1.綿菓子
無明神社は人を喰う
変な噂を流されたものだ。人の世ではこういうのを営業妨害という。訴えたら勝てる。無明は目をまばたいた。晩夏の風はまだぬるい。どこかで間の抜けた蝉の声がする。アブラゼミの。死に損ないか、気が違っているやつだ。布を裂くような声で鳴く。
そのとき、無明は縄張りに誰かがはいってきたのを感じた。おお、と鼻腔を広げる。
「無明は人を喰うぞ」
長い銀髪を揺らして、大喜びの無明は唇を舐めた。
鳥居に一礼してやってきたのは、綾織りの着物の幼女である。
1,綿菓子
綿菓子。
無明は社の屋根の上に寝ころび、雨どいのところから顔を突き出した。長い銀髪が蜘蛛の糸のようになんぼんか垂れ下がる。そうやって上から、賽銭箱の前で手を合わせる少女を見下ろしながら思った第一印象が「綿菓子」である。
白い肌、等身の低いちまちまっとした身体に、何重の着物で着ぶくれさせられているので、ころっと丸い。楊枝のような指先と足が飛び出ていて、若い髪の毛は黒々としているが、ずいぶん短く乱暴に刈りあげてある。
綾織りを着ているくせに、身分が知れない。
切り餅のような手を合わせて、なにやら一心に祈っている。ちなみに、ほぼ崩れている拝殿の中には何も居ない。無明は「フリ」をして、ここに住み着いているだけだ。
綿菓子はまだ祈っている。少し悪戯心があらわれて、無明は長い銀髪をちょいと操って、そろそろと毛先を伸ばし、綿菓子のむき出しのうなじをつっついた。
「やっ」
と、双肩をびっくりさせて、綿菓子はあたりをきょろきょろする。ころころした生き物がきょろきょろする様が愉快で、無明はさんざ銀髪で綿菓子をからかった後に、
「銀髪無明は人を喰うぞ」
そう言って、少女の目前に降り立った。拝殿のすずが、ごろん、と鳴る。朽ちて傾いだ賽銭箱の上に、銀髪の無明はけもののように着地する。
「ここが人食い無明が住処と聞いての願い事だろうな」
少女は少なからず驚愕していた。丸く大きなひとみが見開かれ、片足が中途半端に後じさる。無明はこの神社でなんびゃく年も人間を驚かしてきたが、少女の反応はあまり子供らしくなかった。そこらの下品なこどもとは違うのか、綿菓子をじっくり見つめる。
何年ぶりの人間だろう! 近年の噂のせいで、めっきり食事の機会が減ってしまっていた。まだ脂ののりきっていないこどもだが、白い肌や柔らかそうな瞳、なにより甘そうな血のにおいがする。銀髪の無明は思わず相好を崩した。さて、どう出たものか、とその緊迫した空気を楽しんでいると、
「あ、あのっ……」
口をきいたのは綿菓子の方だった。これは初体験だったので、無明は思わず「えっ」と零してからあわてて口を押さえる。まさか、まさか少女のほうに口火を切られるとは思わなんだ。少女の声は、蚊の鳴くようで、声量の上澄みでしゃべっているようだった。
「わたしを……」
そのとき、突然、参道から巨大な鉄の塊が、とんでもないうなり声とともに飛び込んできた。もともとぼろだった鳥居が、砂糖菓子のようにぽきっと折れて、粉々にふっとんだ。無明はその光景を現のものかと疑った。鉄の塊――全長約五メートル全幅二メートル、米軍用車シビリアンモデル・ハマーである。それは、ロデオように境内をめちゃくちゃに暴走し、地面がゆっさゆっさと揺れる。
「は……?」。無明が銀髪の毛先すら動かせずに、ぽかんとしていると、そのハマーが、そのハマーが、怒鳴った。「見つけたぞ、娘ェエ!!!」――そのまま、ハマーは賽銭箱の前の綿菓子に突っ込んだ。
「なんだこりゃあっ!」
無明は間一髪のところで飛び上がったが、すぐ足下で、拝殿の前面がハマーに食い散らかされているのを見て、息を呑み込んだ。思わず、賽銭箱と共に消し飛んだ少女のことを目で探す――敷地のはずれ、雑林の根本に、ボロ雑巾のようになっている綿菓子を見つけた。無明は咄嗟に空から降りて、少女の元に立った。
少女はまだ生きていた。無明が傍らにいるのに気付くとうすく目を開ける。顔や手や、肌の出ていたところからひどく出血していた。
「ああ!てめっ! せっかくのオレの食い物、きったなくしやがって!」
無明は頭を抱えて、銀髪の毛先を動かして少女の身体を持ち上げてやった。綿菓子のように柔らかく甘そうだった女児は、血と泥ですっかり汚れており、見る影もない。血が流れているのを見て、無明が思うのは、慈悲ではなくて「もったいない!」。少女はなにごとか言おうと口をぱくぱくしているが、無明はそれにまるで耳を貸さず、すぐさま、少女の額の傷に唇をあてて、流れ出る血をべろりっと舐め取った。
とたんに、舌に甘い甘い心臓の味が広がり――
「げえっ!!!!」
舌が蒸発せんばかりの激痛に襲われた。それはもう、舌に鉄ごてを当てられたような、強力な酸をぶっかけられたような衝撃だ。口を押さえ、銀髪の青年は絶望に悟った。
「こ、こりゃあ、人間の血じゃねえっ! お、鬼児の血じゃねえか!」
最悪だ――頭が痛みと衝撃で真っ白だ。しかし驚いている暇もなく、あの暴走ハマーが再度狙いを定めているのを、無明は涙の浮かんだ目の端で見た。やべえ、飛んで逃げるにも、今の痛みで動きが鈍る――「銀髪さま」。耳元で少女の声。
「わたしの、衣を、剥いでくださいまし」
正直、ええっ、と思ったが、無明は迷わずに、銀髪を操って(両手は口元から離せない)、少女の着ているたくさんの着物の、一番上の綾衣を剥ぎ取った。すると、みるみる少女の身体が癒えていき、そして、無明は彼女がとんでもないものであることを認識した。綾衣を脱いだとたんに、脱皮したかのように、妖気がぼろっと漏れてでたのだ。
その丸いからだから発散されている妖気が、無明の目にはまぶしいまでの光でもって爆発する。ハマーの鉄の身体が、めりっと軋むのを無明は確かに聞いた。そして、大地を裂くような音を立て、やがて消滅した。
残ったのは爆撃でもされたかのようにボロボロの社殿(実際爆心地)である。頭上で木の葉ががさっと言うので、無明はようやく我に戻った。舌のヒリヒリはまだ収まらない。つい三分前まで、さびれて、忘れ去られた、しずかな土地だった場所が、ハマーに踏み荒らされ、そして爆発に見舞われたのである。現在と三分前を結びつけるのに、人食い無明はものすごく時間を掛けた。
「オレ、鬼児の血を舐めっちまった……」
鬼児の血を舐めるということは、それは実は、妖怪のあいだでは有名な呪いである。
鬼児に取り憑かれてしまうのだ。鬼児が大人になるまでの五百年間。鬼社会といえば、妖怪界でも畏れられる弱肉強食世界である。できれば無縁でいないと、いのちは無い。今その一端を見たわけだ。ハマーが突っ込んできて爆発が起きる世界である。
「銀髪……さま」
無明が半分泣きそうになって頭を抱えていると、気後れした少女の声がした。申し訳なさそうにまなじりが下がっている。さっき、ハマーを消し飛ばした鬼児とは思えないほど、ふつうの人間である。気配も、においも、すべてだ。人食い無明が血を舐めるまで気付かなかったほどなのだ。
「わたしを……一緒にいてくださ、るの、ですか……」
その声があまりに泣きそうだったのだが、無明は気を取り直し、
「ば、ばかを言うんじゃねえ! オレはただの人食いだ、鬼児などまっぴらよ!」
と、ふわりと飛んで逃げようとした。しかし、空中に飛び上がって、木の梢の高さを超えた辺りで、突然からだが重くなり、地面から吸い寄せられるように墜落した。
ああ、ああああ、と無明は地面にうずもれながら自分の舌を呪った。いや、呪われたのは自分だ。鬼児の呪いにかかってしまった。もうこのこどもから逃げられない。
「銀の髪の、人食いさま」
鬼児はかしこまって、無明の銀髪に触れた。思わず人食いは銀髪を引っ込める。
「わたしに、願いをたすけて、ください……。わたしの、わたしは、人間になりたいのです」
無明は思わず口をあけた。引っ込めていた銀髪すらくたっと力を無くしたくらいだ。
どこかでアブラゼミの鳴き声がする。死に損ないか、気が違っているやつだ。