。テントの中の惨事にヴィクターは顔を顰めたが、殿下お気に入りの技官から預かった、簡単に物の出し入れできる不思議な道具を使ったので虎は特に苦労もなく無力化できたのだった。
アランが片付いたら花火を上げろ、とも言われていたのでその通りに忠実に動いた。この仮面舞踏会を中止の責任を全てアランに被せるまでが今日の計画だ。しかし、主人はいつも以上に機嫌が悪い。
「……そっちは失敗したんですね」
アストラは花火の筒を全部蹴飛ばして他に八つ当たるものがなく、自分が持っていた仮面を地面に叩きつけたのが返答代わりだった。
あの有名な子爵家の末娘を言い包めて婚約解消と、そして代わりの相手をアストラ自ら指名する言質をとる予定だった。それが、現在大貴族と呼べる存在で唯一、脅して従わせる材料を見つけられないカーライズ公爵に太い釘を刺せる好機だった。
勿論、まともな相手を紹介する気はなく、アラン並みの無能に加え、金は出さないが口はしっかり出す親族まで揃った素敵な結婚をさせる予定が、全て徒労に終わっている。
あの赤毛野郎、と人の姿がほとんど無い公園にアストラの罵声が響いた。ひそひそと経過を尋ねてみると話は全て遮られ、最終的には婚約者の自慢話まで披露され散々な結果に終わったらしい。
「まあ、アランのおかげで西の侯爵家を脅す材料が手に入った、で今夜は良しにしましょうよ」
ヴィクターは敬礼を送った、平民の出身ながら子爵家令嬢の婚約者である青年の事を思い出しながら主人を宥める。軍の学校の後輩で、軍に留まっていればいずれはそれなりの地に就いていただろう。惜しいような気もするが、既に身の振り方が決まっているとなれば、それはきっと幸せなのだろう。
表向き、身分にこだわらない主義を装うアストラは表立って攻撃もできずにこの有様。今回は相性が悪かった、と慰めるしかない。
これはしばらく荒れるな、と侍従達は顔を見合わせた。
「……まあ、一応結婚自体は認めたって事で良かったね」
仮面舞踏会の招待客の送迎のため待機している馬車で留守番していた父とその友人のグレイセルと合流し、ルイーズはヒューイと共に何とか帰路についた。同期が脅して来たのでさっさと逃げて来た、と婚約者は何があったのかを手短に説明した。
予定より早い引き上げに心配そうな二人に、とりあえずアストラの話の内容をできるだけ正確に伝える。認めた、よりは首を洗って待っていろ、という宣戦布告の方が近い。
そして父が今まで、子爵家を取り巻く情勢を黙っていた理由は、合流前にヒューイが予想してくれた通り、ルイーズに心配を掛けない事と今更、婚約者を別の人間にするつもりが無い、という二点だった。
「……あの時とは社交界の勢力図も変化している。今はカーライズ公やリンデル候の方がずっと力を持っているよ」
義兄達の名前を出して、肩の荷が降りたように父は穏やかな口調で言う。今の最大の懸案事項は、ヒューイとルイーズ二人してアストラに喧嘩を売って帰って来た事だったが、これに関しては自分達で決着をつける他ない。アストラと父の読みと、どちらが正しいかは実際に行ってみなければわからない。
「……鳥の手紙、すごく助けられました」
報告が終わってそんな話をしている間にグレイセルが手配した、勤め先の技術開発局の旗を掲げた馬車は滞在していた公爵邸へと着いたらしい。
「おかえり、予定より早かったね」
しかし、馬車の扉を勢いよく開いたのは翡翠の瞳、上の姉のフローラの夫であるリンデル候だった。行先を間違えたかと訝しむ一同に上の義兄は苦笑して、こっちこっちとカーライズ公の屋敷へと招き入れる。
「今回はカーライズに頼まれて、子供達の相手で終わったからね。せっかくだから案内を買って出たんだ」
さあさあ、とヒューイと共に背を押されて屋敷へ入ると、玄関ホールで歓声が沸き上がった。そこには二人の姉と公爵、それから両家の使用人らしき沢山の人達が集まっている。
「ヒューイさん、ルイーズお姉ちゃん、ご成婚おめでとうございます!」
わあ、と駆け寄って来た甥、姪達が手にした筒の紐を引くと、ぽん、と可愛らしい音と一緒に紙吹雪や綺麗なリボンが飛び出した。
「えっと、婚約は四年前でしたが、お二人は会えないまま今日になったので、今から婚約式を行わせて頂きたいと思います!」
婚約式と結婚式とは違うのか? と横でこっそり囁いてきたヒューイに、身内で集まって祝う事が多い事を説明する。その間に子供達は配置についたらしい。ホールに設置されていたオルガンで姪の一人が明るい曲を演奏し、一番年上の甥がどこからか鬘と付け髭を取り出して、神父の役のつもりなのかコホン、と咳ばらいをする。
「それでは、誓いのキスをお願いします」
「それはもう式は終わりなのでは」
ヒューイは困ったように横のルイーズと、後ろで泣き笑いのような表情の父を見比べた。周りでは賑やかし役達がきゃっきゃっと跳ね回りながら囃し立てる。
「……子供が見ている前だから」
ヒューイはそう言って、ルイーズの前に片膝をついた。初めて見上げられる形になって戸惑っている間に、婚約者の腕からそっとグローブを脱がせてから指先に口づける。
大人達はそれで空気を読んで盛大な拍手をしてくれた。しかし反対に子供達からは、口じゃなきゃダメ、とヒューイに抗議が殺到する。子供には刺激が強いから、と笑って受け流す婚約者の余裕が何だか悔しい。
「……ヒューイ様、髪が乱れたままです」
公園内を走り回ってそのままになっていた紅い髪を、ルイーズは整えるフリをしてそっと身を屈めた。間近で見る、夕陽のような色の瞳は綺麗だった。そして初めて顔を合わせた時の、あのやり方を思い出しながらルイーズはそっと、ヒューイの唇を塞いだ。
「……これ、思ったよりすごく恥ずかしいじゃないですか」
どうしてヒューイは平気な顔を装えるのか。耳まで真っ赤になったルイーズは、お姉ちゃん刺激的、と未婚の令嬢にあるまじき評価を甥姪達から頂いた恥ずかしさで顔を覆った。
けれどこっそり盗み見たヒューイの方も、不意打ちが効いたのか何とも表現しにくい、とにかく恥ずかしそうな顔をしていたので良しとする。その後は使用人達が用意してくれた料理を皆で楽しみ結局、仮面舞踏会では踊れなかったダンスをたくさんして、夜遅くまで賑やかに時間を過ごした。
この日の二つの夜会は、苦しかった事も楽しかった事も、ルイーズは生涯忘れずに生きていく事になる。言うまでなく、婚約者も一緒に、末永く。