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ただの、物。

作者: 茶ヤマ
掲載日:2026/03/21

「床に投げられた人形は何も語らない」

https://ncode.syosetu.com/n0454lw/

を母親視点から書いたものになります。


娘が帰ってくると、家の空気が少しだけ変わる。


それは賑やかになるというほどのものではない。

ただ、台所で茶を淹れているとき、廊下の向こうに人の気配がある。


それだけのことだった。


それでも、私は少し嬉しい。


娘は県外で働いている。

大学も、県外だった。


合格の知らせを聞いたとき、私は胸を撫で下ろした。

これで、あの子は大丈夫だと思った。

女の子を遠くへ出すのはどうなのか、と迷ったが間違いじゃなかった。

『この子のため』にしたことが、ちゃんと実を結んだ。

そう思って、私は安心した。


「お前ならできるわよね」


親戚の人たちを見返したい、という気持ちもあった。

自分の子どもは、皆きちんと育てたいとも思っていた。


だから、送り出した。


町の小さなアパートで暮らしていると聞いた時、私は少し心配になった。


それで時々、荷物を送る。

そう…時々、荷物を送っているのだ。


乾麺や、海苔や、漬物。タオルや、靴下。

ああいうものは、いくらあっても困らないものだ。

都会の冷たい暮らしの中で、あの子が私の送ったものを食べて、私の選んだタオルで顔を拭いていると思うと、私はそれだけで満たされた。


この前は服も入れた。 デパートで見つけた、落ち着いた色のブラウス。

派手なものより、こういうものを着ていれば、どこへ出しても恥ずかしくない。

あの子は昔から、あまり服に頓着しないから、こういうのが一枚あるといいと思った。

きっと「お母さん、ありがとう」と喜んで着てくれているに違いない。


足りないよりは、あるほうがいい。不自由よりは、ましだろう。

私は、ずっとそう信じてきた。



娘が帰省すると、私はつい箪笥を開けてしまう。

そう、廊下のいちばん奥、渡り廊下の先の蔵にある、あの箪笥だ。


「これ着てみなさい」


そう言って、着物を出す。

嫁に来た時に作ったものだ。


「似合うわよ」


鏡の前に立たせると、娘は少し困ったように笑う。

でも、嫌だとは言わない。


帰ってきている間だけでも、こういう格好をさせておきたい。

そう思う。



その日の午後、娘が言った。


「ちょっと見てほしいものがあるんだけど」


部屋から何かを抱えてきた。


人形だった。


最初はよく見えなかった。


大きくて、重そうで、妙に人の形に近い顔をしている。

目が、こちらを見ている。


「こういうのが趣味でね」


娘は軽く言った。


私は言葉を探した。


変わった趣味だとは思った。

でも、それだけだ。


若い人には、色々あるのだろう。


そう思おうとした。


けれど胸の奥に、うまく言えないざわつきが残った。

私は人形を手に取った。


思ったより重かった。

ひやりとしている。


顔が、あまりに人間に似ている。


どうしてこんなものを、と思った。


「こちきたもの…」


思わず口に出ていた。

娘は黙っている。

私は続けた。


「人形だば、人形だべ。

いい年して、まだそだだもん宝物みでにして」


言いながら、胸の中のざわつきが強くなる。


県外の大学まで出して。

きちんと就職して。

ちゃんとした人生を歩くと思っていたのに。

もし人に知られたら、どう思われるだろう。


親戚の人たちはきっと言う。

「あの家の娘は、少し変わっている…」

「やっぱり、山の家から嫁いできた人の娘だもの…」

と。


私はそれが嫌だった。

この子には、人に笑われない人生を歩いてほしい。


私は人形を持ち直した。


重さが腕に伝わる。


ふと、一瞬だけ思った。


この子は、こんなものを抱いて、一人で部屋にいるのだろうか。

県外の小さな部屋で。


けれどその考えは、すぐに打ち消した。


そんなはずはない。

いい年をして、人形なんて。


私はそのまま、床に放り出した。

乾いた音がした。

畳の上で、人形の腕が少し曲がる。


娘は動かなかった。

ただ、それを見ている。


私は急に、言葉がなくなった。


何か言うべきだったのかもしれない。

けれど、もう何を言えばいいのか分からない。


だから私は、台所へ戻った。


やかんを火にかける。


いつもの音が、部屋に戻ってくる。

湯が沸くまでの間、私は何も考えないようにした。


しばらくして、ふと思った。


あの人形、壊れてはいないだろうか。


でも確かめには行かなかった。


きっと大丈夫だろう。


あの子も、そのうち分かる。


人形なんて、ただの「物」だ。

大事にするようなものではない。


湯が沸いた。


私は急須に湯を注ぎ、静かに蓋を閉めた。





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