契約の成立
自称悪魔のゴキブリは一瞬きょとんとした顔をしていた。青年が現実にここまで情熱的な愛を求めているとは思っていなかったからである。怠け者の彼のことだから、どうせ死ねまで尽きることのない金がほしいと言ったり死ぬまで寝ていたいと言ったり、その他退廃的などうでもよい願望を抱いていると当て推量をしていたのだ。ところが彼は意外にも、人生でもっとも複雑でわずらわしい恋愛をしたいという。つくづく人間という者はわからないものである。ゴキブリは腹の底で笑っていた。どうせ皆死ぬというのに、ずいぶん一生懸命なものだ。いいだろう、お前さんの自己満足に付き合ってやるよ。
これは俺にとっても、悪い話ではないのだからな。こいつは、使える。
ゴキブリ姿の悪魔はじっと青年の顔を見つめながら彼の脳に話しかけた。
「知っているか?闇の住人である悪魔は現実をいかようにでも変化させる力をもっているのだ。お前さんの願いとあれば、世界の支配者や億万長者にでもなれるし世界中の女性をとっかえひっかえすることもできる。何も一人の女に固執する必要もなかろう。理想の女性を何百人、いや何千人と創りあげることもできるのだ。
それとも願いはひとつにしない方がいいのかな?お前さんが本当にほしいのは性欲ではなく食欲か?それなら全世界のありとあらゆる美食を一生食べることもできるのだよ。金も何もかも心配しなくていい。睡眠欲がほしいなら一生夢の中で死にもせず理想の世界に生き続けることもできる。まあ不老不死というわけだ。もしや名声がほしいか?何もかも独り占めにできるぞ。または知識欲か、天才になりたいのかな?お前さんの言いつけとあれば何もかも思うがままに変えてやるぞ。もう一度言うぞ、何もかもお前さんの思うがままなのだ。」
侮るように見上げる冷徹の目。ただ人間を欲望の塊としか思っていない血も涙もない残忍さ。青年は恐ろしいゴキブリの瞳を見て、この小さな生物が悪魔だと認めないわけにはいかなかった。しかし逃れられない衝動があった。こんなにも気持ち悪く、グロテスクでどす黒い性根が垣間見えるというのに、悪特有の魅力的な誘惑が彼をどうしようもなく引き寄せた。世界の支配者や億万長者、天才といった肩書きは面倒くさかったし微塵もなりたいとは思わなかった。しかし女性を自由にできたり一生食べたり眠ったりできることには心惹かれた。危うく彼は己の欲望に飲み込まれるところであった。済んでのところで欲望のるつぼから脱し、己の信念のために戦うことを決めた。何せ彼には根拠のない自信があったのだ。人間はそこまで邪悪じゃない。悪を押しのけるほどの純白な美しさを確かに有しているはずなのだ。青年は人間の可能性に賭けたかった。
「現実をいかように変える?そんなことは悪魔でなくても誰だってできることだ!お前が見下している人間だってな!すべて現実は俺の頭の中だ。俺が変われば、世界なんていくらでも変わるさ。いいや、変えてやる。人間だからってあんまり見くびるなよ。なんでもお前の思惑通りになると思ったら大間違いだ。人間の素晴らしさ、人間の美しさを死ぬほど味わわせてやる。
お前は人間が自らの欲望に身を任せ堕落してゆく姿を見て笑い、その様だけが人間のすべてだと誤解しているらしいが、そんなもの人間でも何でもない、ただの野獣か、ともすれば化け物だ。お前が散々惑わせ破滅させてきたあまたの人間たちは、真実では決してない。彼らは浮世の表面だけのできごとに固執し、物事の本質を決して見てはいない。俺がお前に本当の人間のすばらしさを教えてやる。それはな、愛だ。途方もない愛だ。この手いっぱいの愛。全世界に散らばる無数の愛。誰かに尽くそうとする献身の愛。俺はお前に、闇を打ち消すほどの純粋な愛の結晶を見せつけてやる。そうすればお前もその横柄で傲慢な態度を改め無上の人間の讃美を謳い、たちまち人間への崇拝者になるにちがいない。そのときまで黙って指をくわえて見ていろ。」
青年は自分の声色が徐々に震えて、体の内側から口元へと上がってくる燃え盛る炎のような熱を吐き出しながら、自分はどうしてこんなにまで激昂しているのか考えていた。悪魔の申し出は彼が腐りきっていると考えているつまらぬこの世界を変えるという大変愉快なものだったのだ。自分の欲望がすべて叶うという理想のような世界。彼が長年想像していた夢のような世界。しかし、人間を傀儡のようにして扱うゴキブリの態度が、癪に障った。たったそれだけの理由でなぜここまで反抗するのか自分でもよくわからなかった。下手をすれば魂を吸い取られ殺されるかもしれない。だが、それでもかまわなかった。人間の尊厳というものを、この愚かな虫に分からせてあげたい。何も知らない哀れで可哀想な虫に知らせてあげたい。その一心で、彼は言葉を発していた。
悪魔は面白そうにこの光景を見ていた。多くの人間を誘惑してきた彼だが、こんな反応をする人間に出会ってのは初めてだった。その事実が圧倒的に彼自身を引き付けた。彼にしてみれば、青年がどんな願い事をしようが破滅をするのは当然で、そのこと自体は何も魅力的ではなかった。大事なのは、過程である。いかに人間がむごたらしく残酷に運命に弄ばれるのかを眺めるのが悪魔の最上の喜びである。しかし多くの人間は、まるで我が身がボロボロに傷つけられ無残に消滅するのを好ましく思っているかのように、運命の従順な下僕となる。ここまで逆上し運命に反抗し、悪魔に打ち勝とうとする人間などついぞ見たことはなかったのである。
とてつもない快感が、悪魔を襲った。ここまで人間を信じ人間のために奉仕しようと思った可哀そうな者などいただろうか。彼が接し契約を結んだ人間はみな、この世界は糞だといった、ゴミだといった。だからこそ簡単に人生を捨て快楽に溺れることができたのである。しかしこの男はどうだ。腐った世にあるはずもない愛を探し求め、狂ったようにわめているではないか。悪魔は高らかに笑った。何たる滑稽さ、愚かな純真さだろうか。この青年が奈落の底にどこまでも落ちていく姿を想像して、彼はまた小気味よく笑った。
「お前さんの人間に対する狂信的な姿勢、愛への執着はよくわかった。まったく惜しいことをしたよ。世界を掌握することも夢ではなかったというのに、たった一人の娘のためだけに願い事を使ってしまうなんて。まあ
よい。すべてお前さんの自由な選択によって決まることだ。
しかしだ、お前さんは自分がまったく矛盾した行動をしていることに気が付いていないようだな。いまこの現実にお前さんが起こそうとしているのは、紛れもなくお前さん自身の欲望なのだよ。下劣で、汚く、醜く、そしてお前さん自身がもっとも嫌っているところの欲望よ。何せ自分のことが大好きで、しかもとびきり可愛い女の子をこの世界に創造しようというのだからな。それさえも、世界を意のままに操ろうと、自分の都合のいいように書き換えようとする意地汚い人間の根性よ。存外、他人のために自分の欲望や人生や、何から何まで犠牲にするなんてことはできないに決まっている。お前さんは愛がどうたらこうたらわけのわからない理屈を言ってはいたが、所詮この世はエゴの産物よ。誰も自分からは抜け出すことができないのだよ。献身というのも、他人に好かれようとする一つの欲望に過ぎない。お前さんは最後にはうまくいかなくなって破滅するよ。人間なんて、結局は自分一人の世界に眠っているのだからな。どうやら精神だけは情熱に燃えているようだがやがて気が付くのさ、誰かのためにではなくすべて自分のためにしているのだということに。お前さんが堕落していく姿を俺は滑稽に眺めることにするよ。」
悪魔はまた高らかに笑った。その悲鳴にも似た不協和音は青年の脳の中でいつまでも鳴り響き、もう一生彼に付きまとうようにも感じられた。青年は二の句も次げなかった。全部悪魔の言う通りなのだ。格好良くふるまってはいたものの、確かに自分勝手なのかもしれない。しかしそれでも、かまわなかった。青年は誰かに好かれるということのすばらしさを身をもって経験したかったのだ。
今まで一生懸命に集めてきたどの絵の中の女の子も、笑っていた。元気づけてくれた。くだらない世界だけれども少しは素敵なところがあることを教えてくれた。でもそれだけで彼は満足できなかったのだ。彼女たちは、手も握ってくれないし一緒に歩いてもくれないしキスもしてくれない。青年は肉体的な接触を求めた。触れることで、ここに自分がいてそして自分を求めてくれる人がいるということをひたすらに知りたかった。それはエゴだ、それは愛ではない。しかし、自分のことを好んでくれる女の子がいたらそれはどんなにいいことだろう。彼女のために何でもできる気がした。彼女が求めることならなんだってやれる気がした。そのためだけに、自分だけではなく世界がある気がした。今は、まだ愛というものがわからない。だが、そういう意識が次第に自分の中に広がっていくことができれば、そして二人で新しい世界を作り上げることができれば、徐々に小さな愛の芽生えが生まれ、立派な樹木に成長し綺麗な果実を実らせるのではないか、そんなことを思っていた。
「悪魔よ、事実はもしかしたらお前の指摘通りなのかもしれない。でも、できるだけやってみたいんだ。俺はもう、死んだようなものだ。こんな無意味な屍のような生活をしていてそれでも、何も卑屈に感じずのうのうと生きていたのだからな。だから俺は、賭けてみたいのだ。こんな愚かで弱くて汚い自分だけれども、生きる喜びを感じれるか。生きる喜びを誰かに与えることができるか。悪魔よ、もう何も言うことはない。俺の願いはひとつだ、そしてそれは絶対に変わることはない。」
先ほどとは打って変わった真面目で静かな顔で、青年は言葉を紡いでいた。悪魔もまた、真摯な目で青年を見つめた。悪魔の恩義は青年の欲望となって、いままさにこの地上に降りたとうとしていた。
「それでは契約といこうか。本来ならば双方に何らかの要求を飲み込ませるものだが、今回は特例として俺からは何も要求はせず無償のサービスということにしよう。お前さんの願い事、この世にお前さんが大好きでとびきり綺麗な女の子を出現させよう。」
悪魔の言葉は文字となって口から煙のように現れ、青年の首元へと吸い寄せられた。青年は驚いたが、あっという間に言葉の煙は首元に吸い込まれ気が付けばそこに小さな黒い斑点ができていた。
「それが契約のあかしだ。」
悪魔は不敵に微笑んだ。