小話⑤
ヒューイが早朝の寝室を抜け出すのは、まだ夜の明けきらない時間である。二人で寝ても十分広い寝台から身体を起こすと、毎朝の事だがルイーズが何故かこちらにかなり押し込んで来ている。
すやすやと眠り込んでいる彼女を起こさないよう、こっそり抜け出すのはなかなか一苦労である。シーツを上手く動かして、そっと就寝前の定位置あたりに戻した。自分の寝相が悪いのではないかと気にしているからである。
それから、小机に置いてある紅い鳥の羽のブローチを手に取った。やがて現れた紅い鳥は心得たように、ヒューイの代わりにルイーズのそばに落ち着いた。いつもは屋根で見張りをしているのだが、彼女が寝ている間は外に行かない。持ち主を守っているつもりなのかと思うと、つくづく不思議な存在である。
「……じゃあよろしく」
ヒューイは静かに部屋を出て、一階の厨房にいる使用人達に軽く挨拶をした。できたてのスープと昨日の残りのパン、という簡単な食事を摂った後、日中に比べれば幾分冷たいひんやりとした空気に出迎えられながら、屋敷の裏手にある木立の奥を目指した。
早朝から外へ出てきた目的は、身体を動かし鍛えるためだ。軍に所属していた頃のようにはいかないとしても、やはり身体が鈍って使い物にならなくなる、というのは決して小さくない恐怖心がある。
また変な嫌がらせがあっても困る、と王都での出来事を思い出してため息をついた。今は心強い味方がいるのでそこまで悲観しているわけではないが、できれば家族に余計な心配は掛けたくなかった。そして自分以外の人間に危害が加えられるのだけは、絶対に避けなければならない。
そういう理由で、義父の仕事の引継ぎが始まるまでの時間を狙って屋敷を抜け出している。新兵だった頃の記憶を辿りながら気が済むまで身体を動かして、屋敷に戻る帰り道には先客がいた。
「……おはようございます」
うむ、とか何とかいつも通りの愛想のない返事が義父、つまり子爵から返って来た。娘と同じ金色の髪でいて、どこか人を寄せ付けない冷たい印象の男性は、学校にいた厳しい数学教師に雰囲気が似ている。しかし、いくら冷ややかな眼差しを有していようとも、決して内面がそうではない事を、ヒューイも既によく知っていた。
「……毎朝早起きなのは感心だな。ルイーズは?」
「幸せそうな顔でまだ横になっていますよ。朝は血の巡りが悪いらしくて、女性には多いらしいので心配は要らないと言っていましたが」
ルイーズの、血の巡りが悪い体質は病気、と判断するほど深刻ではないようだし、身支度を整える頃にはおさまっているらしい。朝は一緒にお散歩がしたいのに、と本人は寝る前に残念そうな顔をしている。
ヒューイはそれを聞く度に可愛いな嬉しいな、と思いつつ、もし今より悪くなるようなら早めに医者に診てもらおう、と夫らしく真面目な見解を述べておいた。
そうか、と説明を聞いた子爵は短い返事を寄越した。義父がこの後どうするのかと挙動を見守っていると、散歩に行くんじゃないのかと言わんばかりの、声と視線が向けられた。
「まさか、それで早起きして下さったんですか? お気遣いありがとうございます」
「……私ではない。妻が、まるで教師と生徒のようだと揶揄するからな」
子爵はむすっとした表情を浮かべたままである。見るからに貴族然とした子爵だが、屋敷の中においては奥方に滅法弱いのである。先日の集まりで親しくなった奥方の兄弟によると、結婚当初からそんな関係らしい。
「とにかく、私も確かに個人的な話をする時間はあまりないな、とは思った。ついつい仕事の話になってしまうのは、息が詰まるような気分になるかもしれない。私は君を生徒としてここに呼んだわけではないからな」
義父にとって、自分の仕事を受け継がせる事こそ、ヒューイに求めている最優先事項だと受け止めていた。なのでヒューイは、どんな顔でその気遣いを受け取ればいいのかわからなかった。ありがとうございます、と頭を下げるのも何か違う気がしたが、とりあえずお礼を伝える。
父親だから当然だ、と子爵は内容とは裏腹な、素っ気なく聞こえる言い方で付け加えた。
「ではそういうわけでお義父上殿、この間の食事会の際によくわかったのですが、若い人達にも慕われているんですね」
ルイーズの従兄弟という人達と話をした時、色々と教えてもらった。義父の第一印象は気難しい男性なのだが、子爵殿、子爵殿と随分な人気者であった。ここは確かに田舎だが仕事があるので、故郷を離れて都会に出なくても暮らしていく事ができるらしい。
それは田舎の小さな保養地の一つでしかなかった一帯を整備して、人を呼び込める段階まで発展させた子爵の功績であるらしい。優れた芸術文化を有する隣国の伝手を最大限利用して観光客と、一緒に入って来る流行もいち早く取り入れる事に成功している。国内の人々も、冬の間に温かく過ごせる上に退屈せずに済む場所として、喜んでやって来るらしい。
「まあ確かに、旅行先も男一人ならともかく、家族や友人がいれば治安と過ごしやすさは絶対に外せなくなるからな。後はせっせと皆が働いて、私はただ様子を見ているだけに過ぎない」
またまたそんな事を、とヒューイがお茶会で仕入れた情報を色々と持ち出すと、子爵は居心地が悪そうな顔をしている。
おや、などと子爵は突然足を止めて、自分の屋敷の裏手にある林を指差した。
「小鳥が賑やかだな」
「そうですね。木立に巣があるんでしょうか」
「だろうな。この時間帯は天敵がねぐらへ帰っているから、それで活発に動き回る事ができる」
褒められると照れくさいのか、わざとらしく違う話題を持ち出した子爵に苦笑しつつ、ヒューイは話の流れに素直に従った。
言葉の通り、樹上には巣箱が幾つか設置してあるのが見える。古い物も、まだ新しい物もあった。子爵は詳しいようで、この時期に活発に動き回る鳥の種類や生態を教えてくれた。
「そういう知識はどこで?」
「……鳥類図鑑だ」
相手の返答にやや間があったのは、きっと父親から教えてもらった、と言いかけたに違いない。両親の顔を知らないままになってしまったヒューイの境遇に気を遣っているらしく、自然な風を装って視線を外した。別にそこまで気にしなくても、とヒューイは言いかけたが、子爵の静かな目線で制された。
「……私が子供の頃は、屋敷に私の遊び相手兼居候がいて。奴は私よりも優秀だった。生家を継がなかったが、もし継いでいれば優秀な当主として称賛を集めていただろう。二歩三歩は軽く先へ行けるだろうに、私に気を遣って一歩前、というのが腹立たしい奴だったよ」
ところで、と子爵はまた話題を変えて子供の頃の話をしてくれた。その友人にチェスの勝負に手を抜くんじゃないと文句をつけ、一度かなりの言い合いになったらしい。それ以来、勝ったり負けたりだったチェスの試合は一度も勝てなくなったそうだ。
今後の試合に全て勝てたとしても星を五分に戻せるかはわからない、と言う。そんなに歴然とした実力差をつけられているのに強気だな、とヒューイは思いつつも、とりあえず相槌を打っておいた。
「まあチェスの勝敗はともかく、多少の失敗は時間をかければ取り戻せる。とにかく、引き際を間違えてはいけない。傷の浅いうちに手を引いて、余計な損害を回避できればそれはそれで悪くないんだ。領地の運営に関しては細かい判断まで載せた手引書があるわけではないから、私が元気なうちに、その感覚や判断基準を教えられるといいのだが」
そうですね、と雑談は結局、義父のありがたい話に落ち着いた。しかしのんびりのした時間のせいなのか、いつもより気安い空気である。二人の足取りは木立の奥の開けた場所、さっきまでヒューイがいた身体を動かすのに使っている辺りに差し掛かかった。
そこへ、屋敷の方向から追いかけるようにして飛んで来たのは、小さな碧い小鳥である。いつもの事なのでヒューイは足元に着地した小鳥を気に留めなかったが、子爵は不審そうな顔で観察している。
結婚祝いに子爵の友人から贈られた、左右の碧いカフスボタンとネクタイピンなので全部で三羽いる。しかし来るのは毎日一羽のみだ。それが同じ個体なのか、交替しているのかは定かではない。小鳥の方は人間二人を一顧だにせず、飛ぶのではなく辺りを跳ね回っている。新兵の訓練で走らされるのに酷似していた。
「これは何か意味のある動きなのか? それとも誤作動か?」
「多分、踊りの練習をしたいところを、今は足腰を鍛えているつもりだと思います。何故かはよくわからないのですが」
首を捻っている子爵に、ええとですね、とヒューイは説明した。碧い小鳥は当初、切り株の上で機敏な動作と共に羽を広げて、確かに踊りの練習をしていた。しかし丸っこい体格の割に羽や脚が華奢な造りのせいなのか、しょっちゅう転げ落ちて砂だらけになっていた。しかし、執拗にその動きを続けるので、見かねてヒューイが助言をしたのである。先に足腰を鍛えるの必要があると。小鳥も思うところがあったのか、それ以来こうしてずっと辺りを跳ね回っている。
「……今日はお客がいらっしゃるから、特訓の成果を見てもらったらどう?」
試しに声を掛けてみると、小鳥はこちらを一瞥する。そうして切り株の上に飛び乗った。続けて人間みたいな動きで一礼したので思わず笑ってしまう。
子爵の方はそんなヒューイを肘で小突きながらも、威厳のあるわざとらしい咳ばらいを繰り返した。
夢うつつでぼんやりしているルイーズは、キュルキュルと優しく、絶妙に眠気を誘うゆったりとした声を聞いた。おそらく先に起き出したヒューイが、不思議なブローチを紅い鳥の姿に変えてから部屋を出るらしい。声はまるでオルゴールのような美しい響きだった。
「……ああだめ、もう起きないと」
歌う紅い鳥が、腰の辺りをじんわりと温めている。孵る前に親鳥に温めてもらっている卵はこんな気分かもしれない。
これでも以前よりはずっと早起きしているのだが、とルイーズはまだ寝起きのぼんやりした頭である。今日こそは早く起きたいな、と目を覚ますとヒューイがいないのも寂しい。
そんな思いが伝わるのか、いつ姿を変えるのか、三羽いる碧い小鳥がいつも一羽だけ、窓から彼を追いかけるように飛び去って行くのである。残りの二羽は残って、紅い鳥の背中に埋まって目を閉じている。
かたん、と小さな音がして、どうやら窓の桟に小鳥が戻って来た。ぴょん、と小机に移って、可愛らしい声で鳴く。すると残りの二匹も起き出して、三羽が小机の上に並ぶのが見えた。
「……?」
いつもと違う行動をルイーズが不思議に思っている間に、小鳥は羽を広げて歌いながら可愛らしくさえずった。羽を広げたり閉じたりを繰り返しつつ、身軽に動き回って息のぴったりな踊りを見せてくれた。
「……すごい、上手だね」
静かに見守っていると、最後に人間のような動作で一礼して、元のカフスボタンとネクタイピンにころりと戻った。この不思議な小鳥達は、もしかしたら早く起きたいルイーズの気持ちを慮って、出し物を考えていてくれたのかもしれない。
踊りを眺めているうちに頭が少しはっきりしたので、ルイーズは寝台の上に身体を起こした。紅い鳥の方もよいしょと立って羽を広げ、窓の桟からゆったりと外へと飛び立った。今日も風見鶏の仕事をするらしい。ルイーズもそれを見送って、今日はもう起きられるかもしれない、と目を擦った。
ちょうどその時、入ってもいいか、と聞き慣れた声と共に部屋の扉がノックされた。慌てて起き上がって、ちゃんと寝間着を着ているのを確認し、髪を申し訳程度に整えてから、どうぞと返事をした。
「今朝は義父上と散歩に出かけて、今ちょうどさっぱりしたところだから」
おはよう、と入って来たヒューイは汗を流した後なのか、まだ少し髪が濡れている。使用人が教えてくれたのだが、朝の早い時間に屋敷の近くで、身体を動かしているらしい。
今日は街の市場へ出かけたお土産があるのだと、持って来たトレイにはガラスのコップが二つ載っている。この間、出先の帰りに市場でお揃いで購入した物だった。見た目からして、中身は何かと訊ねてみると、詳しく教えてくれた。
「隣国から入って来た流行物ですよ。雑穀を炊いて、発酵させるんだったかな。本場は生姜を入れるらしいけど、そうなると好き嫌いが分かれそうで。実際、義父殿は顔をしかめていたし、義母上は何て言うでしょうね」
彼は悪戯っぽく笑った。それで、と話を続ける。
「色々聞いてみて、とりあえず牛乳で割って砂糖を足してみたんですよ。その方が、ルイーズには飲みやすいかと思って」
「……ヒューイ様は、甘い物は苦手だったのでは?」
「まあね。でも自分の分は砂糖を抜いたから、それなら飲めた」
相手にとって美味しいのが一番で、それはルイーズがいつも気を遣ってくれるのと同じだと、彼は穏やかな口調で言う。
「今日、義父上は休講だそうなので、後でのんびり散策でもしませんか。木立に可愛い小鳥がちらほらいたから。今は雛がいて、子育てをしているらしいです」
「今、お部屋にも可愛い小鳥が来たんですよ。もう元の姿に戻ってしまいましたが」
ああ、と彼はまるで知っているかのように笑っている。実はここ数日、小鳥が踊りの練習をしていた話を教えてくれた。それを聞きながら、ルイーズはもらったカップの中身をゆっくりと飲んだ。栄養価の高い雑穀が入っているせいか、思ったよりも飲み応えがある。とろとろしているのでポタージュみたいですね、と美味しかった感想を述べると、ヒューイも嬉しそうにしている。
今日はすっきり起きて朝のうちから二人で散歩もできて、とルイーズは一日機嫌が良かった。




