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第三夢十夜 先を知っている(第二十二夜)

作者: 前田雅峰
掲載日:2026/07/12

※ 各著作をKindleで電子出版しています。 https://www.amazon.co.jp/s?k=前田雅峰&i=stripbooks&dc

 私は港の船着き場に居た。向こうで岸壁に押し寄せる波がちゃぷちゃぷと音を立てている。特に何も警戒すべき点の無い平和な光景だった。

 だが突然ずっと向こうの方で複数の人間の悲鳴が上がった。非常に遠くらしくそれは聞き取る事が難しい程小さなものだった。だから何を叫んでいるのかその言葉は聴き取れない。悲鳴である事だけ、それも二、三人ではなく十人以上の悲鳴である事だけは分かった。私は何事だろうと思わず身を乗り出してその方角を眺めた。

 するとその瞬間私には分かったのだった。今あの悲鳴のする場所では身体が人間で頭部が獣の口だけの化物が居て、辺りの人間に次々に飛び掛かって食い殺しているのだという事を。断っておくが身を乗り出して遠くを見た私にそれが見えたのではない。しかし私は何故かその騒ぎの原因とその原因たる化物を知っていたのだ。そしてもうあと二分程したらその化物はあの場所に居る人間達を一人残らず無惨に食い殺し、その後この場所、今私が立っている所にまでやって来る事も知っていた。

 私は恐怖に慄いた。直ぐに逃げなければと思って悲鳴の反対の方角に走り出した。するとその時になって別の恐怖を覚えた。私の周囲にはまだ向こうで何が起こっているのかよく知らない人間達が多く居る。

「お父さん、何だろうね、あの声」

「うーん、何か変なぬいぐるみでも被って人を脅かしているのかも知れないな。そういうアトラクションか行事なのかも知れない」

 子供連れの夫婦が此処(ここ)からでも漸く聞こえ始めた悲鳴の上がる彼方(かなた)を面白そうに眺めている。そうかと思うと悲鳴など何処(どこ)吹く風で如何にも私は昨晩失恋したばかりなのですという、沈鬱極まりない表情をして俯いている若者がベンチに腰を据えている。更には場所もあろうに直ぐその横で愛を語らっているカップルが互いを見詰め合っている。他にも単なる散歩やジョギングで此処(ここ)を通りかかりましたという感じの数人が居た。私は物凄く嫌な、困った状況に放り込まれた。

 私が恐ろしいと思ったのは今この私の周囲に居る人間達に事の次第を話しても絶対に信じてもらえないという事だった。それを私が本気になって言えば言う程皆私を馬鹿にした目付き顔付きで見るだろう。私は心から本気でしかも善意で言っているのに。しかし私はそれでも、

「化物が来るぞ! 逃げろ!」

と叫びかけた。しかし私にはどうしてもそれが出来なかった。何故なら私がそう叫べば、

「おい、御前は何故化物が来ると知っているんだ? あの悲鳴が化物の仕業である事を、どうしてその化物をまだ見てもいない御前が分かるんだ? 御前はその化物と何か繋がっているのではないのか? 御前はその化物と何らかの利益を通じて繋がっている、詰まり共謀(グル)なのではないか?」

と問い詰められた場合、私は間違い無く今私の周囲に居る連中に拠って拘束されるだろう。そうしたら私も私を拘束した人間達も皆一人残らず、後一二分の後にあの化物の餌食になって仕舞う事は知れ切っている。更に万一あの悲鳴の原因が本当に化物ではなかったとしたら……。私のこの確信が時々私が確かに経験する如くに私の完全な勘違いだったとしたら如何(どう)なる。拘束された私の処遇は更に苛烈なものになる。それは容易に予想出来る。此処(ここ)は船着き場だ。簀巻にされて海に放り込まれ、衆議一決全員合意の上私は強制的に溺死させられるかも知れない。

 化物のこの場所到達までもうあと一分を切ったかも知れない。私は今此処(ここ)でそう叫ぶ事は出来ないと判断し、私の周囲の人間を見捨てて私独り走ってその場から逃げた。暫くして私の後方から今度は新しい一群の悲鳴が聞こえてきた。私は逃げて逃げ続けた。

「仕方が無かったんだ。どう考えても、あの場所でそんな突飛な事を叫んだとしたら、私は生きてはいられなかった。だが、あの子供……、その母親……、仕方が無い……、本当に仕方が無かったのか。それは本当に本当だったのか」

 私は遂に一度もその頭部が口だけの化物の姿を見てはいない。


 次の瞬間私は別の場所に居た。何だかよく分からないが今度は町の中の空き地に居た。周囲もそんなに住宅が密集してはいない。それなりにポツンポツンとそんなに新しくない古びた家屋が在るだけだった。私の居た場所は舗装されていない土、と謂うか泥の上だった。所々(まば)らに雑草が繁っている。しかしぬかるんではいたが歩行が困難という程でもなかった。靴が台無しになるのを覚悟するなら身に危険が及ぶといった程のものではなかった。あと、滑って服を駄目にしない事だけは気を付けないといけない。そこに子供達の一群がやって来てわあわあ言いながら私とは少し離れた所で泥団子を作って互いに投げ始めた。今時の子供にしては随分勇気のある遊びをするものだと私はその様子を感心して眺めていた。

 ところが突然私はトランポリンの上に居る様に地面から跳ね上がった。瞬時に両脚に全力が入り硬直した所為(せい)で、そう丁度猫の様に身体が飛び上がって仕舞ったのだ。私は思い出したのだ。この空地には一ヵ所底無沼が在る。辺り一面泥に(まみ)れていてそれが何処(どこ)であったかは判然としないものの、大体この空地の中心部から少しだけずれた場所に大人数人をまとめて呑み込む程の広さの底無沼が。

 私は身体が空中に在る間にもう心を決めていた。子供達が遊んで泥団子投げをしている場所はこの空地の中心部に近い所だ。危険極まりない。泥を撥ねて着地するや否や私は子供達の遊んでいる場所に走って行った。

「子供達に其処(そこ)から離れなさいと声を掛けようか。いや、でも間違ってその底無沼の方に近付いたら危ない。だから子供達の近くに辿り着くまでは何も声を上げずに、近くまで来たらうまい事を言って子供達を空地の隅っこに誘導しよう。そして縁のフェンスに沿って出口まで連れ出そう」

 走りながら私はそんな手順を頭にまとめた。しかしまだ子供達が遊んでいる場所まで半分も来ていない所で私の両脚はびたりと止まって仕舞った。

「いや、待て……、若しも、若しもその底無沼が、私と子供達が今遊んでいる場所とを結ぶ直線上に在ったとしたら……」

 私は動けなくなった。本当に次の一歩が踏み出せない。最も前方に出ている私の右脚はぬかるんではいるがまだ地面のしっかりした抵抗の感触を私に伝えていた。さて、ここからが問題だ。

「おーい、君達。おやつをあげるから、みんなそっちのフェンスの方、隅っこの方に行ってくれないか」

 私は間違っても怒声に聞こえない様に穏やかに落ち着いて、しかし大きな声で子供達に言った。子供達は一斉に振り返って私を見詰め暫くごにょごにょと話し合っていたがそのうちに、

「うんっ!」

と答え、しずしずと空地の隅っこの安全なフェンスに向かって直線的に移動し始めた。私は心の底から安堵した。そして泥だらけの靴を気にもせず私も彼らの方に近付いて行った。途中これは若しかしてそうではなかろうかという逆円錐状に泥が凹んでいる個所が目に入り、私はそこらの大きめの石、私の掌よりも大きい重量のあるものを両手で抱えてその場所に投げた。その石の体積は結構あり平べったいものではなくどちらかというと立方体に近い形状のものであったから、様子を見れば一目瞭然だった。私の思った通りかなり全高のあるその大きな石は地面に接したのに地に響く音を一切立てず、『どぷん』という音と共に泥の中に見えなくなって仕舞った。私は注意深くその凹みを避けて子供達の集まっている場所に辿り着いた。

「やあ、みんな、おじさんの言う事をきいてくれてありがとうね。で、おやつなんだけど、今此処(ここ)には持ってないから、御菓子屋さんで買えるだけのお小遣いをあげるから、みんなそれで買ってね。いいよね?」

 笑顔でうんうんと頷く子も居れば『はーい!』と元気良く返事の声を返してくれる子も居る。私は服の上着の内ポケットから財布を取り出し皆に硬貨を配りながら言った。

「この空地のあの辺りにはね、どこまでも沈んで行く底無沼が在るんだ。はまったら、もう絶対に助からない。泥の中に沈み込んで死んで仕舞う。だからもうこの空地では遊ばないでね」

 すると私からお金を貰った子供の一人が不審そうな顔をして私に尋ねた。

「じゃあどうしておじさんは、僕達がこの空地に入って来る時にそれを教えてくれなかったの?」

 私は心臓が止まる様な気がした。同時に自分の頭脳が動きを停止するのをはっきりと感じた。その子供は言う。

「ねえ、僕達がこの空地に入って来た時、おじさんもう此処(ここ)に居たよね? そして僕達が入って来るのを見てたよね? だったら、そんな危ない所に子供が入って来るのを、どうしてその時に『駄目だよ』って教えてくれなかったの?」

 既にその子の眉間目頭には私の本質的な部分を窺い知ろうとする強烈な疑念が表れていた。私は何も答える事が出来なかった。その子は次第に大人の様な表情に変わっていき、更に付言するとそれはまるで詐欺師を見詰めている、それも騙そうとしている正にその瞬間の詐欺師を詰責している様な表情になってきた。私が何も答えられずに居るとその子は私から貰った硬貨を指にもっている腕を伸ばし、

「返す、要らない」

と言った。この時に私は全身の金縛りがやっと解けた。私は反論した。

「いや、おじさんがこの空地にやって来た時には、その底無沼の事を忘れていたん……」

 が、私の言葉は尻切蜻蛉になって仕舞った。もう反論が予想出来たからである。その子は即座に叫んだ。

「そんな事、信じられないよ。命に関わる様なそんな危ない事を、忘れられる筈が無い。おじさんは何らかの目的で僕達を底無沼の在るこの空地に誘い込みたかったのに違い無い。底無沼の事を教えてくれたんだから、僕達を其処(そこ)に落としてやろうという訳ではなかったにせよ。その目的が何なのかは判らないけれど、何かあったんだ。或いは、お小遣いをくれてそれでおやつを買いに行く近くの御菓子屋さんに、何かの理由で僕達を『行かせたい』とか……」

 私はその子の言葉遣いと信じられない程にひねくれた、大人以上の疑念に驚嘆した。しかし客観的に見てその場の状況がその子の言う(たぐい)の疑いが成立する論理的条件を満たしている事だけは認めざるを得なかった。他の子供達も次々に、

「返すっ! 返すっ!」

と一旦は私から受け取った硬貨を殆ど投げ捨てる様に私に手渡し、直ぐにフェンスに沿って空地の外に出て行って仕舞った。途中一人の子供が隣の子に話している声が聞こえた。

「変な、悪い大人だって居るんだよー、お母さんが言ってた」

 私は自分の置かれた状況を呑み込む事が出来なかった。私は此処(ここ)で一体何を経験したのか。この空地には底無沼が在る事を忘れていた私が悪いのだろうか。しかし忘れていたのだから仕方が無いではないか。人には誰だって忘れるという事がある。しかしあの子の言う事だって本当だ。そんな重大で直ちに命の危険に直結する様な切羽詰まった話をまるきり忘れて仕舞うなど、どう考えてもおかしい。

 後には子供達の命が守られた事実と私が徹頭徹尾馬鹿にされて終わった事実だけが残った。私は子供達に馬鹿にされたのではない。私がこの空地に入って来た時には思い出す事を許さず、子供達が入って来た後になってそんな重大な事実を私に思い出させた者にだ。

 これは運命か。それとも病気か。或いはこれさえも巡り巡って私の人間性か。何が何なのか判らない。しかし私が生きるという事は、何故だか真実に判らないがこんな事の連続なのだという実感が間違い無くあった。


 此処(ここ)で目が覚めた。


 私は眠るのが怖い。頼むから私にも心休まる夢を運んできてほしい。こんな夢ばかり見ていたら私は心も身体も病んで(やが)て死んで仕舞う。


 ブログは毎日更新しています。

https://gaho.hatenadiary.com/

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