ただの、物。
「床に投げられた人形は何も語らない」
https://ncode.syosetu.com/n0454lw/
を母親視点から書いたものになります。
娘が帰ってくると、家の空気が少しだけ変わる。
それは賑やかになるというほどのものではない。
ただ、台所で茶を淹れているとき、廊下の向こうに人の気配がある。
それだけのことだった。
それでも、私は少し嬉しい。
娘は県外で働いている。
大学も、県外だった。
合格の知らせを聞いたとき、私は胸を撫で下ろした。
これで、あの子は大丈夫だと思った。
女の子を遠くへ出すのはどうなのか、と迷ったが間違いじゃなかった。
『この子のため』にしたことが、ちゃんと実を結んだ。
そう思って、私は安心した。
「お前ならできるわよね」
親戚の人たちを見返したい、という気持ちもあった。
自分の子どもは、皆きちんと育てたいとも思っていた。
だから、送り出した。
町の小さなアパートで暮らしていると聞いた時、私は少し心配になった。
それで時々、荷物を送る。
そう…時々、荷物を送っているのだ。
乾麺や、海苔や、漬物。タオルや、靴下。
ああいうものは、いくらあっても困らないものだ。
都会の冷たい暮らしの中で、あの子が私の送ったものを食べて、私の選んだタオルで顔を拭いていると思うと、私はそれだけで満たされた。
この前は服も入れた。 デパートで見つけた、落ち着いた色のブラウス。
派手なものより、こういうものを着ていれば、どこへ出しても恥ずかしくない。
あの子は昔から、あまり服に頓着しないから、こういうのが一枚あるといいと思った。
きっと「お母さん、ありがとう」と喜んで着てくれているに違いない。
足りないよりは、あるほうがいい。不自由よりは、ましだろう。
私は、ずっとそう信じてきた。
娘が帰省すると、私はつい箪笥を開けてしまう。
そう、廊下のいちばん奥、渡り廊下の先の蔵にある、あの箪笥だ。
「これ着てみなさい」
そう言って、着物を出す。
嫁に来た時に作ったものだ。
「似合うわよ」
鏡の前に立たせると、娘は少し困ったように笑う。
でも、嫌だとは言わない。
帰ってきている間だけでも、こういう格好をさせておきたい。
そう思う。
その日の午後、娘が言った。
「ちょっと見てほしいものがあるんだけど」
部屋から何かを抱えてきた。
人形だった。
最初はよく見えなかった。
大きくて、重そうで、妙に人の形に近い顔をしている。
目が、こちらを見ている。
「こういうのが趣味でね」
娘は軽く言った。
私は言葉を探した。
変わった趣味だとは思った。
でも、それだけだ。
若い人には、色々あるのだろう。
そう思おうとした。
けれど胸の奥に、うまく言えないざわつきが残った。
私は人形を手に取った。
思ったより重かった。
ひやりとしている。
顔が、あまりに人間に似ている。
どうしてこんなものを、と思った。
「こちきたもの…」
思わず口に出ていた。
娘は黙っている。
私は続けた。
「人形だば、人形だべ。
いい年して、まだそだだもん宝物みでにして」
言いながら、胸の中のざわつきが強くなる。
県外の大学まで出して。
きちんと就職して。
ちゃんとした人生を歩くと思っていたのに。
もし人に知られたら、どう思われるだろう。
親戚の人たちはきっと言う。
「あの家の娘は、少し変わっている…」
「やっぱり、山の家から嫁いできた人の娘だもの…」
と。
私はそれが嫌だった。
この子には、人に笑われない人生を歩いてほしい。
私は人形を持ち直した。
重さが腕に伝わる。
ふと、一瞬だけ思った。
この子は、こんなものを抱いて、一人で部屋にいるのだろうか。
県外の小さな部屋で。
けれどその考えは、すぐに打ち消した。
そんなはずはない。
いい年をして、人形なんて。
私はそのまま、床に放り出した。
乾いた音がした。
畳の上で、人形の腕が少し曲がる。
娘は動かなかった。
ただ、それを見ている。
私は急に、言葉がなくなった。
何か言うべきだったのかもしれない。
けれど、もう何を言えばいいのか分からない。
だから私は、台所へ戻った。
やかんを火にかける。
いつもの音が、部屋に戻ってくる。
湯が沸くまでの間、私は何も考えないようにした。
しばらくして、ふと思った。
あの人形、壊れてはいないだろうか。
でも確かめには行かなかった。
きっと大丈夫だろう。
あの子も、そのうち分かる。
人形なんて、ただの「物」だ。
大事にするようなものではない。
湯が沸いた。
私は急須に湯を注ぎ、静かに蓋を閉めた。




