#6 漕いだ
八月も下旬であるというのに、暑さはまだまだ日本列島の真上に鎮座ましましていて、自転車を漕ぐ俺に吹き付ける風は喉から水分を奪う。
赤信号で停止すると、途端に汗が噴き出しシャツを湿らせた。白けたアスファルトから照り返す日差し、頭上から降り注ぐ日差し。上からも下からも責められて、イッてしまいそうだ。脳とか色々。
信号が青に変わる。一年生や二年生は始業式が終わるとすぐにテストだが、俺たち三年生は始業式が終わると通常の授業がある。教科書や参考書などをたらふく詰め込まれたリュックサックが、自転車の前かごをヒィヒィ言わせている。ペダルも軋むようになったし、卒業までこの自転車は持ってくれるだろうか。入学に合わせて買った自転車は二年の夏休みにチェーンが切れて買い換えたから、実はこいつで二代目なのである。
立ち漕ぎ。また熱風が押し寄せる。ただ風がある分、止まっているよりかは幾分マシだ。止まると風はなく、カラカラに乾いた空気とジリジリ焦がすような日差しにヤられてしまう。
日本の夏は高温多湿だという。朝はわりとそうでもない。もしかしたら俺の住んでいる土地がたまたまそうなのかもしれないが、高温にはなれど悩むほどの湿気があるわけではなかった。天突く八瀬山脈が入り込む湿気を遮断し、乾いた空気のみをこちらに寄越してくれる。山脈の反対側は他の地域に比べて、より雨が多かったりするらしいが、普段山を越えることはないのであまり気にしたことがなかった。
山脈を越えると他県である。自転車くらいしか移動手段のない高校生からすると、他県は他国も同じようなものなのだ。電車で二駅だが。
家から学校までは自転車で二十分と少しくらい。ある程度スピードが出ると、立ち漕ぎよりは座って漕ぐ方が楽だし速い。しかし俺は、頑なに立ち漕ぎを続けていた。サドルが盗まれてブロッコリーに付け替えられていたわけでも、時速八十キロより落ちると爆発するわけでもなかったが、それでも俺はサドルに腰を落ち着けたりはしなかった。
サドルに座ると思い出してしまう。アイツ……ちん子がもう、俺の元にいないということを。絶妙に景色を眺めて夏を感じ、いくら暑さに喘いでも、座れば絶対に思い出してしまうのである。
これからは、前傾すると微妙にフィットする角度がなくて落ち着かないことも、自転車の使いすぎによって前立腺に悪影響を及ぼし射精障害を起こしやすくなるかもしれないと気を病むことも、急な段差で微妙な痛みに苛まれることもないのだ。
ちん子がいなくなってしまった。ちん子がいなくなってしまったからだ。そう、俺はもう、ちん子と一緒ではないのだ。
自転車に座ると、どうしてもちん子がいない、その事実を思い出してしまう。左右の太ももの間に不自然に自然な隙間があるのだ。
家を出てすぐにそのことに気付いてしまった俺は、今後、絶対にサドルに腰を下ろすことはやめると決意し、今に至る。
遠く八瀬山脈からは蝉時雨が降り注ぎ、真っ青な空には真っ白い入道雲。激しい日差しはアスファルトを焦がし、人間を焼く。
夏はまだまだ終わりそうになかった。
……言うな。
前半言えなかったから、後半で怒涛のちん子連呼があったことなんて言うな。
えー、一応ですが、当小説に出てくる固有名詞はきっとすべてフィクションです。もし八瀬山脈があったり、佐藤忠邦くんがいたりしてても、実在する地名、人物とはおそらく関係がないのでご了承ください。
でも、もしかしたらどこかで朝起きたらちん子がもげていた、なんて人もいるかもしれませんし、その時はこの小説が実話に基づいた話になるでしょう。きっと。おそらく、たぶん。
ではまた来週。