4 跡継ぎに必要なのは
四年前、まだ寒さが厳しい季節の頃に、ヒューイは王都内でも裕福な人間が出入りする区画にあるレストランにいた。最近知り合った、跡継ぎ探しが難航しているという子爵から誘われたのである。
普段足を運ぶのは、軍に所属していれば無料で食事を提供してくれるボリューム最優先の食堂しかない。そのため、内装やお品書きの文字にまで気を遣っている洒落た店は居心地が悪かった。おまけに顔を合わせるのは、ヒューイの苦手な貴族階級の人間である。
高貴な家の出の人間は、孤児院で育った相手と同じ空気を吸うのすら不愉快らしい。特に西の領地を預かる侯爵家の次男から、士官学校時代に受けた嫌がらせや暴言は執拗だった。しかもそんな人間のくせに、軍の花形である王族の身辺警護につくのだから世も末な話である。
数少ない友人から、兄貴の面子がかかっていると泣き付かれていなければ、貴族と会うなんてとっくの昔に断っている。
「……内示は出たか?」
「やはり北の国境線でした、しばらく帰って来れません」
店内の、しかも他に聞かれたくない話をするための個室で向かい合う相手は碧い目の、表情の変化が少ない気難しそうな子爵である。クロード、という名前だった。
しかもこの人とは前回会った時に、不穏な気配が漂う北での国境警備に下士官として向かう話が出ている事を理由に婿入りの話ははっきりと断った。それがもう一度話がしたい、とまたしても呼び出されたのである。
子爵には三人の娘がいて、上の二人が相次いで他所に嫁いでしまった。末娘の結婚相手に子爵家を継がせるらしい。しかし、その相手がなかなか見つからない、という話だった。子爵の理想が高いのか、それとも他に理由があるのかまではわからない。
クロードは正式にヒューイへと、北での任務が終わり次第、子爵家との縁談を打診する、と言った。思わず相手の顔をまじまじと見つめてしまったが、相手が表情を崩す事はなかった。
「『無事に帰って来れる保証がない場所には、私のように何かあっても悲しむ人間がいない奴が行くべきです』だったな」
「……よく覚えてますね」
誰かが行く必要があるなら自分以外にはない、とヒューイは思っていた。ヒューイが通った士官学校の運用資金や利用した奨学金の出所からしても、妥当な内示だ。
「何と言いますか、そもそも私のような者に持ち掛けるような話ではないように思うのですが、子爵殿」
なるべく高貴な身の上の者を求めるのが普通だと思っていた。大体、貴族階級の人間には良い思い出はない。ヒューイとて好きで孤児院で育ったわけではなく、欠点なら自分で努力のしようがあるものの、そうでない点をあげつらって笑い者にされるのは、ヒューイが覚悟していたよりずっと、堪えるのが難しい事だった。
「……本当に卑しい人間は、生まれた場所に胡坐を掻き、そのまま沈んでいく奴の事を言う。君は違う」
あくまで個人的な見解だが、とクロードは付け加えた。初めて聞いた考え方、それが貴族階級の人間、しかも大して親しくない無愛想な相手の口から出た事に反応しきれないうちに、相手はさらに言葉を重ねる。
「……親が子供にしてあげられる事には限界がある。量や金銭では無く、時間の話だ。末娘でまだ子供のルイーズが素直でいてくれる間に、私には後継を定める責務がある」
脳裏に自分の両親の事、と言っても顔も何も覚えていない人達の事が浮かんだ。物心ついた時には既に、遠い親戚の家で小さくなって過ごすのが当たり前だったから、詳しい事は調べた事はない。
ヒューイには今まで自分の親くらいの相手と、腹を割って話すような機会はなかった。もし生きていたら、目の前の人と同じくらいの年齢なのだろうか、と何故かそんな事を思う。この人が自分の娘の名前を口にした時、少しだけ口調や眼差しが和らいだ気がした。
「所詮、子爵家は下級貴族だ。上からも横からも邪魔されて思い通りに行かずに苦渋を舐める事もしばしばだが、君なら投げ出さずに立ち向かってくれると信じている。私の跡継ぎを継いでくれる相手に求めるのは、それが最も大切だ」
どこか自嘲気味に言う子爵が、何度か顔を合わせただけの人間をどうしてそこまで信用できるのかは不明である。しかしヒューイの取り柄が、せいぜい負けず嫌いな事しか思い浮かばないのも、また事実だった。
「可愛い末娘さんにいつか、どうしてこんな奴を選んだ、って責められても知りませんよ」
「そこは上手く説明するよ。相手は気難しいが、そこも含めて受け入れ愛してあげなさいと。……だから、ちゃんと帰って来なさい」
危険な任務の後に、大事な要件は入れておくべきだ、と彼は言った。必ず無事で帰還するために、と続ける。
気難しいのはどっちだ、と思ったけれど結局、上手な断り文句はそれ以上思いつかなかった。
そんなやり取りの後、北の任地に着いたのと同時期に、子爵から記入済みの婚約誓約書の一式が届いた。クロードと子爵夫人らしいシャロンという名前、それから本人が記入したらしい、ルイーズと可愛らしい丸い文字で書いてあった。
しかし、それから子爵から定期的に届く長い手紙には彼女の名前はほとんど登場しなくなる。もっと婚約者の事を書いて下さい、と返信するのも何だか複雑なので、ヒューイはなるべく彼女の事は考えないようにした。苦手な寒さと、そこそこ頻繁に国境線の向こうからやってくる襲撃に手一杯だったのもある。
子爵からの手紙に、婚約者の姉達が嫁いで行った事情が語られた事があった。格上の相手に恋愛結婚したらしく、ますます一人残った末娘が心配になった。その子も姉と同じような、優雅な貴公子がいい、と言われたらどうしようもない。
そんな長い沈黙を破ったのは、ルイーズの方からだった。寒さの一番厳しい時に飛んで来た碧い小鳥と飴玉。短い手紙の文字は、ヒューイが自分の名前を書いて送り返した婚約誓約書より、ずっと上手になっていた。
任務が終わって王都に戻ってから、彼女に返す手紙の内容を考えた。飴玉にしようかとも思ったがしかし、もう子供ではない相手なのでそれは止めた。ただ、送る方法だけは決めてある。
「……うわ、何だこれ」
高価で摩訶不思議な封筒が、もうすぐ出て行く軍の寮の部屋の窓から思ったより大きな鳥の姿で飛び立った。一瞬、本当に燃えたのかと思って慌てたが、見た目に反して熱くはない。高く鳴いて、紅い鳥は南の子爵領がある方角へ向かった。
その後で子爵から届いた手紙にはヒューイの無事の帰還を喜ぶ言葉、王都の一番大きな市場の入り口で待ち合わせる旨、それから末娘も王都に行くと言い張っている事が書かれていた。
午後六時に鳴り響く鐘の音と共に、王都中央公園は煌びやかな光に包まれた。色とりどりの華やかな火がゆらゆらと幻想的に、滞在している娯楽施設の遊具やテントを照らし出す。それと同時に周囲から上がる、仮面姿の若い男女の驚きの喚声に、ヒューイのため息はかき消された。
ランプの代わりに使っている火は、鳥の手紙の技術の応用だから火事の心配が無いよ、と能天気な子爵の友人の言葉が脳裏に蘇る。さらに楽団もいないのに、どこからともなく軽快な音楽まで流れ出し、王太子主催の仮面舞踏会は順調な滑り出しらしい。
隣にいる、急ごしらえながらも可愛らしいドレスに身を包んだルイーズも、初めての光景に碧い瞳を瞠っている。
公爵の情報によれば、今回の舞踏会は主に独身の貴族や未婚の令嬢達を中心に届いたとの事。流石に鳥の手紙で受け取ったのは自分達だけだったようだが。
目元だけを隠す仮面では、知り合いであれば正体は簡単に看破できそうなものの、あえてこの場で名乗り合うのは野暮らしい。普段の身分や家柄に左右されがちな通常の社交と一線を画す形式で、確かに王太子の身分に囚われない、とされている人柄を演出するのに一役買っている。本人は今、会場のどこにいるのだろう。
ヒューイにしてみれば、こんな屋外で警備は大丈夫なのか、とか仮面によって相手の表情が読みにくい点で既に辟易としてしまう。こういった場に慣れるのは時間がかかりそうだった。
「緊張していますか?」
「多分、そうだと思います」
「……私も、見栄を張ってコルセット締めすぎてしまって。もうちょっと緩くすれば良かった」
そう言ってこちらを見上げながらルイーズは笑った。身体を綺麗に見せる女性用の装身具は必須らしい。
彼女の方も初めての夜会なのに、こちらを気遣ってくれているようだ。髪を綺麗に複雑に結い上げた事で、ずっと大人びて見えた。
「あ、でも踊るのに支障は全くないです」
「それは何より」
そんな会話をしている間に、人混みがゆっくりと動き出す。この後一旦、男女別に分かれてから再び合流して舞踏会の流れらしい。この辺りも公爵が情報を仕入れてくれている。
「……ヒューイ様、私と一番最初に踊ってくださいね」
「それは勿論喜んで」
約束ですよ、と仮面舞踏会の趣旨は無視する方向らしいルイーズに苦笑しながら、ヒューイは名残惜しく思いながらも彼女の傍を離れた。せいぜい、彼女を一番最初に見つけられるように、ドレスや髪型を記憶しておくしかない。
「……ヒューイ様、どこにいるんだろう」
まさか迷子、とルイーズは仮面姿で楽しく踊っている人々からは少し離れて婚約者を探していた。とっくに男女は合流していて、しかしヒューイらしき姿は見当たらない。それにしても一人でいると、賑やかで華やかな場所のはずが、急に心細く感じる。明るいテンポの曲が、妙に寒々しく聞こえた。
「……踊らないのですか、せっかく招待状を送ったのに?」
不意に背後から掛けられた声はヒューイのものより高く、微かに面白がっているような響きがある。振り返ると、仮面を身に着けた男性がルイーズを見ていた。言うまでもなく、知らない相手だった。
「ここには貴女の父親も、…今は婚約者もいないので、少し僕とお話をしましょうよ」
「……貴方は」
仮面と、明るいとはいえ昼間には遠く及ばない光源ではわかりづらい。しかし、多分相手の瞳の色はそれでも想像がついた。
「大丈夫、婚約者さんが戻って来るまでの間です。まあ、来たとしても……彼が貴女の婚約者でいてくれる保証はありませんけどね」
仮面舞踏会の主催者、灰色の瞳の王太子殿下は楽しくて仕方がない、としか形容しようがない笑みを浮かべた。