2 お父さんの思い出
「クロード、久しぶり! 元気にしてた!?」
騒がしい友人は数年ぶりに、突然子爵領に戻って来た。応接室へ向かうと、懐かしい姿がソファに座っていた。
出迎えたクロードの前に現れた友人のグレイセルは、相変わらずの少々時代遅れの厚いレンズの眼鏡に、少しクセのある褐色の髪が昔と変わらない。
海を渡って隣国への外遊は、見聞を広める意味で貴族の青年の間で推奨されている。クロード自身も、子供の頃からこの友人と一緒に行く約束をしていた。しかし子爵家先代当主の父が腰を痛めたために、急遽後を継ぐ事になって、結局行けずじまいになってしまっていた。
一人で海の向こうへ渡った友人は、向こうで知り合ったらしい女性まで連れている。こちらの女性と比べると背が高く、小麦色の肌と艶やかな黒髪は、異国の育ちを感じさせた。アマーリアさん、と紹介されたが、彼女ははにかむような笑みを浮かべるばかりである。どうやらまだ、こちらの言葉は勉強中らしい。
そして、友人が再会の喜びもそこそこに懐から取り出したのは、何の変哲もない羊皮紙、に見える。こちらの反応が寂しかったのかじゃじゃん、という自前の効果音までついた。どうやらいつもの、発明品自慢が始まるらしい。この友人は昔から、奇妙な物を発明品と称して自作するのを趣味としていた。
「なんだこれは」
「僕が作った特製のレターセットさ」
女性は相変わらず、グレイセルの横でニコニコと微笑ましそうに視線を送っている。友人が、彼の中に広がる独特の『何か』を語る姿は子供の頃と同じだった。身振り手振りが混じり、材料や工程の説明も、途中からは何を言っているのかよくわからない。とりあえず宥めながら話を聞いたものの、亜熱帯の蔓植物が、瞳の色を映して、とやはりよくわからなかった。
この友人は今でこそ騒がしいが、子供の頃は肺が悪かった。ひどい時は一晩中、咳が止まらない症状に悩まされていたのを、クロードは今でも記憶していた。王都の西にある伯爵家に長男として生まれたものの、家督を継ぐどころではなく、クロードが住んでいる屋敷に身を寄せて療養していた。病気自体は成長と共に良くなっている。
身体を休めている間に様々な文献を読み漁った結果、人の役に立つ発明がしたい、と一念発起して当時から色々と何かの設計図をたくさん書き付けていた。
「馬だと目立つし、蝶々は遅いし蜘蛛の巣に引っかかるだろうと思って。そうするとやっぱり鳥かな、と」
「……すまない、わかるように説明してくれ」
こちらの指摘にグレイセルは特に気を悪くした様子もなく、やっぱり実証だと手にしていた羊皮紙を寄越してきた。これが便せんになのでとりあえず何か書け、という事らしい。クロードの後ろで成り行きを見守っていた家令がタイミングよく、羽ペンとインクの瓶を持って来た。
しかし、急にそんな事を言われてもすぐに内容は思い浮かばない上に、そもそもこれは一体何なのかがよくわからない。手紙、というくらいだから書いて送る形式をとるのは間違いないのだろうけれど。
クロードが便せんを前に悩んでいる間に、グレイセルは今度はアマーリアとの馴れ初めを語り始める。一旗揚げるために隣国へ渡ってたまたま足を運んだ酒場で、彼女が給仕をしていた。創作やお互いの人生に悩みつつ紆余曲折を経て、と相変わらず話が長い男である。頭の中で二人が仲良くダンスを踊っているため、書く内容をさっぱり思いつかない。
仲睦まじい二人の様子に、ふと自分の婚約者の姿が思い浮かんだ。婚約を正式に、と申し出た時のはい、というクロードに対しての、抑揚のない肯定の返事の声だけが耳に残っていた。
「……ところでクロードの婚約者さんの名前って、隣の男爵領のシャロン嬢だったよね」
「……それはそうなんだが、……?」
婚約者の顔を思い浮かべてペンを止めた瞬間に、信じがたい事が起きた。なんと、突然羊皮紙が青白い炎を上げて燃えたのだ。
「……は?」
「名付けて、"小鳥の手紙"なんてどうかな。海の向こうで結構売れて、アマーリアさんと二人で一等客室さ」
燃えているのに熱くない、という点で既に驚きだが、消えた後に現れたのは炎と同じ色の小鳥だった。小さく首を傾げたそれは、止める間もなくあっという間に、開いていた窓から外へ飛んで行く。
「……相手がどこにいても必ず届くんだ。しかも瞳と同じ色で……」
何がなんだか、呆然と見送るしかないクロードは現実に引き戻された。血相を変えて外へ出たものの、碧い小鳥は一直線にお隣の男爵領の屋敷の方角へ飛んで行く。まさか、一瞬でも思い浮かべた相手の所まで届くのだろうか。
「グレイセル、あれを何とかしろ!」
「……ごめん、飛んでしまったら設計上はもう無理でね」
この馬鹿、阿呆、とクロードは友人を罵倒しながら厩舎へ駆けこんだ。そしてグレイセルを置いて、小鳥を追いかけるために日の暮れかけた外へ駆けだす。
走っている間にもグレイセルへの文句は止まらなかった。羊皮紙からペンを離した途端、しかも封筒も使わず配達人を介さず送るものは手紙とは呼べない。とんだポンコツを作ったものだ。
「……シャロン嬢は、……いらっしゃいますか」
全速力で駆けたためにゼハゼハ言っている馬を労わりつつ男爵邸の門番に預け、転がるようにして玄関に駆け込む。驚いた顔の男爵邸の執事と、お約束はされていらっしゃいますか、いや小鳥が、と問答しているうちに、奥からようやくシャロンが登場した。
小鳥が飛んできたはずで、と口を開くと彼女は頷く。しかしあれは何かの間違いなので返却して欲しい、とクロードが申し出ると、彼女はしばらく沈黙した後に、それはできないという返事をした。
「これは隣国でたいそう噂になっている、小鳥のお手紙という品ではありませんか。思い人のための特別な気持ちを届けてくれる、という」
「……おそらく、そうだとは思うのですが」
クロードは大人しい彼女が何故拒否するのか全くわからず困惑するしかない。もう一度正式な手順を踏んで出し直しますから、と懇願したがそれも拒否である。
これは特別な手紙なのだから、と彼女が主張したまま一歩も譲らないでいるうちに、あちらの家族が集まって来てしまった。
「シャロン、一体どうしたんだ? 子爵殿まで」
「あの、できればあまり見せないで」
クロードは大いに不本意ではあったが、手紙の返却は諦める他なかった。するとシャロンの方はまるで花がほころぶように嬉しそうな笑みを浮かべている。
そこへ追いかけて来たらしいグレイセルとアマーリアまで現れ、クロードが書いたものを、何とも言えない表情で覗き込み始めた。
「……」
最初はとりとめのない友人の話を整理しようと思っていただけである。そして内容には頻繁に鳥、という言葉が何度も出て来る。それで何となく鳥をそのまま書いたところで、羊皮紙が燃え出した。
向日葵かしらと、いや蜘蛛でしょう。裸のおじさんにも見える。と各自言いたい放題の有様にクロードは閉口した。貴族の嗜み、として一通りの教養はこなしたものの、芸術に関しては教師に溜息をつかれている。最後に、美的センスは生まれつきですから、と絶望的なお言葉と共に先生は去って行った。
絵を描く事自体は好きなのに、しかしクロードが描いたものは他人にとっては全く違う物に見えるらしい。
「この間のお会いした時のクロード様はずっと顔を顰めていましたので、……もっとこう、近寄りがたい方かと思ってました」
「クロードは昔から、子供と女性の扱いは下手でして。多分、緊張して喋れなかっただけだと思いますよ、シャロン嬢」
「まあ、そうだったんですか」
こんな時ばかり、長年の友人がしたり顔で余計な情報を漏らしている。そこへ何気なく続いた流暢なこちらの言葉の合いの手に、クロードは目を瞬かせた。
「……こちらの言葉が随分お上手で。えっと、アマーリア嬢?」
「クロードさんにそう言って頂けると光栄です。グレイセルから一通り習ってはいるのですけれど、緊張してしまって」
そんな事を話しているうちに、奥から男爵夫妻やシャロンの兄弟まで現れてしかも全員に大笑いされ、この時程、穴があったら入りたい気分になった事はなかった。
ちなみにこの時の絵が妻の実家の応接室に額入りで飾ってあるため、結婚した後は一度も足を運んでいない。
「……という事があって」
「お前の話は長い」
不機嫌の極みの表情の子爵に、向かいに座ったヒューイとルイーズは顔を見合わせる。そんな事があったのですか、とぽかんとした婚約者の表情を見るに、どうやら今までずっと秘密にしていた話らしい。
孫達に娯楽施設へ連れて行かれた子爵を、宿でルイーズと飴玉を舐めつつ待っていると、しばらくして友人とやらを連れてようやく戻って来た。そのグレイセルという人物とどうしても、王都にいる間に顔を合わせておく必要があると言う。
そのまま食事会の流れとなった。酒と焼きたてのパンとこの宿の名物らしい、春野菜の煮込みシチューが美味しそうな匂いと湯気を立てながら、大きな鍋でテーブルへ運ばれてやって来た。
「遊園地や動物園、あとサーカスはいかがでした? お父様」
「ああ、白い虎が可愛くて楽しかった」
子爵は特に楽しそうでも無い声音と表情での返事であったが、ルイーズの方もそうですか、と普通に流したので家族間でもこんなやり取りが当たり前なのかもしれない。
そしてグレイセルと名乗った子爵友人が上機嫌で喋る一方、隣のクロードは対照的な無表情である。とにかくグレイセルの話はあちらこちへ脱線を繰り返し、思うように話が進まない子爵の眉間に深い皺が時間を追う事に増えて行った。
「……あの、失礼ですがグレイセル殿の職業は一体」
「昔は注文に沿って色々と製作していたので発明家、魔法使いなんてふざけて呼ぶ方もいますが、今はこちらの国に正式に招かれ雇われている技官ですね。期限付きですが、報酬は悪くないので」
ヒューイとルイーズを繋いだ小鳥の手紙を、作った本人を除けば初めて書いたのがおそらく、この義父であるという事実に、二人は顔を見合わせた。ただし望みの内容で送る事ができたか、となると話は別のようだが。
「……グレイセルの出身はこちらだが、海の向こうに外遊に行っている間に伴侶に巡り合ったとかで、現在書類上は隣国人だ。規模の大きな商会に入っていて、そことは昔から取引がある」
口を挟んだ子爵は娘と同じ碧い瞳でも、受ける印象は対照的である。ルイーズがくるくると表情がわかりやすく変わるのに対し、意図的に表に出すのを抑えているようにも見えた。
初めて会った数年前はヒューイに対し、子爵領における後継者探しが難航している現状を一方的に訴えただけで終わった。貴族階級の人間なので、ヒューイとの話はそれきりだと思ったのだが、何故かその後も何度か呼び出しがあった。
必要以上の事を口にしない素っ気ない態度でとにかく取っ付きにくい人物だと思った。しかし何度か顔を合わせて話をして、加えて今回のように友人や愛娘と一緒だと少し印象が変わってくる。
今の手紙の話や、昼間の孫達のお願いを断れない辺り、ちゃんと話せばそこまで気難しい人ではないのかもしれない。
「とりあえず、子爵家を継ぐ二人にはグレイセルの事を話しておく必要がある。現在の彼はこう見えて、隣国でそれなりの地位にあり、そして小鳥の手紙の生みの親だ。今はこちらの国に派遣されている形で滞在している」
さっきの話の後、グレイセルはちゃんと封筒に入れて宛名書きをしてから小鳥に変わるように作り直したらしい。そして裕福な階級を中心に好評を博し、公に認められた。
「……手紙を作るのにどうしても必要な植物があって、それは暖かい場所でしか育たなくてですね。こちらの国で商売する分に関してはクロードに頼んで栽培してもらっていまして。流通、こちらでの販売においても一任しているんですよ」
曰く、研究者の中には他人の発案を盗み、さも自分の手柄の様に発表するような人間がいるのだそうだ。それを警戒し、長年の友人で信頼できる子爵に植物の管理をお願いしているらしい。
あくまでグレイセルからの個人的な頼みである事に加え、念には念を、で今まで子爵夫人以外の誰にも言わずに来たらしい。それをヒューイとルイーズに明かしたという事は、いよいよ子爵家へと加わる時か、と身が引き締まる思いがした。
「勿論、見返りとしてそれなりの報酬は得ている。フローラ、エリーゼの持参金に使ったがまだ半分以上残っているから、使い道はルイーズ、……ヒューイ君によく相談して決めなさい。これは私達からのお祝い代わりだ」
上の娘二人が嫁ぐ直前になって、相手方の親族に持参金の額について嫌味を言う連中が出て来たらしい。それを黙らせるためだから必要経費だった、と子爵は膠もない。領地の運営とも無関係な出所だから気にするな、と少しだけ表情が和らいだ気がする。そしてヒューイと目を合わせて、これからよろしく頼む、と小さい声で付け加えた。
「……ありがとうございます。……お父様、グレイセル様」
せっかくだから、結婚式の時に良いワインでも頼みましょうか、と嬉しそうなルイーズの言葉を遮ったのは、明るい室内には不似合いな、灰色の鳥の羽ばたきだった。
「……え」
突然現れた、大きさも姿形もカラスのようなその鳥は、くすんだ灰色の羽を机の上に無意味に散らす。まるで嘲笑うかのような仕草で、ヒューイとルイーズとを見比べた後、何の変哲もない封筒へ姿を変えた。真っ赤な封蝋に、複雑な紋章が刻んである。
和気藹々としていた空気は一変した。
「…その灰色の持ち主は、この国にはあの親子しかいないね」
先ほどまで陽気だったグレイセルの声が、やけに重く響いた。紋章の意味は、この国に住んでいれば子供でも知っている。ヒューイがいた北の国境線にも、同じものが描かれた旗が風に靡いていた。
ずっと和やかだった場所へ、王族からの手紙が、まるで異議を唱えるかのように投げ込まれた。