カフェやまびこ
限界集落に移住してきた家族のある体験談。後味の良さと悪さが同時に響きます。
一
軽自動車のフロントガラスに、霧雨が斜めに張りついていた。
紗英はワイパーを最弱にしたまま、対向車もほとんど通らない県道をゆっくり走っていた。後部座席の翔太は、もう三十分ほど眠っている。チャイルドシートのベルトに首を傾け、口を半分開いたまま、規則正しい寝息を立てていた。
「もうすぐ着くよ」
返事がないことを承知で言った。
フロントガラスの向こうに、緑が滲んでいた。杉の植林、その隙間から顔を出す広葉樹の若葉。五月の山は、東京で見る緑より濃く、雨を含んで黒く見えた。
カーナビは三キロほど前から「目的地周辺です」と繰り返しているのに、集落らしいものはまだ見えない。スマートフォンの電波は二本から一本になり、いつの間にか圏外になっていた。
夫の悠介とは、先週末にも電話で喧嘩をした。
「だから言っただろう。翔太まで連れていくのは無理だって」
「無理じゃないよ。翔太は大丈夫」
「五歳の子の何を見て大丈夫って言ってるんだ」
「一緒に暮らしたいだけ」
悠介は東京の広告代理店を辞めなかった。
紗英が古民家で店を開きたいと言ったとき、最初は「面白そうじゃん」と笑っていた。けれど、話が具体的になり、「移住」という言葉が出てから、彼は笑わなくなった。
「単身赴任みたいなものだと思えばいいだろ」
最後にはそう言った。
単身赴任。
誰が、誰の。
カーブを曲がると、視界が突然開けた。
谷間に瓦屋根が点々と散らばっていた。十軒か、十五軒。その周囲を段々畑が囲み、細い道が山肌を縫うように続いている。一軒の煙突から、白い煙が立ち上っていた。
吉野谷集落。
紗英は車をゆっくり停めた。
「翔太、起きて。着いたよ」
頬を軽く叩くと、翔太が目を開けた。しばらくフロントガラスの向こうを見てから、
「お山」
と言った。
二
家は集落の一番奥にあった。
築百二十年、と聞いていた。以前の持ち主が亡くなり、大阪に住む息子夫婦が空き家バンクへ登録した。
紗英が最初に内見へ来たのは、前年の十一月だった。赤や黄色の葉が屋根に積もり、庭の柿の木にはまだ実が残っていた。写真に撮れば、そのまま移住雑誌の表紙になりそうだった。
半年後の家は、少し違って見えた。
土壁が剥がれている。縁側の板が二枚ほど反り返っている。柿の木の根元には錆びたバケツが転がっていた。
「思ったより、大変かも」
紗英は鍵を回した。
中には湿った畳と囲炉裏の煤、それにかすかな線香の匂いが残っていた。
翔太は土間から太い梁を見上げた。
「くらい」
「これから明るくするんだよ」
言ってから、紗英は少し笑った。
「ママがね」
午後に引っ越し業者が来るまでの間に、近所へ挨拶に回ることにした。東京駅で焼き菓子を十二箱買ってきた。
最初に訪ねたのは隣家だった。
「あらまあ、あんたが噂の」
引き戸を開けたのは、白髪を後ろで束ねた七十代くらいの女性だった。
岡崎ハル。
集落のことはだいたいこの人に聞けば分かる、と役場の担当者から聞いていた。
「佐々木紗英です。今日からお隣に」
「聞いとる、聞いとる。店やるんやってな」
「はい。これ、つまらないものですけど」
「そんなんええのに」
ハルは焼き菓子を受け取ると、紗英の後ろに隠れていた翔太を見た。
「坊や、いくつや」
「五歳です」
「自分で言えるか?」
翔太は紗英の服を掴んだまま、小さく、
「ごさい」
と言った。
「あらあら」
ハルは笑い、奥へ入っていった。
戻ってきた手には、ラップに包んだ蓬餅があった。
「今朝ついたんよ。食べな」
袋越しにも、まだ温かいのが分かった。
「ありがとうございます」
「あんた、旦那さんは?」
「東京です。仕事があるので、しばらく私と翔太だけで」
「ふうん」
ハルはそれ以上聞かなかった。
「困ったことあったら、何でも言うてな」
「ありがとうございます」
翔太の手を引いて、次の家へ向かった。
蓬餅の温かさが、掌に残っていた。
三
集落の人たちは親切だった。
引っ越し業者のトラックが家の前の細い道へ入れないと分かると、田畑という男性が軽トラックを出してくれた。荷物を積み替え、何度も往復してくれた。
「すみません、本当に」
「こんなん、ええよ」
「でも」
「店できたら、コーヒー飲ませてくれ」
そう言って笑った。
翌日、井戸のポンプが止まった。
ハルに相談すると、その日のうちに元水道屋だという老人が来た。しゃがみ込んで一時間ほど作業すると、水が出た。
「おいくらですか」
紗英が聞くと、老人は手を振った。
「いらん、いらん」
「でも」
「ほんなら、店できたら一杯飲ませて」
紗英は財布を持ったまま笑った。
「分かりました」
数日後、田畑が茄子と胡瓜を持ってきた。
「これ、置いとくで」
「ありがとうございます。いくらですか」
田畑が振り返った。
「何が」
「野菜」
「金?」
「あ、はい」
田畑は一度笑ったが、紗英が財布を出したのを見ると、笑うのをやめた。
「売りに来たんちゃうで。余ったから」
「あ、すみません」
「そんなん言うたら、もう持ってこられへんやろ」
「じゃあ、今度コーヒーを」
「そんなんもええって」
少し不機嫌そうに帰っていった。
翌朝、玄関を開けると、茄子が六本置かれていた。
誰が置いたのかは分かった。
紗英は笑って、それを台所へ運んだ。
東京では、隣に住んでいる人の顔さえ知らなかった。
ここでは、まだ名前を覚えきれていない人が、自分の家の井戸を直し、荷物を運び、玄関に野菜を置いていく。
夜、布団の中で翔太が言った。
「ママ」
「ん?」
「ここ、すき」
「そう」
「おばあちゃんも」
「そうだね」
翔太は一週間もしないうちに、ハルの家へ一人で行くようになった。
「しょうたー」
朝、縁側から声がすると、翔太は靴を履いて飛び出していく。
しばらくして、かりんとうやコロッケを持って戻ってきた。
「またもらったの?」
「うん」
「ありがとう言った?」
「いった」
ハルは紗英にも煮物や山菜を分けてくれた。
「あんた、細いな。もっと食べなあかん」
断ると怒るので、紗英もそのうち素直に受け取るようになった。
六月、家の改装が始まった。
土間に床を入れ、奥の座敷を客席にする。縁側の前にも小さなテーブルを置く予定だった。
工事は田畑の紹介した工務店に頼んだ。
ある朝、九時から打ち合わせの約束をしていた。
九時十五分になっても誰も来なかった。
九時半を過ぎたところで電話が鳴った。
「悪いな。田畑さんとこの屋根、ちょっと見とって」
「今日、九時のお約束でしたよね」
「ああ。もう終わるから」
「私、このあと町の銀行へ行く予定なんです」
「ああ、銀行か」
親方は笑った。
「銀行は逃げへんやろ」
やって来たのは十時を過ぎてからだった。
「悪かったな」
「いえ」
紗英も笑った。
笑いながら腕時計を見た。
その日の夜、悠介に電話した。
工事の見積もりが、最初より三十万円ほど高くなっていた。
「三十万?」
「追加工事があるから」
「最初の見積もりの意味ないだろ」
「材料も高くなってるらしいし」
「足元見られてるんじゃないか」
「そんなことないよ。みんな、すごく助けてくれてるし」
言いながら、少しだけ迷った。
「翔太は?」
「元気。ハルさんっていう隣のおばあちゃんに懐いてる」
「そう」
悠介は、それ以上何も言わなかった。
四
七月の終わり、玄関前に看板を立てた。
〈古民家カフェ やまびこ〉
深い緑色に白い文字。
山に馴染むと思って選んだ色だった。
翌朝、看板は倒れていた。
最初は風だと思った。
けれど支柱の周りの土が掘り返されていた。
紗英はしゃがんだまま、しばらく動かなかった。
午後、ハルが来た。
「あんた、看板出したんやな」
「はい」
「あれなあ」
ハルは玄関の外を見た。
「ちょっと目立つな」
「目立ちます?」
「ここ、そういうのあんまりないから」
「でも、店なので」
「分かる。分かるけどな」
少し間があった。
「昨日、集まりで話に出たんよ」
「集まり?」
「寄り合い」
「私、聞いてませんでした」
「ああ」
ハルが一瞬黙った。
「まだ来たばっかりやから」
紗英は倒れた看板を見た。
「誰か、倒したんでしょうか」
ハルは答えなかった。
「もうちょっと小さいのにしたらどうや。色も地味にして」
「そうします」
ハルが帰ったあと、紗英は看板を物置へ運んだ。
作り直せばいい。
それだけのことだと思った。
夕方、翔太がハルの家から戻ってきた。
蜂蜜飴を舐めていた。
「もらったの?」
「うん」
「また?」
「おばあちゃん、ママはがんばりすぎやって」
紗英は手を止めた。
「何を?」
「ママ」
「誰に言ってたの?」
「おじちゃん」
翔太は飴を舐めながら庭へ出ていった。
紗英は物置の壁に立てかけた看板を見た。
深い緑色は、思っていたより鮮やかだった。
五
お盆になると、集落の景色が変わった。
普段は閉まっている家の前に、神戸や大阪や京都のナンバーの車が並んだ。子供の声が谷に響いた。
田畑の息子一家も帰ってきていた。
息子は紗英と同じくらいの年齢で、神戸で働いていた。
「店、いつからですか」
「九月です」
「いいですね。帰ってきたとき寄れる場所が増える」
「ぜひ」
東京の仕事のことや、翔太のことを聞かれた。
「親たち、距離近いでしょう」
男が笑った。
「近いですね。でも、助かってます」
「ならいいんですけど」
「何か?」
「いや」
男はビールの缶を開けた。
「こっちに住んでると、それが普通なんですよ」
それ以上は言わなかった。
その夜、集会所の前で盆踊りがあった。
翔太はハルに手を引かれ、輪の中へ入った。
最初は嬉しそうに踊っていた。
途中で動きを間違えると、近くの老人が言った。
「翔太、そっちちゃう。こっちや」
別の人も笑った。
「若いんやから覚えな」
翔太は立ち止まった。
「翔太、ほら」
ハルが手を引いた。
翔太はしばらく動かなかったが、また踊り始めた。
帰りの車で、珍しく黙っていた。
「疲れた?」
「うん」
「楽しくなかった?」
「みんな、ぼく見てた」
紗英は一瞬、返事に迷った。
「翔太が珍しいからじゃない?」
「ぼく、まちがえたから」
「間違えてもいいよ」
「でも、みんな言う」
「そうだね」
それ以上、何も言わなかった。
次の日になると、翔太はまたハルの家へ遊びに行った。
六
九月、カフェやまびこを開いた。
最初の客はハルと友人三人だった。
四人ともコーヒーを頼み、二時間近く座った。
途中でハルが鞄から饅頭を出した。
「食べる?」
「あ、持ち込みは……」
紗英は言いかけて、やめた。
四人は楽しそうに饅頭を分けた。
会計になり、ハルが千円札を一枚置いた。
「あの、二千円です」
「え?」
「四人で二千円です」
「ああ」
ハルは一瞬動きを止めた。
「そうか。商売やもんな」
財布からもう一枚出した。
「ありがとうございます」
紗英は受け取った。
翌日、ハルは来なかった。
翌々日も来なかった。
一週間後、紗英の方から訪ねた。
「最近お見えにならないので」
「膝が痛うてな」
ハルは笑った。
「歩くんしんどいんよ」
家までは二十メートルほどだった。
「そうですか。お大事に」
帰ろうとすると、ハルが紗英の背後を見た。
「翔太は?」
「店の中です」
「そう」
引き戸が閉じた。
数日後、店を開けていると田畑が顔を出した。
「あんた、今日来んのか」
「どこへですか」
「稲刈り」
「聞いてません」
「あれ、言うてなかったか」
「今日は営業日なので」
「ああ、そっか」
田畑は店内を見回した。
客はいなかった。
「店あるもんな」
「はい」
「そうやな」
田畑はもう一度言った。
「店、あるもんな」
そのまま出ていった。
午後二時まで、客は一人も来なかった。
夕方になり、田畑が泥のついた長靴で戻ってきた。
「余ったから」
新米の入った小さな袋を置いた。
「ありがとうございます」
「今年のやつ」
「すみません」
「謝ることちゃうやろ」
田畑は笑った。
紗英も笑った。
七
その月の終わり、翔太が泥だらけで帰ってきた。
「どこ行ってたの?」
「川」
「川?」
「おばあちゃんと、おじちゃん」
「どこの?」
翔太には説明できなかった。
翌日、ハルに聞いた。
「昨日、翔太を川へ連れて行きました?」
「うん。沢蟹がおったから」
「あの、今度から、どこかへ連れて行くときは先に言ってもらえますか」
「なんで?」
ハルは本当に分からない顔をした。
「何かあったら困るので」
「私がおるやん」
「それは分かってます」
「田畑さんもおったで」
「そういうことじゃなくて……」
紗英はそこで言葉に詰まった。
ハルもしばらく黙っていた。
「分かった」
最後にはそう言った。
その日の夕方、翔太の靴が玄関に揃えて置かれていた。
ハルが洗ってくれたらしい。
泥は一つも残っていなかった。
紗英はしばらく靴を見ていた。
八
十月、悠介が来た。
集落に来るのは初めてだった。
車から降りるなり、山を見上げた。
「思ったより遠いな」
「そう?」
「駅から一時間は遠いだろ」
カフェへ入ると、悠介は店内を見回した。
「ちゃんとしてる」
「何、その言い方」
「褒めてる」
それは彼なりの褒め言葉だった。
翌朝、一人で散歩へ出た。
戻ってきたとき、少し不機嫌そうだった。
「畑にいた人に話しかけられた」
「誰?」
「知らない。俺のこと知ってた」
「まあ、みんな知ってるよ」
「『やっと来たんやな』って言われた」
紗英は皿を洗いながら笑った。
「そういうところだから」
「笑い事か?」
悠介は椅子へ座った。
「翔太、寂しがってるで、って」
紗英は手を止めた。
「心配してくれてるだけだよ」
「俺には責められてるように聞こえた」
「考えすぎ」
「紗英」
悠介の声が少し変わった。
「ここで、本当に続けるつもり?」
「何?」
「店もそうだけど、翔太のこと」
「翔太は楽しんでる」
「昨日、俺にしがみついて離れなかった」
「久しぶりだからでしょ」
「それだけかな」
紗英は蛇口を止めた。
「じゃあ、どうしろっていうの」
「一回考えようって言ってるだけだ」
「何回も考えたよ」
その日の夕方、悠介は東京へ戻った。
翔太は車が見えなくなるまで道路に立っていた。
紗英が近づくと、泣いていた。
「翔太」
「パパ、いっちゃった」
「また来るよ」
「いつ」
言葉が出なかった。
「いつ?」
「また、すぐ」
「ぼく、パパといきたかった」
紗英は翔太を抱いた。
腕の中で、小さな身体が震えていた。
九
十一月、紗英は町の銀行へ行く用事があり、翔太をハルに預けた。
「ゆっくりしてき」
「夕方には戻ります」
「ええよ」
戻ってきたのは四時過ぎだった。
ハルの家へ迎えに行くと、翔太の靴がなかった。
「戻りました」
奥からハルが出てきた。
前掛けに泥がついていた。
「翔太は?」
「田んぼ」
「田んぼ?」
「田畑さんとこの片付け、手伝っとる。見せたげようと思って」
紗英は玄関を見た。
見覚えのない子供用の長靴が置いてあった。
「あれ、翔太の?」
「そう。買うた」
「買ったんですか?」
「安かったから」
「すみません」
「何が」
ハルは笑った。
「子供は汚れて遊ぶもんや」
少しして、
「今日、ご飯食べていき」
と言った。
「いえ、家に用意してるので」
「もう作ったから」
「でも」
「いっぱいある」
ハルが紗英の腕を掴んだ。
少し強かった。
「本当に大丈夫です。今日は帰ります」
「なんで」
「今日は翔太と二人で食べます」
ハルは紗英を見た。
「せっかく作ったのに」
「ごめんなさい」
紗英は腕を引いた。
「いつも本当にありがとうございます。でも、今日は帰ります」
しばらく、ハルは何も言わなかった。
「そう」
手を離した。
「ほな、ええわ」
そのとき外から翔太の声がした。
「ママー!」
泥だらけの長靴で走ってくる。
両腕には藁を抱えていた。
「ぼく、おてつだいした!」
「そう」
「いっぱい!」
「すごいね」
紗英はしゃがんで翔太を抱いた。
身体は温かかった。
ハルの台所から、鍋の蓋が鳴る音がした。
十
十二月、最初の雪が降った。
カフェの客は増えなかった。
町から若い女性が何組か来た。店内や料理の写真を撮り、「素敵ですね」と言って帰った。
二度目に来る人は少なかった。
雪の強い朝、紗英の車が坂で動かなくなった。
タイヤが空回りした。
外へ出て困っていると、田畑が軽トラックで通りかかった。
「何しとる」
「動かなくなって」
「待っとけ」
十分もしないうちに、別の家から二人来た。
三人で車を押した。
「もっと踏め!」
「はい!」
タイヤが雪を噛み、車が前へ出た。
紗英は窓を開けた。
「ありがとうございました!」
「早よ行け。止まったらまた埋まるぞ」
田畑が手を振った。
そのまま町まで運転した。
帰りに三人分の菓子折りを買った。
田畑の家へ持っていくと、露骨に嫌な顔をされた。
「またこれか」
「だって、助けてもらったので」
「押しただけや」
「でも」
「次、俺の車埋まったら押してくれたらええ」
菓子折りを返された。
紗英は持って帰った。
夕食後、翔太と二人で食べた。
「これ、おいしい」
「そう」
「誰にもらったの?」
「誰にも」
紗英は笑った。
十一
ある夕方、町から戻ると、翔太がハルの家から走ってきた。
「ママ、見て」
一枚の紙を差し出した。
大きな字で、
〈しょうた〉
と書かれていた。
「自分で書いたの?」
「うん」
「誰に教えてもらった?」
「おばあちゃん」
「そう」
「上手?」
「上手だよ」
紙を持つ翔太の指が、鉛筆で黒くなっていた。
紗英は頭を撫でた。
文字を教えるのは自分だと思っていた。
でも、いつ教えるつもりだったのかと考えると、答えられなかった。
その夜、悠介へ電話した。
「東京に戻ろうと思う」
少し間があった。
「そうか」
「店、閉める」
「うん」
「何か言わないの?」
「何を」
「だから言っただろ、とか」
電話の向こうで悠介が息を吐いた。
「言ってほしいのか」
「分からない」
「じゃあ、言わない」
囲炉裏の火を見た。
「翔太には?」
「まだ」
「そうか」
「怒ると思う」
「怒るだろうな」
外では、また雪が降り始めていた。
十二
年が明けてから、家を手放す手続きを始めた。
正月には悠介が三日間泊まりに来た。
翔太はずっと悠介の後ろをついて回った。
悠介は薪を割り、雪かきをした。
田畑に頼まれてスマートフォンの設定までしていた。
「都会の人は何でも分かるな」
田畑が言うと、
「これは都会とか関係ないですよ」
悠介は笑った。
「じゃあ、俺が分からんだけか」
三人で笑った。
三日目、東京へ戻る車を見送った翔太は、もう泣かなかった。
「またね」
と言った。
一月の半ば、紗英はハルの家へ行った。
台所から味噌汁の匂いがしていた。
「ハルさん」
「何や」
「お話があって」
ハルは鍋をかき混ぜていた。
「私たち、東京へ戻ることにしました」
手は止まらなかった。
「そうか」
「今まで、本当にありがとうございました」
「ええよ」
「翔太も、すごくお世話になって」
ハルは鍋をかき混ぜながら、少し黙った。
「翔太も、行くんやな」
「はい」
「そうか」
また少し間があった。
「翔太、ここにおったらええのにな」
紗英はハルを見た。
「え?」
「いや」
ハルは鍋の火を弱めた。
「あの子、ここ好きやろ」
「……そうですね」
「寂しなるな」
ハルはそれだけ言って、味噌汁を味見した。
「ちょっと薄いな」
味噌を足した。
紗英は何も言わなかった。
しばらくして、ハルが振り返った。
「気いつけて帰りや」
「はい」
外へ出た。
雪の上に、自分の足跡だけが続いていた。
その夜、翔太に話した。
「翔太」
「なに?」
「東京へ帰るよ」
「いつ?」
「来月」
翔太はしばらく黙った。
「パパのとこ?」
「うん」
「おばあちゃんも?」
「ハルさんはここにいるよ」
「なんで」
「ハルさんのお家はここだから」
「ぼくもここがいい」
「翔太」
「ぼく、ここにいる」
紗英は何も言えなかった。
「なんでママが決めるの」
「ごめん」
「いや」
「ごめんね」
「いや!」
翔太は声を上げて泣いた。
紗英は抱きしめた。
翔太はしばらく腕の中で抵抗し、それから紗英の服を強く掴んだ。
二人で泣いた。
十三
引っ越しは二月の終わりになった。
日が近づくにつれ、集落の人たちとの会話は短くなった。
「寒いな」
「そうですね」
「もうすぐやな」
「はい」
それだけだった。
野菜のお裾分けも、いつの間にか来なくなった。
田畑だけは、一度家へ来た。
「片づいたか」
「だいぶ」
「そうか」
空になった客席を見た。
「店、残念やったな」
「すみません」
「なんで謝る」
「色々してもらったのに」
田畑は鼻の横を掻いた。
「まあな」
少し考えてから言った。
「わしらも、嬉しすぎたんやろな」
「え?」
「若い人来て、子供までおって」
それだけ言い、店内をもう一度見た。
「元気でな」
「田畑さんも」
帰っていった。
その夜、紗英はノートを開いた。
何か書こうと思った。
〈五月 蓬餅〉
その下へ、
〈軽トラ〉
〈茄子〉
〈看板〉
〈盆踊り〉
〈川〉
〈しょうた〉
〈雪〉
と書いた。
しばらく眺めた。
何か続きを書きかけて、やめた。
ノートを閉じた。
十四
引っ越しの朝、雪はかなり解けていた。
業者のトラックが来て、荷物を積み込んだ。
八ヶ月前に持ってきたものと、それほど変わらない量だった。
集落の人たちが十人ほど、家の前へ集まった。
「気いつけてな」
「ありがとうございました」
「翔太、元気でな」
「うん」
短い言葉だけが続いた。
ハルはいなかった。
紗英は車のドアを開け、翔太をチャイルドシートへ座らせた。
「おばあちゃんは?」
「分からない」
「バイバイしてない」
「そうだね」
エンジンをかけようとしたとき、
「待って」
後ろから声がした。
ハルだった。
家の陰からゆっくり歩いてきた。
手に、小さな袋を持っていた。
「これ」
ラップに包んだ蓬餅だった。
「途中で食べな」
「ハルさん」
「固うなるから、今日中にな」
「はい」
紗英は受け取った。
五月の日と同じように、まだ少し温かかった。
ハルは後部座席の翔太のところへ行った。
「翔太」
「おばあちゃん」
「元気でな」
「うん」
「おばあちゃんのこと、忘れんでな」
「うん」
ハルは翔太の頭へ手を置いた。
しばらく、そのままだった。
紗英は何も言わずに待った。
やがてハルが手を離した。
「行き」
「ハルさん」
紗英は深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
ハルは一度だけ頷いた。
車に乗った。
エンジンをかける。
ゆっくり発進した。
バックミラーを見ると、ハルが道に立っていた。
紗英ではなく、後部座席を見ていた。
翔太が振り返り、窓へ手を当てた。
「バイバーイ!」
何度も手を振った。
ハルも手を上げた。
車が進むにつれ、小さくなっていく。
カーブを曲がる直前まで、翔太は振り返っていた。
「ママ」
「なに?」
「ぼく、おとなになったら、また来れる?」
紗英は前を見たまま答えた。
「来られるよ」
「おばあちゃんいる?」
「分からない」
「いないかもしれない?」
「うん」
少し考えてから言った。
「でも、山はあるよ」
後部座席から返事があった。
「山はあるね」
それきり、翔太は静かになった。
しばらく走ると、寝息が聞こえてきた。
助手席には、ハルからもらった袋が置いてあった。
蓬餅が二つ入っている。
紗英は前を見たまま運転した。
山を二つ越えたところで、後ろから声がした。
「ママ」
「起きた?」
「おもち、食べたい」
紗英は一瞬、助手席を見た。
「いま?」
「うん」
少し先に駐車スペースがあった。
車を停めた。
袋から蓬餅を一つ取り出し、ラップを半分ほど剥がして翔太へ渡した。
「喉につまらせないでね」
「うん」
翔太は小さく齧った。
「おいしい?」
「うん」
もう一口食べた。
「おばあちゃんの味する」
「そう」
紗英は前を向いた。
「ママはいらないの?」
「あとで食べる」
「ふうん」
車を出した。
翔太は後部座席で、少しずつ蓬餅を食べていた。
袋には、もう一つ残っていた。
紗英はそれには手をつけなかった。
フロントガラスに、細かい雨が落ち始めた。
ワイパーを最弱にした。
八ヶ月前と同じように、山が雨の向こうで滲んでいた。
車は、その間をゆっくり下っていった。




