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ゴキブリとは仲良くしたほうがいい

 部屋いっぱいに下着が、ズボンが、シャツが散らばっている。飲みかけの缶コーヒーが、オレンジジュースが入ったペットボトルが所狭しと辺りに散乱している。干したこともなくいつも敷かれている布団のそばには、まだ汁が残っているカップラーメンの容器、無造作に置かれた雑誌。部屋の隅には怪しげな本が山積みにされてある。机の上には新品の教科書がきれいに並べられていたが、その上にも大量のCD、ヘッドフォン、パソコンといった電子機器が不安定に重なっていた。しかし皮肉にも、こうした乱雑な物体の配置が、これらがなかったら殺風景であっただろう彼の住まいを、色彩にあふれた人間味のあるものへと変貌させていた。


 もぞもぞと、布団の中から何者かが顔を出す。顔の輪郭がゴツゴツとして骨ばっている。何日も洗っていない薄汚れたパジャマを着て、ボサボサの頭を伸びきったまま放置している。何かに魂を奪われたかのように覇気のない痩せた頬は、彼の不健康さを表すには十分すぎる位である。まだ夢と現実が曖昧な虚ろ目で時計をじっとにらみつけ、自分を少し恨んだがそれもすぐに忘れ、また布団をかぶって寝始めた。この青年はもう今日は起きることはないだろう。すべてをあきらめ、ただ怠慢な残りかすの日々を己の貪欲さのためにかなぐり捨てているのだ。


 とはいうものの、いささかだらしがないというべきであろう。まあ、まだ社会に出ていない大学生なのだから致し方のないところもあるだろうが、常識に欠けていると判断されてもおかしくはない。それほど彼の住む風呂なしアパートの一室は汚く異臭を放っていた。彼自身、一週間に一回しか銭湯に行って体を洗わない。普段はもっぱら、濡らしたタオルで体を拭くだけで済ましているのである。それでは、体から変なにおいがするのも当然である。彼が特別お金にがめつくケチなわけでも、周りに異臭をまき散らし周囲の反応を見て喜ぶ変態というわけでもない。


 この部屋の主は、すこぶる面倒くさがりやなのである。

 

 彼はありとあらゆることに対してエネルギーを浪費することを厭う。たとえ自らに関係することであっても、それらが全く意味のないものだと思ってしまったら、そのとたん極力避けようとし始めるのである。だから彼は、自分が無意味だと感じたもの-洗濯や皿洗いや料理、興味のない授業への出席といった日常の雑多なこと-をすべて排除し、本当に有意義だと思えるものだけを優先してそれだけのために命をささげてきたのである。

 

 青年は、美少女オタクである。美少女のためにすべてを投げ打ってきた男である。美少女を眺め讃美するために生まれてきたのだ。

 

 読者諸君、彼の部屋の壁を見るがいい、天井を見るがいい。埋めつくす古今東西の美少女の姿を括目して眺めよ。何枚にも重ね合い、一つの模様と化したポスター、タペストリー、絵画。すべてのモチーフが少女であった。紙の中の彼女らは青年に微笑みかける者もいれば、うつむいて沈んでいる者、はたまた元気いっぱいに飛び出してくるかと思う者や軽蔑した眼差しで覗き込んでくるかのような者もいた。彼女たちが入っている絵も多種多様である。西洋、東洋の油彩画、水彩画、ペン画、版画、日本の水墨画や浮世絵、いわゆる現代の二次元の絵もあった。つまり彼の生きがいはこの光景そのものなのである。彼の汚らしい部屋に無限に増殖してゆく愛らしい彼女たちが一つの芸術を形作っているのだ。


 彼は今まで、自分の部屋に存在するこの奇妙なアトリエのためにどれほどの努力を払ってきたのだろうか。ちょっと自分でも想像がつかないほどだろう。生活費も、奨学金も、故郷に住む親からもらった仕送りもすべていつのまにか美少女の収集のために消えてなくなっていた。そのたびにサークルがなんだ、飲み会がなんだと言って親から追加の仕送りを請求する始末である。彼には所属しているサークルもないし、飲み会など一度も参加したことはなかったというのに。青年の孤独はますます美少女の魅力へと自身を引きずり込む原動力となっていった。


 壁の少女だけが彼を見ていた。ただ青年一人が生きるために、彼女たちは存在しているのだ。それだけで彼は嬉しかったのだ。自分にすべてを捧げてくれる少女がいるから、青年は自分のすべてを彼女に捧げることができるのだ。


 彼にはもう一つ生きがいがあった。それはゴキブリを飼うことであった。飼うといっても自然とゴキブリの方から彼の汚い部屋に誘い込まれるというわけだが、とにかくゴキブリにすっかりほれ込んで彼らを愛していたのである。ゴミのような生活をする彼にとってゴキブリは自分と同じ存在であり、その同族意識から親しみをもって接していたのだ。青年は自分の住処に住むゴキブリをすっかり見分けることができ、どのゴキブリがどこに隠れているか把握していた。それぞれのゴキブリに「太郎」や「由美子」といった名前を付けて呼んでいた。不思議なことにゴキブリたちはよく馴染んでおり、名前を呼ぶとそのグロテスクな姿を彼の目の前に現し何の敵意も示さなかった。あるときは青年の背中に彼らはよじのぼりじゃれ合ったりするほど関係は打ち解けていたのだ。

 

 そんな毎日が続いたある日のこと、奇妙な来客者がこの部屋に訪問した。それは一匹のゴキブリであった。彼が飼っているゴキブリのうち誰かがどこかから連れてきたのである。来訪者の姿はボロボロでどうしようもない姿だった。ゴキブリたちがいつも自慢している黒光りの殻は無残にも傷つき、触覚は力なく垂れていた。よほどの困難を潜り抜けてきたのだろうか、体力はほとんど失われやっとのことで生きている様子であった。部屋のゴキブリたちはみな動揺し、すがるような目で青年を見つめた。


「そんな目で俺を見るなよ。こいつを助けたいのだろう。俺がなんとかしてみるよ。」


青年はそう言って笑うと、すぐにこの哀れなゴキブリにクッキーと水を与え、三日三晩看病をつづけた。恐るべき生命力で容態は回復し、四日目にはもう健康的なゴキブリと寸分たがわぬ活動をはじめていた。


「これでもう十分だろう。太郎、こいつをもとのいた場所まで案内させてやれ。もうこいつは自由の身だ。」


久々に他人の役に立って彼は上機嫌であった。自分が生きていく意義を少しは見いだせたような気がした。そうしてなんとなく悦に入っていると、地獄の底から響き渡るような低い広がりのある声が聞こえてきた。


「小僧、助かった。礼を言うぞ。」


しばらくプレイしたことのない懐かしいゲームのラスボスのような声が脳内に波紋する。瞬間、辺りを見渡すがもちろん誰かがいるはずもない。青年は動揺した。自分はとうとう気でも狂ったのではないか。精神科でも行ったほうがいいのか。とにかく他者に適切な措置をしてもらわなければ。


「おーい、聞こえてるか。一応返事をしてほしいのだけれども。」


ラスボスは厳かなその声に反して不安げな言葉を並び立てる。青年はこの異常な状況において普段の何倍ものスピードで頭を回転させていたが、どうやら自分が狂人になったと理解するほかないと結論した。それならいっそ、この狂った世界を楽しむことにするか。彼は半ば自暴自棄のようになって思い直した。もともと自分を囲むこの世界は壊れていたようなものなのだ。どんな奇怪なことがあっても今更驚くことはない。むしろこの幻想に順応すればやがては自らの深層心理に近づき、正気にもどるための道が見えてくるかもしれない。しかし一体これはどうしたことなのだろう。いくら幻の世界とはいっても、声がするのにその主がどこにもいないなんていうことは起こりうるのだろうか。青年はもう一度キョロキョロと自分の部屋を隅々まで入念にながめていた。


「小僧よ、下だ、下を見たまえ。そして早く返事をしろ。」


反射的に下を見ると、なんてことはない助けたゴキブリがいるだけである。と、彼の思考は硬直した。驚くべき光景だった。そのゴキブリが鋭い複眼でじっとこちらを見据えているのだ。今まで気が付いていなかったが、このゴキブリは彼が飼っているそれとはまるで違っていた。キラリと光る眼光は深い思慮に富み、がっしりとした殻は通常よりも一回り大きかった。世話しなく動く触覚は常に状況把握のため感覚を最大限に研ぎ澄ます努力をしているように見えた。その姿だけで、人間には到底たどり着けないような知力を磨き上げた世界に存在することがわかった。しかしその知力は邪悪で狡猾であり、知能の低い凡人を奈落の底に陥れるようにも思えた。


「おい、本当に聞こえているのか!お前もしや狂っているわけではないだろうな。」


もはや事実は明白である。どうやらこの心配そうに見つめるゴキブリが彼の意識に直接声を届けている。とても信じられる話ではないが、おそらく幻想世界では事実なのである。もう彼はすべてを受け入れる準備ができていた。狂気の世界においては狂人は常人なのだから、自信をもって言える。


「僕は至って正常です。何か僕に御用なのですか?」


「ふっ。人間にしてはなかなか状況の飲み込みが早いではないか。ますます気に入ったぞ。お前さんにはとびきりの用があるのだ。わしの肉体、もうほとんど風前のともし火であった哀れな体を救ってくれて感謝を申し上げたい。そこでだ、こんなことは初めてなのだが悪魔であるわしがお前さんのために何か役に立ちたいとこの三日間思っていたのだ。特に人間が愛してやまない希望や夢なぞというつまらん幻影がお前さんの胸の中にあれば、それをわしが叶えてあげようと思っていた。


 ところがだ。お前さんはといったら、一日中布団の中に入って外出しようとはせず、食べたいときに食べる。寝たいときに寝る。その繰り返しで全く自堕落なありさまだ。おそらくバカな人間の中でもよほど動物的な本能だけを持ち合わせているのだろう。わしはあきらめてそっと大人しくこの部屋から退散しようとも考えた。しかしこれだけよくしてもらってそれでは、恩を仇で返すようなものだろう。そこでだ。あまり期待はできないがほんの小さな望みでもいい、お前に何か願いがあればわしがそれを現実にありありと再現してやろうと、そう思い立ったのだ。まあお前さんなぞというカスのような存在には、耳に念仏というだけだろうが…。」


青年は思考していなかった。答えは前々から準備してあってそれを言葉にすればよいだけなのだ。ほとんど条件反射的に口を開いていた。いつだって彼は自分勝手な愛に忠実なのだ。


「僕にベタ惚れで、この世のものとは思えない位すばらしくかわいい娘を創造してほしい。


それが僕の願いだ。」

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