2.人食い無明
2.人食い無明
「ははん、なるほど。鬼どもが人間をおびきよせる疑似餌っことか」
着物で着ぶくれた少女が小さく頷いた。無明が空中で、長い銀髪を垂らしてぷかぷか不真面目に浮いているのに大して、綿菓子のようにころころしたその女児は、地べたに正座し、表情も硬い。
その鬼児の少女は人食い無明を騙すほどまで、人間のにおい・人間の外見を持っている。それは、彼女が鬼社会で担っていた役割のためという。
「はい。鬼の、たべる人間、おびきよせるために、わたしが人間のにおいの植えられ、人間の肌の、着させられました」
その何重にも着込んでいる着物も、人間に化けるためのものだった。この衣は自らで脱ぎ着できるものではないらしく、無明に頼んだわけらしい。無明はさきほど、それを一枚剥いだら、鬼児の本領が漏れて出るのを目の当たりにしたところだ。しかし、あの放出で「漏れ」かい。無明は頭を抱えて、
「それで、何故人間になりたいんだ、鬼児? 鬼の仲間に入れてほしいんじゃねえのかよ……」
「わたしに、半端ものにした鬼は、わたしを……さげすむばかりです。わたし、は、もう、半端はいや、です……。わたしは、どちらかで、なりたい……です」
「いや、だから、何故そこで人間なのよ。仲間に入れてもらいてえなら鬼によ……」
「人間を、なれば、あなたが、喰ろうてくださる、の、……です」
さぞ、鬼どもの悔しがることです。鬼児の少女はそう言って微笑んだ。ああ、死にたいのか、なんだ。人食いの無明は鼻をならして、空中で寝返りを打った。その少女のひとみは、絶望に歪んでもいなかったし、復讐に燃えてもいなかった。ただ、夏の真昼時のひかりを取り込んで、海のようにきらきらしていた。思わず舐めたらうまいだろうなァと思って、あわてて舌のしびれを思い出したりしたくらいだ。
しかし、無明はそのきらきらした瞳を正直、直視できない。ばつがわるい。なんども空中でごろごろ寝返る。どうしたものか、なんて言おう、あれは信じている、ほんとのこと言ったらオレもハマーのように消し飛ばされるんじゃ……
――実は人食い無明は人食いではない。
ただの無害な霊魂出身で、そのながい銀髪をあやつって人を転ばせたりいたずらしたりしてかるい怪我をさせ、血をぺろっと舐めるだけの、かわいい物の怪である。鬼に較べれば毛埃くらいの低級さだ。
人食いは、無明神社に住み着いていた、前の奴である。それが今の無明に全部放り投げてどこぞへ放擲し、無明は最初こそ分不相応な肩書きを愉しんだが、あんまり畏れて人が来ないので困り果てていたのだ。
無明は考えた。
今、実は無能の物の怪であることを言えば、ハマーの二の舞。
逃げるにも呪いのせいで逃げられない。鬼児に紐を付けられている状態である。
一番てっとりばやいのは、彼女ののぞみをかなえてやることではないか。なんとかしてこの人間らしい鬼児を真に人間にしてやる。そうすれば無害だ。人畜だ。それからこっちの無能を明かしたとして、ハマーされるようなことはあるまい。よし、しばらくは人食い無明でいよう。
無明は身を起こして、地面に降り立った。銀髪の先っちょを偉そうにふんぞりかえらせて、「いいだろう」。
「お前が人間になる方法を探してやる。そんで、そのあと、オレがまるっと喰らってやる」
鬼児は、ひかりを溜め込んだ例の大きな瞳を見開き、ぼさぼさの頭を下げた。
「ありがとうござい、ます、銀髪さま」
正直、後ろめたさを感じなかったわけではないが、無明がうまいこと立ち回るにはこれしかない。ひりひりと痛む舌を噛み、人食いの青年は、長い銀髪を操って、さきほど剥いだ綾衣を拾って、綿菓子のような少女の腕に通してやった。
せめて、できるだけ人間のにおいでいてくれないと、無明は自己嫌悪でおかしくなりそうだったのだ。
「……俺の名前は無明だ、銀髪って呼ぶんじゃねえ!」
「はい、無明さま」
鬼児は非常に礼儀が正しかった。衣の数だけよそいき仕様なんじゃないかしらん、と真剣に訝るくらいだ。貶められた者の卑しい目つきこそしていないが、きっと下手に出ることしか知らないのだろう。
――ということで、啖呵を切ったのはいいものの、鬼を人間にする方法なぞ、実は無明には皆目検討がついていなかった。鬼児に尋ねると、首を振る。「人食いさまを、喰われていただくことしか、考えていませんでした」。
じゃどうすんだよ、と言いかけた口をふさいで、無明は頭を抱えた。とりあえず人里へ降りてみるのはどうだろう。あの狂暴な鬼たちも、まさか人のいる前でああいう暴れ方はするまい。まず保身。よし、まちだ。まちへ行こう。
……しかし、連れは着物姿の少女である。しかも何重にも着ぶくれしている。いくら人間らしいといっても、確実に不審がられるだろう(無明は人に見えないのでけっこうである)。
どうしよう、どうしたものか、空中でもんどりをうって考え込んでいる人食いに、鬼児の表情が訝しげになった時、無明の耳にある音がきこえた。太鼓の音である。囃子の音だ。
がばっとばかりに銀髪は身体を起こした。根本を残して粉々になった鳥居の向こうに広がる、夏の終わりのまちから、不意打ちのようになま暖かい風がきた。
「やった」
無明はかたむいてべったりした陽光を浴びながら、胸がすくのを感じた。
「おまえ、すごいぞ。今日はまつりだ」