5 子爵家の秘密
ルイーズが王太子殿下について知っているのはせいぜい、アストラという名で今年で十八になる事と、他に兄弟姉妹がいない唯一の王位継承者である事くらいしかなかった。
ヒューイは北の国境へ向かう前、軍の式典で見かけたと言う。しかし距離が遠すぎて顔を合わせたわけではなく、情報量としてはルイーズとあまり変わりはない。そこで尋ねてみたのは下の姉の夫であり、公爵として本人と顔を合わせる機会も多いと思われるカーライズ公だ。
「……幼い頃から多くの人間が殿下に跪き、競うように贈り物を献上している。他にもこぞって遊び相手や女官、侍従として手勢を送り込んでは寵愛を得ようと画策した」
葡萄の飴玉より深い色合いの瞳の義兄は慎重に言葉を選びながら話をしてくれた。そんな人間がどう育つと思う、と逆に問いかけられても、ルイーズとヒューイは顔を見合わせるばかりで正しい答えが思い浮かばない。
「……結果を言うと、その状況に飽きてしまった。容姿も身分も家柄も献上品の中身も、殿下には既に些事としてしか受け止められない。平等に、冷ややかな目でその人間性を見る。頻繁に夜会を催すのも、単に観察の機会が増えるからなのだろう」
少々困った方になった、と公爵は給仕の人が運んで来た、焼いたクラッカーにチーズを乗せた軽食を口にしながら困ったように瞳を伏せた。
「……一人の例外も無く、我々は試される立場にある。それを好機、若しくは危険にとるかは人によりけりだが」
「……アストラ王太子殿下がこちらでお待ちです」
ヒューイがこっそりと囁かれたのは、招待された仮面舞踏会の形式として、一旦男女で別れた直後の事だった。声の主は他の招待客と同じく目元を隠す仮面を身に着け、それなりに着飾った姿だが、纏う雰囲気からして軍人である事が窺える。殿下の護衛か、それに近い立ち位置の人間だと推測した。
一番初めに踊ってくださいね、と先ほどの婚約者の嬉しいお誘いの言葉が思い出された。しかしその男性の後ろについて集団から外れたのは、単にルイーズが何かされたり言われたりするよりは、自分が引き受けた方が都合が良いだろうと考えての事だった。
「北の国境線はどうでした?」
「何にせよ、寒かったです」
そうでしょうね、としみじみ呟く男に誘導されてやって来たのは、サーカスの物と思しき巨大なテントの目の前である。この中の奥でお待ちです、と指示された入り口の向こうは暗くて何も見えず、そして案内してもらえるのはここまでのようだった。
「お気をつけて」
言われるまま、サーカスの中へ足を踏み入れるとやがて、すり鉢状に配置された観客席に囲まれた舞台があらわれる。木箱や骨組みが乱雑に放置されたままになっていた。ここで道化師や曲芸師、それから動物達が色んな芸を披露するんだろうな、と思いながらその中央に立った時、周囲に明るい照明が灯された。眩しさに顔を顰めていると、人の背丈よりもずっと高く張り巡らせてある足場の上に、誰かが立っていた。赤銅色の髪には見覚えがあったが、良い思い出ではない。
武器等の手荷物検査も何も無く、たったあれだけで通された時点でお察しだったが、中に待っていたのは殿下本人ではない。
「……死にぞこないの溝鼠がのこのこ出てきやがって」
士官学校にいた頃に嫌と言うほど聞いた声は、予想通りの相手だった。任務として北の国境線に向かったヒューイとは違い、西の侯爵家の次男であるアランという同期生は王族の護衛に採用されていたはず。余計な事を王太子に吹き込むとしたら、この男以外には思い浮かばなかった。
ヒューイの親が既に亡くなり、そして孤児院を経て奨学金で学校に通っていた事を執拗に攻撃材料にしてきた相手でもある。
脳裏には教科書を隠された事や倉庫に閉じ込められた事、演習の時に寄ってたかって狙い撃ちにされた恨みつらみが湧いて来るも、今は感情に流されている場合ではない。
殿下はどちらに、と一応尋ねるとアランは何が可笑しいのかその場に立ったまま笑っている。何だか見世物にされているようで腹が立った。
「……お前の大事な婚約相手を口説いてる頃だろ。まあ、あんな田舎娘なんて所詮、招待されただけで舞い上がって、お前の事なんかコロッと忘れているだろうけどな。……恥を晒す前に婚約は辞退したらどうだ?」
お前みたいなのが貴族の仲間入りなんて無理に決まっているだろ、とのアランの声を聞き流しながら、ヒューイはできるだけ冷静に思考を巡らせた。
公爵邸を出る前に、ルイーズと二人して散々、子爵からどんな言葉にも絶対に乗るな、と言い聞かされている。王族といえど一方的に、子爵家が決めた婚約を無効にする事はできない。おそらく自発的に放棄する方向に誘導しようとするから、と。
「……とにかく、ヒューイ君と楽しんでくる事だけ考えなさい。そのためにドレスだって購入したんだから」
やや不安そうにしていたルイーズは、子爵からの言葉にぱっと表情を明るくしていた。慌てて仕立ててもらったとはいえ、シンプルな水色のドレスはよく似合っていた。宝飾品は勿論健気な事に、ヒューイが贈ったものをつけている。
「……悪いが、時間の無駄だから戻らせてもらう」
その肝心の婚約者が不在でルイーズは困っているだろうから早く行かないと、と状況を都合よく解釈してアランから向けた背に、脅迫めいた言葉が投げつけられた。
「ちゃんとこの場で誓えよ、婿入りは諦めるって。でないと痛い目に合わせてやる」
「……言ってたまるか、そんな事」
そこまで脅すからには、ようやく足場から降りて来るつもりかと身構える。アランがいる事を前提に、闘う事まで覚悟してここへ来たつもりだ。しかし、振り返った視線の先で動いたのはテントの最奥を覆う分厚いカーテンだった。そこから白と黒の美しい模様に彩られた獣の前足が、音も無く踏み出される。
「……は?」
太い前肢に続いて姿を現した青い瞳、そして人を凌ぐ大きさの巨体からは、不思議と足音が聞こえない。流石に嘘だろ、と叫びたいのを堪えて後ろに下がった。相手は人を襲う獰猛な獣にも拘らず、その姿は不思議と気品すら感じさせる。長い尾が左右に大きく、まるで別の生き物のように蠢くのが見えた。
何が、白い虎は可愛いだ。少し前に子爵が言っていた内容が思い出された。
「今なら止めてやれるぞ、溝鼠。さっさと負けを認めろ」
けしかけるアランの、安全な場所から相変わらず不愉快な笑い声が聞こえているが、この状況ではそこまで見る余裕が無い。
カーライズ公曰く、王太子は人を試したがっているとの事だが、それにしたって限度はある。ルイーズがこの場に居合わせなかった事だけが救いだった。これを切り抜けろ、でなければ認めてやらないと言うなら王太子は相当、いやかなり性格が悪い。
そして最後に走馬燈のように浮かぶのは、婚約者との約束。
「……一緒に、帰りましょう」
それがある限りヒューイには、死ぬ事も退く事も選択肢として存在しないのだから。
「この場では、堅苦しい礼儀も慣習も禁止だからね」
目の前にやってきた王位継承者は、口の前で人差し指をそっと立てる。思わず殿下、と叫びそうになったルイーズは、唇を噛むようにして言葉を呑み込んだ。
今は一人きりで、持ち物と言えば緊急連絡用、もしくは殿下が見つからない時に使って、とグレイセルがくれた、まだ宛名の書いていない鳥の手紙の封筒が数枚しかない。
休憩のための公園の広場の隅には即席のテーブルが設けられ、白いテーブルクロスが掛けられた上に飲み物が注がれたグラスや軽食が並べられている。流石に舞踏会が始まったばかりなので、今はルイーズと王太子以外に人の姿は無い。
彼の仮面舞踏会とはこういう場なのだ、と事前に教えてもらってはいても、身分の違いを思えば、やはりいたたまれない感じが拭えない。できればこの場を辞してヒューイと合流したいけれど、今の口ぶりからして、無事に会えるかどうかもわからない。
婚約者でなくなるかもしれない、と灰色の瞳の持ち主は言う。あのヒューイが自発的に、ルイーズとの婚約を反故にするとはとても思えなかった。そうなると誰かが圧力を掛けるか、それとも力ずくで脅すような事態に陥るのかもしれない。嫌な想像が脳裏に次々と浮かんだ。
どうか無事でいてくれますように、そして早く来て、と今は祈るしかない。
「それで主催者としては、もっとこの場を楽しんで欲しいのだけれど」
「……婚約者と約束がありますので」
「親が勝手に決めたって噂の? そういうのは余り好きじゃないな。籠の小鳥みたいで可哀想」
誰もが試されている、と義兄は言っていた。ルイーズはその場から逃げ出したいのを我慢して、できるだけ背筋を伸ばして堂々と見えるようにその場に踏み止まる。
この場に父もヒューイもいない以上、ルイーズが子爵家の代表として答える他ない。
「……子爵家の正式な後継を、父が定めるのは当然です」
わかりやすく動揺を顔や態度に出すな、と散々、父や姉に言い含められてここへ来ている。幸い周囲は昼間や室内に比べて薄暗く、さらに目元を覆う仮面のおかげで表情の変化はわかりにくいはずだ。
「……正直、貴族青年なんて沢山余ってるから、そこから見繕って欲しかったな。わざわざ、将来有望な軍人を辞めさせなくて良かったのに」
アストラは芝居がかった仕草で肩を竦め、それから舞踏会の会場の方へ視線を向けた。そこに、条件の揃った相手はいくらでもいる、と言わんばかりだ。
「……子爵領へ来てくれる方はなかなか見つからなかった、と聞いています」
父と姉達とで、まだ子供だったルイーズに代わって懸命に探してくれた事を知っている。田舎の小さな子爵領には誰も興味がないようだ、と家で母に愚痴を零していたのもこっそり聞いていた。
「……それは嘘だよ。夜会が開かれる度、沢山の貴公子が列を成して、子爵家の末娘との結婚を申し込んだ。子爵は貴女が何も知らないのを良い事に、自分の都合を吹き込んでいるだけ。その気になればお姉さん達みたいに、高貴な身の上の青年との素敵な出会いが待っているかもしれないのに」
予想外の返答に、ルイーズが何も答えられないのとは対照的に、子爵はよくわからないね、と殿下は言葉を続けた。保守的な考えの持ち主かと思えば、家を継がせるべく育てたはずの長女に他家への嫁入りを許す。派手な散財を嫌うかと思えば、小さな子爵領には不釣り合いな多額の持参金を、涼しい顔で娘二人共に用意して周囲を驚かせた。よくよく調べてみれば、いつの間にか子爵領の周辺は保養地として整備が進み、立地や家の格に対して不釣り合いな程に発展を遂げている。
そして、まだ幼い三女の結婚相手には貴族とは全く関わりの無い人間を指名。以来、役目は果たしたと言わんばかりに領地に引き籠って、社交界には一切出て来ない。
「……何か非合法な手段に手を染めてるのか、って色々調査もしたけれど、結局不審な点は何も出て来なかった。もっと自分の手柄を公式に自慢すればいいのに」
「父に、王家に顔向けできないような事は何一つありません。どうか、直接お聞きなさってください」
姉二人の持参金の出所は昔からの友人の、鳥の手紙の研究開発への協力の見返りとして受け取ったと教えてもらった。しかしそれをルイーズの独断で、この場で洩らしていいのかまではわからなかった。当事者である父とグレイセルに委ねるしかない。
「……見かけによらずしっかりしているね。それとも、カーライズ公が何か吹き込んだのかな」
普通の令嬢じゃこうもいかない、と殿下は楽しそうだけれど、ルイーズは相変わらずここを去りたくてたまらない。
どうして、こんなにルイーズが不安になる事ばかり言うのか。殿下は誰も信用していない、と警告してくれた義兄まで話題に上がり、いい加減家に帰りたくなってきた。
そして、未だ姿を見せないヒューイは一体どうなってしまったのか。
「じゃあ賢い小鳥に正解を教えて、それで最後にしよう」
僕も舞踏会に参加しないといけないから、と冗談めいてアストラは笑った。しかし灰色の瞳が、一挙一動を見逃すまいとするようにルイーズを見つめる。
「子爵の、まだ十歳かそこらの末娘に結婚を申し込んだのは全員、お姉さんが嫁いだ侯爵及び公爵との繋がりか、子爵領にあると見込まれた金目当ての野心家や能無しばかりだ。そこに、姉譲りの美貌を期待した金持ちや変態共まで参戦して、当時の社交界は酷い有様だった。嫉妬と憎悪を一身に子爵は四面楚歌で可哀想だったよ。まあ、家柄の釣り合わない繋がりを得たわけだから、当たり前の話だけど」
元々高位貴族との結婚を狙っていたのを、子爵如きに横入りされたのを、面目を潰されたと解釈した者も大勢いた。まだカーライズ公達も若くて経験が浅く、あの時はとても頼りにはならなかったから、と殿下が付け加える。
今まで、誰も教えてくれなかった話に衝撃を受けながらも、ルイーズはそこに父の思いを感じて少しだけ安堵する。姉二人のために最終的には折れて嫁入りを認め、ルイーズが不安になるような事からはずっと傍で守ってくれていた。
「……そんなわけで、やっと最後の質問だ。貴女の婚約者、すごく苦労をして来た人らしいね。その人を、そんな恐ろしい場所に引きずり込める? 魅力的な子爵家三女の結婚相手の座を、諦めていない人はまだたくさんいる。軍人のままだったら約束されていた地位と将来があったのに、子爵は彼が上流階級のやり方に疎いのをまんまと利用したわけだ」
ヒューイは、両親を早くに亡くして、色んな場所を転々としながら学校にようやく軍人になった。それを子爵家の都合で辞めさせて、父ですら苦労した場所に、ルイーズの結婚相手として送り出そうとしている。
「社交界の大半が、純粋な貴族ではない者に対して酷く攻撃的だ。どんな目に遭ったとして、貴族と平民ならお話にもならない。頼りになる義兄達も、敵が全くいないではない。既に僕に絶対に認めるなと言ってきた人もいる。子爵は上の娘二人が結婚する時、相当に恨みを買っている。だから貴女は自分の婚約者が、その人自身でどうにもできない事柄で、踏み躙られて食い散らかされる様を、横で見ている事しかない。……それを知った上で、答えを聞かせてよ」
ルイーズの願いはただ、ヒューイも一緒に子爵領へ帰る事だけだ。父がいて母がいて、家族同然の使用人達が帰りを待っている。
決して、ヒューイに危険に晒したいわけではない。
つまり、本当に婚約者の事を思うなら手を放してやれ、と殿下は忠告した。胸の辺りに冷たくて、酷く重苦しい何かが渦巻いて、それが手足の先まで広がっていく感覚を覚える。履き慣れない靴の足元がぐらぐらして、今までどうやって立っていたのかを忘れてしまった。
「もう一度聞こうか、貴女……」
アストラの言葉を掻き消したのは、力強い鳥の羽ばたきの音。とっくに暗くなった時間帯にも関わらず、まるで夕陽のような紅い輝きが、ルイーズを守るように目の前に降り立った。
「……っ」
あの日と同じだった。遠い北の国境線から、早く会いたい、家族になりたいと、同じ気持ちを教えてくれた大きな紅い小鳥が、高く美しい啼き声を上げる。
そして間もなく、婚約者がすぐ傍の茂みから転がるように飛び出して来た。出発前に整えた鮮やかな紅い髪は乱れ、走って来てくれたのか、息はすっかり上がっている。
「……やっと、見つけた」
ヒューイはルイーズの姿を認めると、じっと注がれる灰色の視線までは目に入っていないのか、近づいてきた勢いそのまま、両腕でしっかりと抱きしめて来た。暖かいその場所の居心地が良くて、されるがままのルイーズの耳元で身をかがめたヒューイが遅くなったと囁いた。
それからようやく、面食らった表情の殿下にルイーズを抱えたまま、器用に恭しく一礼して対峙した。