3.ざらめ
3.ざらめ
あたりには浴衣を着たひとびとでごった返していた。小さな鎮守の森に、荒廃した無明神社を残しておく程度に郊外であるちいさなまちの、目抜き通りを中心にして、そこらじゅうに露天がひらいていた。無明は空中にぷかぷか浮いて、ひさびさの人里にほうほうと鼻をならしている。大して鬼児のほうは、途方にくれたように、中途半端に右往左往をくりかえし、何度も頭上の無明に視線を送っている。
日は大分かたむき、空はゆうやけからすみれ色になってきている。蝉の鳴き声と、はやしの音がごちゃごちゃになってとおくのほうで反響している。
なるほど、着物すがたの少女もこの人混みもあいまって目立っていない。しかし立ちつくしているうえに、何もない上空(じっさいは無明がいる)に視線をやっているので、
「おい、お前。あやしまれるぞ、もっと楽しげに動き回らねえと」
「で、でも、わたし、こんな人たくさん、初めてで、……です」
「人のなかで行動したほうが、おまえもちぃっと人になる方法に近づくかもわからんだろ、ほれ、動け、びくびくすんな、オレを見んな、迷子って思われたら困るっつうの……ホラ、あれは食い物を売ってんだ。ひとつ買ってきてみろ」
前半は完全に無明の捏造と希望的観測の口でまかせだが、鬼児はおおきく頷いて、ようやく道のはじを歩き出した。
無明が示したのは綿菓子屋である。
そういえば、と思って、空中にぷかぷかしている銀髪は、毛先を繰ってポケットから小銭を何枚か出し、少女に押しつけた。当たり前のように賽銭箱の中身である。銀色のコインを五枚握らせ、「これと交換するんだ」と念を押す。
「……無明さま、人間のこと、お詳しいです」
「オレはむかしは人間だったんだ」
出店の主人の人間も、着物姿の少女を大して不審に思わなかったようで、鬼児はあっけなく綿菓子を手に入れた。巨大な繭玉にでも見えているのか、鬼児は呆然として口をつけない。あたりは暗くなってきて、少しずつ人も出てきている。空気は地面から耳元あたりに浮ついて、立ち上るようになり、耳や目が遠くのものと近くのものを捉えようと忙しくなる。やがて鼻の奥のほうを中心に、五感がぼやんとしてくる。祭りの夜になる。
食べてみろよ、と何度も言って、食べ方まで指南してやって、鬼児はようやく一口を食べた。無明は斜め上からそのようすを伺っていたのだが、鬼児の顔が、さっと紅色になるのを見た。割り箸を握る、みかんのふさのように小さく短い指も真っ赤になる。
「溶けた……です」
「ざらめだからな。知らないのか。綿菓子みてえなナリをしてんのによ」
こう、まんまるで、白くて。無明がニタニタ笑いながら言うと、鬼児はあいまいに口の端をゆるめた。しばらく沈黙が続いた。なにを考えているのか、銀髪の妖怪は、失言をしたかな、と正直どきっとした。だって、泣かれると困る。泣かれたら人が寄る、どうしたのなんて聞かれたらいろいろまずい――やばい、と思ったあとの胸の空白に、無明はあわててざまざまな理由を並べて立てた。でも鬼児は泣いているわけではなかった。
このとき、祭りの灯りに照らされた横顔が、甘く、溶けて、いなくなる、ということについて、きっと考えていたのだ、と無明が思い至ったのはずっと後のことだった。
「おいしいかい、お嬢ちゃん」
という声がかかった。綿菓子屋の店主だ。少女が購入後も店の前でぼんやりしているのだ(実際は無明と会話しているのだが)、何事かと思ったのだろう。
「何歳だい、お名前は?」
気の利いた立ち回りは鬼児にはできなかった。その場で立ちすくんで、視線をきょろきょろさせて、口角を上げたり下げたりしてしまう。あげく、無明のいる上空にまた助けを求めるように視線をやる。無明はやばい、やばい、と、鬼児の耳元まで寄って、「十歳!」。鬼児は「じゅっさい……」。名前。名前。名前、名前、名前。無明はあわてて考えて、
「ざらめ!」
鬼児の肩がびっくりして、息をはっと吐いて、それから顔を真っ赤にし、視線を上空にやったまま、「ざらめ……」とため息のように答えた。人見知りをする子だとでも思ったのか、中年のおじさんの店主はそうかい、と優しく言って、あとは深入りしなかった。すかさず、銀髪が鬼児の背中をせっついて歩かせる。
大した距離のない通りだが、鬼児の足でとぼとぼ歩くと、まるで三十三間のようだ。鬼児はまた黙り込んでしまった。無明はほっと胸をなでおろしていた。
たくさんの話し声が、かたなで集まりこなたで集まり、鬼児の頭上をすわっと通り過ぎていく。小豆をけたたましくかき混ぜる時のような、同時多発のこまかい音が群れになってたくさん走っていく。鬼たちがだいすきな人間の皮膚のにおいで充ちている。汗と皮脂と白粉のにおいがごっちゃになって、むわんとあたりに漂っている。でも、鬼児には手元にある綿菓子の、ざらめのにおいのほうが強い。
「ざらめ……」
そう呟いた鬼児の頭上で、無明が「あ?」と気まずそうな声を出した。
「だって、怪しまれるだろ、あそこでひるんだら! 綿菓子みてえな見た目だしさ、お前、思わず」
「わたし、ざらめの、言って、良いです?」
「は?」
「わたしを、名前、ざらめです?」
無明のいる斜め上の空中を見上げる鬼児の瞳が、出会った時のように、大きく、そして光を取り込んできらきらしていた。鬼児の感情の因果の定則がいまいちぴんと来ないで、無明は不可解な顔で、空中に寝転がる。そしたら急に、狂暴人食いの使命感を思い出して、
「お、おう! 呼び名が無くて面倒くせえ。そのうちオレが綿菓子みたいに食べるからな」
「はい」
それがお願いです。ざらめは目元と口元が、溶けてふやけたような、やわらかい顔でわらった。本当に舐めたら甘いんじゃないのか、と無明が訝ったほどだった。