小話③
昼食の後、忘れている事があるでしょう、と母が父を引き止めた。
「……何かあったか?」
「あら意地悪ですね。一番大事な要件をお忘れとは」
首を捻る父を前に、母はその様子を楽しむように洋扇子を広げた。ルイーズはヒューイの腕をつついて、退室を促す。
「母は父に相手して欲しいんですよ。王都に行く時は留守番で、私達が戻ってからは何かと忙しかったので」
「……お義父上とお義母上は仲がよろしいんですね」
食堂を出て階段まで離れたところで、ルイーズはヒューイに説明した。午後はおそらく二人で過ごしたいだろうから邪魔はしないようにしよう、と付け加えておく。ははあ、と彼は珍しい物でも見たような顔をした。
「いいですかルイーズ、ヒューイさんという方はお父様が見つけて来た人ですからね。何事も最初が肝心ですよ。そうでないと『あなたは誰かしらのお茶にひっきりなしに誘われ、主宰する時は皆が我先にと詰めかける人気者だ。なのにどうして私のつまらない話を定期的に聞きたがるんだ?』と心底不思議な顔で言い出しかねません。我が家ではこう、と早いうちから入念に刷り込んでおくように」
ヒューイがこちらへ来る前、母はルイーズを呼んで真面目な表情を作った。わかりました、とルイーズは母の教訓を胸に深く刻み込んだ。
私達はお部屋を整理しましょう、と提案して二人は自室に戻って来た。王都から屋敷に戻って色々と忙しない日々だったのが、ようやく落ち着いて来たところである。購入した物の整理を進める時間が欲しいと思っていた。
そして大事な仕事があって、ヒューイとルイーズ、それぞれに割り振られた私室と扉続きになっている夫婦の寝室の調度品と家具を整えるよう、父から指示されていた。
ルイーズは子供の頃から同じ部屋をずっと使い続けていたのが、結婚を機に場所が変更された。本当は一番上の姉が、結婚した相手と使うはずだった部屋がようやく、本来の役割を果たす時がやって来たのだ。将来的には屋敷全体の管理も行うようになるので、その予行練習でもある。
「楽しみですね」
「……ルイーズが決めて良いですよ」
ヒューイの荷解きと整理を手伝いつつ、その辺りの打ち合わせができるだろうと張り切ってやって来た。ところが相手の反応は、予想していたのは少し違う。
「ヒューイ様も使う部屋ですから、そういうわけには」
「私が選ぶと、素っ気ない暗めの色ばかりになると思うので」
そうですか、と一応の返事は口にする。しかし後でやっぱり実は居心地が良くない等と言われると困るのは目に見えている。どう話をするべきなのだろうと考え込んだ。
「ええと荷物ですが、たとえばお気に入りのカップやお皿などがあれば、今後は厨房の者に管理をお願いしておきますが」
「……今までは、軍が必要な物は支給してくれていたので。ここでは皆さん、専用の持ち物で飲んでいらっしゃいますね」
母は事あるごとに気に入ったカップを買い足していて、父はそれに比べれば随分少ないが、一切ないわけではない。ルイーズもこの機会に自分の持ち物を色々と処分、整理を敢行した。しかし子供時代や姉のおさがりなど、見るだけで甦る思い出もあって、結局捨てられない物が大半だった。お気に入りの本や小物類、姉妹でお揃いにしたり、と挙げればキリがない。
そういう小物から、ヒューイの持ち物の選び方の参考にできないだろうかと考えていた。ところが財布や時計ですら軍の支給品とやらで全く飾り気がなく、残念ながらあてが外れてしまった。
「……そういえば、なんだか随分と大きい棚を用意してくれるみたいですね」
「ええ、できるだけ大きい棚を打ち合わせしておいたのです。どれだけ荷物があっても大丈夫なように、と」
家具の調達を請け負う商会から、大きめの棚を買う手筈になっている。家族が一人増えるのだから、収納が多いに越した事はないと考えていた。実際、姉達も大荷物を運んで嫁入りしている。ルイーズも仮に別の土地へ移るので荷物をまとめるように言われれば、それなりの量にはなる。
家具の調達を依頼した商会が、参考になればと過去の注文品が資料を置いて行ってくれた。それを二人で見てみると、ヒューイもかなり長身だが、書き込んである寸法は棚の方が高い。共用なのかと訊ねられたルイーズは返答に窮した。
彼がこちらへ来る時、手荷物はトランク一個しかなかった。現地で調達する方がいいかと思って可能な限り整理をした、という説明にルイーズはなんとなく納得してしまっていた。実際は私物がほとんどないとは想定外である。
「……」
ヒューイがこれまで生活の場としていたという親戚の家や孤児院、学び舎や所属先は要するに仮住まいである。中には故意に隠されたり、破損したり捨てられてしまったり、と苦い記憶があってもおかしくはない。
宿舎の部屋も異動になれば荷造りししなければならず、今までは保管、手入れをしておいてくれるような家族が彼にはいなかった。肌身離さず持ち歩く事が可能でもない限り、愛着を持っても正しく管理できない。
つまりはそう言う事なのだ。
「……そういえば北の基地にも、色々と持ち込んでいる人がいましたね。非番の時に自室で楽しむのが唯一の楽しみだそうで。見た目や材質やお気に入りの店で買うのが大事、という人も聞いた事はあるんです。それは理解できても、ただ陶器に限らず、壊れたら悲しい持ち物を敢えてこだわる意図はよくわからないんですよ」
自分に置き換えて想像できないだけで、とヒューイは決まりの悪い声で続ける。彼が今まで抱えていた寂しさを垣間見てしまったルイーズは切なくなってしまった。
「……少し、よろしいですか」
このまま気まずい空気で終わるわけにはいかない。ルイーズは自室に駆け戻って本を何冊か、それから物入れから大きな革張りの裁縫箱を引っ張り出した。姿見の中に映った自分の顔が情けない顔をしていないように、一度深呼吸して、何でもない風を装ってヒューイのところへ戻った。
革張りの裁縫箱におさめられているのは、基本的な針と鋏に始まって、たくさんの刺繍糸である。赤、青と同じ名前でも様々な種類があって、小さい頃から僅かな色の違いでも集めていた。他にもガラスビーズは大きさや形は様々で、並べながら自分でもよくぞここまで、と苦笑してしまう。
そして引き出しからハンカチ、特に自分で刺繍を施した物を持って来て、寝台に並べて行く。ヒューイはそれをじっと見つめていた。
「針と糸で、持ち物に自分だけの印をつけるのです。どこにでもある風習でしょうけれど、家族や身内同士で贈ったりもして、将来に向けての練習に励みます。父も自分の持ち物だとわかるよう、必ず母が何か手を入れているはずです。両親は母の方が口は達者ですが、これだけはもう自然な流れで、父も母に任せます。仕事を押し付けるような意味合いは全くなくて」
針を一刺しずつ、相手を想って色と意匠を決める。家が裕福であるほど、結婚に自分の意思が反映される事は少ない。どんなものがお好みか、と最初の話の切っ掛けにするのだ。だからせめて結婚した後に良い関係を作るために、と長い時間の流れの中には、きっと自分と同じような女性達がたくさんいたはずだ。
名前のイニシアル一つとっても、簡素な字体に好きな動物を一緒にするとか、文字の造詣そのものに凝るとか、小さなお花で文字そのものを形作る方法などがある。色も濃淡に清濁や明暗まで好みによって組み合わせると、同じ物は一つもない。
「既に幅広く知られている意匠もあれば、自分で一から、図案を下書きから始める場合もあります。たとえばこれ、花と葉っぱと鳥の羽でそれぞれ糸の刺し方が違うのがわかりますか」
図案の本を開いて、刺し方の頁を開いて説明する。ルイーズの腕前としては人並み程度である。けれど楽しみでも憧れでもあり、嗜みの一環で大切な習慣だと思っていた。
「私にとっては手がかかるものなので、とても大事です。ヒューイ様は、自分の持ち物に他人の手が入る事に、違和感があるかもしれませんけれど」
ここまでの説明を、ヒューイは真剣に耳を傾けてくれた。今までの彼には縁遠かった話かもしれないが、それでも時間の無駄だとか、馬鹿にしたりはせずにいてくれる。しなくていい、とは言わなかった。
「寝室の内装の話に戻りますが」
糸の中から、自分の想像に近い色を探し出した。同じ緑色でも、微かに灰色の混じった色と、淡く明るい場合では雰囲気が異なる。寝台のシーツが白だとすると組み合わせた感じはこうで、と説明しながら小さな糸の束を手で選んでヒューイに渡した。
「正解は一つではないんです。その時に気に入った物、使いやすさ選ぶのはきっと面白いですよ。だって、二人で過ごす部屋ですから。これからどこかへ出かける時にこの風景や建物の雰囲気が好きとか、どんなに小さな事でも教えてください。私も気に留めるようにします」
じゃあ早速、と話を聞き終えたヒューイが真剣な顔で、たくさんある色の中にそっと手を伸ばした。それを横で見守りながら、これから二人で購入する大きな棚の事を考えた。中には他人には価値が分からなくても、大事にしまっておく品物がたくさんできて欲しいと思う。
後から取り出してこんな日もあった、初めて彼が屋敷に来た時には、と懐かしく話すような日が来てくれる事を、願わずにはいられなかった。




