鐘の音はどこまでも
鐘が鳴った。
羽を休めていた鳩たちは飛び立ち、広場を埋めた群衆の叫び声が響く。
打倒マッケンロー王政。
広場の群衆は反乱軍の面々だ。そして、この広場は反乱軍の拠点の一つ。彼らはここから反旗と共に王を打ち取った。
4月20日。
彼らは圧政の日々から抜け出し、飛び立った鳩のように自由となったのだ。
誰もが喜んだ。誰もが涙を流した。
そんな歓喜が渦巻く広場の片隅で不服そうな表情をした少年が一人立っていた。
少年は孤児だ。
王政時代に繰り返される戦争にで両親はなくなった。兄弟もいない少年は掃き溜めのような路地の片隅で日々を過ごし、盗みをすることでなんとか生計を立てていた。
今日、王は倒れた。これからは民衆の時代が始まる。
はたして恩恵は少年の元にもやってくるだろうか。
少年には分かっていた。民衆にやってくる恩恵は自分の元にはやってこないことも、何一つ明日の生活が変わらないことも。
少年は歓喜溢れる広場に背を向けて歩き出した。
彼らの喜びは少年にとっては辛いものだった。
荒廃した路地に少年は戻った。いつもの場所、入り口近くには左足を失った男が横たわっている。死んでいるかどうかも分からない。骨と皮しかない腕が力なく垂れ下がっている。どのみちこの男は長くはないだろう。
少年は男の横を通って路地の奥に進んでいった。
底辺の中にもコミュニティは存在し、少年の居場所は迷路のように入り組んだ路地の先だった。少年にとってこの路地は唯一の安らげる場であり、商売道具の一つでもあった。
入り組んだ路地が追っての追跡を回避するのに役立った。路地に活かされ、路地と共に生きる。蛆虫のように路地に住み着き呼吸していた。
少年の居住が許可された路地の一角。少年はただ腰を下ろす。家らしいものはない。屋根も壁もない。木の板と風で飛ばされないように石が乗せられている空間だけが少年の居場所だった。
これからどうしようか。少年は明日を生き抜くことを考える。一昨日パン屋で盗みを働いた。残りはもう手元にはないが、おかげで胃袋にはまだ余力がある。余力があるうちに、まだ、足と手がちゃんと動くうちに食糧は確保しておく必要があった。
路地の外は敵だらけだ。
信じられる人間は存在しない。
ぼろきれの服と穴だらけの靴を履いた少年はどこへ行っても心無い視線に晒された。それはまるで汚物を見るように人々は少年に視線を向けた。
少年はお構いなしに通りを進んだ。悲しい思いは胸の奥の奥にしまっておく。少年は今も昔もそうやって生きてきた。それはこれからも変わらない。
少年は八百屋の前にやってきた。
店先には真っ赤なトマトが木箱に入れられ売られている。みずみずしく、太陽の陽光を反射して植物特有の光沢を放っている。
少年は駆け出した。
彼の目には新鮮はトマトしか入っていなかった。口の中には既にトマトの味を欲して、唾液が湧きだしていた。
少年は店先で素早くトマトを盗んだ。店主が客の対応に追われている隙をついて、両手で持てるだけのトマトを掴む。
「泥棒だ!!」
気が付いた客の一人が声を上げた。
少年には逃げ出す他に道はない。両手いっぱいのトマトを抱え少年は塒へと駆け出した。
路地を曲がり、道をひた走る。
途中で数個のトマトが腕から漏れたが、気にしている暇はない。
「誰か、そこの糞ガキを止めてくれ」
亭主が叫ぶ。
道を行く大人たちが一瞬に正義の心が宿る。少年を取り押さえるべく無数の手が伸びる。
躱すが躱す度にトマトが一つまた一つと腕から零れ落ちた。
少年が塒に到着した時には手にしたトマトは二つになってしまっていた。
上出来とはいえないが、今日を生き残るための食糧が手に入ったことは純粋にうれしかった。
少年は手に入れたトマトの一つを口に入れた。
甘味よりも酸味の方が強い。それでも久しく口にしていないトマトの果肉が少年の心を躍らせた。
「ああ・・・」
思わず口から洩れる感嘆の声。スラム街に流れる安息、いつまでも味わっていた幸せ時間。
そんな時間は長続きはしない。
「おい。いたぞ。盗人の餓鬼だ」
路地の向こう側から八百屋の亭主が追いかけてきていた。
少年は驚いた。ここまで追い詰められたことは初めてだった。常識のある大抵の大人たちは、少年がスラム街に逃げ込むのを確認すると追跡を止めるものだ。
少年は走り出した。
一つのトマトは木の板の上に置き去りにした。
少年は思考を働かせた。入り組んだ道の連続なスラム街の中、見つけ出された。
八百屋の亭主はこの街に精通しているのかもしれない。
少年は知らない。この街で隠れられる場所を。
「そうだ。広場にいこう。あそこならば大勢の人で賑わっているはずだ。群衆に紛れれば逃げられるかもしれない。」
広場はまだ熱気に溢れていた。
群衆の波の中、少年は掻きわけながら逃げた。スラム街に生きる少年の疾走は歓喜の広場に嫌悪感と共に広がっていった。
「その餓鬼を止めてくれ」
背後で亭主の声が聞こえた。
それが少年の最後だった。
無数の大人の手が少年を押さえつけた。もみくちゃになりながら、地面に押さえつけられた。
「離せ」
少年が上げた悲鳴は彼らには届かなかった。
煉瓦の堅さを頬で味わった。口の中には鉄の味が広がった。
トマトの風味は遠い。幸せだった時間も消えた。
鐘が鳴った。
青空の中、どこまでも遠く彼方まで鐘の音は響き渡った。
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魔王の巣窟
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