4.カップル・シート
ざらめがはじめて(と言っても数時間しか共にしていないが)我が儘を言ったので、無明はとても驚いた。この鬼児は気味が悪いくらい大人しい。きっと、ことばの無力を思い知っているんだと思われる。
ざらめが言ったのは、無明に席についてくれということだ。細かく言うと、テーブルを挟んで向かいに座ってくれ、と言ったのだ。
祭のために道路は開放されており、車道の上にはいくらかのテーブルと椅子が置かれていた。四角い木製のテーブルと、安そうなプラスティックの椅子である。ぼんやりと祭の灯りに浮かび上がっているが、誰も利用していない。ざらめは嬉々としてそれに座った。ジュースのコップを(買い物の手法を会得した)握りしめ、木で出来たテーブルが真四角なのに、顔を紅潮させている。角を撫でたり、うっとりとため息をついたりする。
「すごい。きれい。いいなあ。きれい」
うらやましい……という声があつい吐息と共に何度も漏れていた。まるで、人間の女が高値の洋服を選んでいる時のようだ。へんなやつだなあ、と、ここ数分で五十回目くらいの感想をぼんやり思い浮かべながら、しかし無明はなんとなく喉の奥がかゆくなるような、へんな感じがした。そこに、何かことばが引っかかって、やきもきしているかのようなかゆさだった。それは、何となく無明を、ざらめの向かいに座らせる作用を持っていた。
浮かんでいた無明が椅子に着地して(座面に不良座りである)、じろっ、と睨んでやると、ざらめはその白い餅のような顔を真っ赤にしていた。もしかしたら、祭りのあかりの加減でそう見えたのかも知れないが、指先や耳の先が、ぼんやりと赤く透けていた。
ふと、人食いは、自分が今ついているテーブルが、歩行者天国の道路の上ではなく、次元が少しずれた世界の誰かのテーブルの上にあるのではないか、と、不思議な思いを起こした。
「こうするのを、あこがれだったんです」
ざらめのどもった声で、無明は我に返った。そういえば、我々はもともと、次元が少しずれた世界の生き物なのだった。
「こうやって、向かい合わせに、誰かと座るの。ずっとやってみたかったんです」
でも、そうか、今、人間の世界と我々の世界と、ずこくあいまいな場所に居る。無明は銀色の髪で、腫れぼったく暑くおもい空気を感知しながら考えた。人間の次元が一枚目。俺たちの次元が二枚目だったら、今は一枚目の裏あたり。そこで、俺は鬼の前に座っている。
「……無明さま?」
「うわっ」
突然、銀髪を触られたので、無明は思わず声を上げた。ざらめが、蜘蛛の糸を掴むようにして銀髪を握っていた。それから、さっきまで上気していた顔を真っ白にして、ものすごい後悔の色を瞳に湛えて、震える声で「ごめんなさい」と言った。
「べ、別に怒ってたわけじゃねえよ! 良いからっ、一人で楽しそうにしてろ! 俺に話しかけんな!」
怪しまれるだろ、と怒鳴って、なんかもう、頭がカッカして、無明は銀髪をひょいひょいと適当に伸ばしてそこらの屋台から品物をたくさん失敬してきた。こっちでカステラ、こっちでお面、こっちで飴細工、こっちでハッカ笛。もちろん、こっそり。それを矢継ぎ早にざらめの前に並べ立てる。お金、とざらめが言うが、無視。
「それと、その変なかしこまり方、窮屈だからやめろよ! いいか、人間てのは、もっと、我が儘で、意地汚ねえの。有り難くタダ飯を食うの。机はきれいに四角いの。あと、その無明サマっていうのも、うざってえ! おれはそもそも、人食いサマじゃ……」
『無え』、をすんでのところで飲み込んで、あわてて無明は口をつぐんだ。思わずあぶねええ、という顔が出る。危ない。コイツを幻滅させたらコッチの命が無いのだった。表情を取り繕って、ざらめの方を見ると、無明の心配事など何処吹く風で飴細工などに感心している。顔はまた赤く透き通っている。皮膚はオレンジ色に透けている。
だんだんに夜の気配が濃くなってきて、人のがやがやしたものが、世界の主人公格から、脇役にそっと身を縮ませる。耳の遠くでぼんぼりが温かく、目の前の鬼児が顔を真っ赤にしている。テーブルは正確に四角い。
人食いは思いがけず微笑んだ。
片方の席が透き通っているカップル・シートに、少女が座っている。幸福に充ちた顔で向かいを見つめる。少女にしか見えない、人食いが座っていて、ああだこうだと文句を言って、楽しいか、と尋ねる。鬼児は、飴がこんなに甘いのを、初めて感じて、泣きそうになる。