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短編集(令嬢とかざまぁとか…)

悪役令嬢は粛々と断罪を待っている

作者: 雪月火

王立学園の卒業記念パーティーを翌日に控えた夜。

ブルターゼン公爵家の広大な屋敷の一室で、公爵令嬢ユリサ・ブルターゼンは一人、机に向かっていた。

窓の外は静まり返り、月明かりだけが豪奢な調度品をぼんやりと照らしている。

王都の社交界は明日の夜に起こるであろう一大スキャンダルの噂で持ちきりだった。

第一王子ジャクソンが、長年の婚約者であるユリサを断罪し、婚約を破棄する。

そして、新たなる寵姫、平民上がりの聖女メリエルを隣に立たせるだろうと。

その噂はもはや既定路線として人々の間に浸透し、ユリサは「嫉妬に狂った悪役令嬢」という不名誉な役割を与えられていた。


侍女が夕食の片付けのために部屋に入ってくる。

彼女はユリサの顔をまともに見ることができず、俯きがちに手早く作業を進める。

その視線には、憐憫、好奇、わずかな侮蔑が混じり合っていた。


「ユリサお嬢様、何か他に御用はございますでしょうか」


侍女の声は震えている。

ユリサは書類から顔を上げることなく、穏やかな声で答えた。


「いいえ、結構です。もう下がって休みなさい」


「は、はい。失礼いたします」


侍女は逃げるように部屋を退出した。

扉が閉まる直前、彼女が他の侍女と「明日、どうなってしまわれるのかしら」「公爵閣下も何も言われませんが…」と囁き合う声が、微かにユリサの耳に届いた。

ユリサは少しも表情を変えず、再び手元の作業に戻る。


彼女の心は凪いだ湖面のように静かだった。

絶望も悲しみも、そこにはない。

あるのは、巨大な計画を完遂させるための、冷徹なまでの集中力だけだった。

彼女は羽ペンをインク壺に浸し、次の書類へと手を伸ばした。


部屋の扉が静かにノックされ、ユリサの許可を得て一人の男が入室した。

黒い騎士服に身を包んだ、ユリサ専属の護衛騎士ゼノ・グレイだった。

彼は音もなくユリサの机の傍らに立ち、新しい蝋燭と温かいハーブティーの入ったカップを静かに置いた。


「ユリサ様、夜も更けてまいりました。少しお休みになられては」


ゼノの声は低く、感情の起伏を感じさせない。

だが、その灰色の瞳の奥には、主君に対する深い憂慮と揺るぎない信頼の色が浮かんでいた。

この屋敷で、いや、この国で唯一、ユリサの真意を理解し、その計画の共犯者となっているのが彼だった。


「ありがとう、ゼノ。ですが、もう少しです。これを終えなければ、明日の幕は上がりませんから」


ユリサはそう言うと、彼が淹れてくれたハーブティーを一口含み、その香りで束の間の休息を得た。

彼女が机に広げているのは、ブルターゼン公爵領の地代収入や作物の収穫高、水路の整備計画といった、膨大な量の領地経営に関する書類だった。

しかし、それらは表向きの姿だ。

彼女は書類を一枚一枚めくりながら、特定の記述や数字に、肉眼ではほとんど見えないほどの小さな印を特殊なインクで付けていく。

それは、明日提示する「証拠」の最終確認作業だった。

ゼノは何も言わず、ユリサの背後に控えている。

彼らの間には、もはや多くの言葉は必要なかった。

数ヶ月前、ユリサがメリエルへの嫌がらせの濡れ衣を着せられ始めた頃、ユリサはゼノだけを自室に呼んだ。


「ゼノ。これから私は、国中の人間から憎まれ、蔑まれる悪役令嬢を演じます。それは、あなたにも多大な苦労をかけることになるでしょう。それでも、私に付いてきてくれますか」


ゼノは迷うことなく片膝をつき、ユリサの手に恭しく口づけた。


「私の剣も、私の命も、全てはユリサ様のために。あなたが白だとおっしゃれば白、黒だとおっしゃれば黒。たとえ世界中があなたを敵に回そうとも、私だけはあなたの傍らで剣を振るい続けます」


その日から、二人の戦いは始まった。

ユリサが表舞台で「悪役令嬢」の汚名を甘んじて受け入れる裏で、ゼノは影となり、証拠を集め、協力者を確保し、来るべき日のために奔走した。

彼がもたらす情報を元に、ユリサは巨大な陰謀の全体像を把握し、完璧な反撃のシナリオを練り上げていった。


ユリサは書類の山の一つを片付け終え、別の束に手を伸ばした。

それは先ほどの領地経営書類とは異なり、個人の素行調査に関する報告書や、金の流れを記した帳簿の写しだった。

ゼノが密かに集めた、メリエルを操る反逆者たちの不正の証拠だ。


「ガルニアの間諜と接触した辺境伯の動きに、変化は?」


ユリサは書類に目を通しながら、静かに尋ねた。


「はい。今宵、王都の隠れ家で密会を行うとの情報を掴んでおります。既に部下を配置し、会話の記録と、金の受け渡しの現場を押さえる手筈になっております」


「結構です」


ユリサは淀みなく指示を出す。

その姿は公爵令嬢というよりも、百戦錬磨の将軍のようだった。

彼女は一枚の報告書を手に取り、眉をひそめた。


「メリエルの聖なる力…やはり、古代遺物の力でしたか」


「はい。所有者の微弱な魔力を増幅させ、治癒魔法のように見せかける機能を持っているようです。本来は植物の成長を促すための農具の一種かと」


「なるほど。だから大規模な治癒や、高位の神聖魔法は使えないのですね。張子の虎とは、まさにこのこと」


ユリサは嘲るでもなく、淡々と事実を分析する。

彼女はペンを持ち、用意された別の羊皮紙に流れるような文字で何かを書き記し始めた。

それは、明日彼女が壇上で述べるべき台詞の最終稿だった。

どこで罪を認め、どこで反証に転じ、どのタイミングで黒幕の存在を仄めかすか。

全てが計算され尽くした脚本だった。

ゼノは主君の横顔を見つめていた。

彼女がこの数ヶ月、どれほどの重圧に耐えてきたか。

家族に誤解され、友人に見捨てられ、婚約者からは憎悪を向けられ、たった一人でこの計画を推進してきた。

その精神力は常人の域を遥かに超えている。


「ユリサ様。本当に、よろしいのですか。王子殿下を…、あそこまで追い詰めることに、ためらいは…」


ゼノが思わず尋ねると、ユリサのペンの動きが初めて止まった。

彼女は窓の外の月に目をやり、小さく息を吐いた。


「彼が愛したのは、聖女という偶像と、それに傅く自分自身。私という人間を見てはいませんでした。そして、王太子という立場にありながら、私情で国の根幹を揺るがす陰謀に加担した。その罪は、償わなければなりません。…私情を挟む余地は、もうどこにもないのです」


その声には、かつて婚約者に抱いていたであろう淡い情を断ち切った、確固たる決意が込められていた。


夜が明け始める頃、ユリサはついに最後の書類に署名をし、静かに羽ペンを置いた。

整理された書類の束は、用途別に完璧に分類され、ゼノが用意した革の鞄に次々と収められていく。


「これで全て揃いました。長らくお待たせして申し訳ありません、ゼノ」


ユリサは立ち上がり、凝り固まった体を伸ばしながら言った。

その表情に疲労の色はなく、むしろやり遂げた達成感とこれから始まる戦いへの高揚感が滲んでいた。

ゼノは彼女の前に進み出て、深く頭を垂れた。


「いいえ。ユリサ様の望まれる未来のために。この身、いつでもお使いください」


彼の言葉には、絶対的な忠誠と、それ以上の深い敬愛が込められていた。

ユリサは穏やかに微笑み、彼の肩にそっと手を置いた。


「ありがとう。あなたがいなければ、私はここまで来ることはできませんでした」


二人の視線が交錯する。

そこには、主君と騎士という関係を超えた強固な絆が存在した。

ユリサは窓辺に歩み寄り、白み始めた東の空を見つめた。




* * *




王立学園の大広間は、卒業を祝う若者たちの熱気と、壁際に並べられた豪華な食事の香りで満たされていた。

天井のシャンデリアが放つ眩い光が、貴族の子弟たちが身にまとった絹のドレスや、磨き上げられた勲章をきらびやかに照らし出している。

しかし、その華やかな雰囲気の裏側には、誰もが固唾を飲んで「その時」を待つ、異様な緊張感が漂っていた。

主役は二人。

一人は、今日の栄光を一身に浴びる聖女メリエルと、彼女をエスコートするジャクソン王子。

そしてもう一人は、これから奈落の底へ突き落とされるであろう、悪役令嬢ユリサ・ブルターゼン。


ユリサは、会場の壁際に用意されたブルターゼン公爵家の席で静かに佇んでいた。

背筋を伸ばし、完璧な淑女の作法でグラスを口に運ぶ。

その姿は、周囲の好奇と侮蔑の視線を浴びてもなお、微動だにしない氷の彫像のようだった。

彼女の半歩後ろには、護衛騎士ゼノが影のように控えている。

彼の無表情な顔は、あらゆる感情を拒絶しているように見えたが、その視線は常にユリサと会場全体の動きを鋭く捉えていた。


ジャクソン王子は、意図的にユリサの席を見下ろせる位置に陣取り、メリエルと楽しげに談笑していた。


「見てごらん、メリエル。あの女、まだ自分が公爵令嬢のつもりでいるようだ。己の罪を恥じるということを知らないらしい」


「まあ、ジャクソン様…。ユリサ様も、きっと反省なさっているはずですわ。あまり責めないであげてください…」


メリエルはそう言って、慈悲深い聖女のように眉を寄せたが、その瞳の奥には隠しきれない優越感が揺らめいていた。

彼女の言葉は、ジャクソンの怒りに油を注ぐだけだった。


「君は本当に心が清いのだな。だが、悪は正されねばならない。君を苦しめた罪は、この場で、皆の前で明らかにしなければ、国の示しがつかん」


王子はそう言うと、ユリサに向けてあからさまな敵意のこもった視線を送った。

周囲の王子派閥の貴族たちも、それに倣ってクスクスと笑い声を漏らす。

ユリサは、その全てを意に介することなく、ただ静かにその時を待っていた。


パーティーの進行役である学園長による卒業の祝辞が終わり、歓談の時間が最高潮に達した時、ジャクソン王子がパンと手を打ち鳴らした。

楽団の演奏が止み、会場の全ての視線が彼に集まる。

王子は、か弱く震えるメリエルの手を優しく取り、壇上へとエスコートした。


「卒業生の諸君、そしてご臨席の皆様。本日はまことにおめでとう。だが、この喜ばしき日に、私の口から語らねばならぬ、大変遺憾なことがある」


ジャクソン王子の凛とした、しかし怒りを帯びた声が、静まり返った大広間に響き渡った。

主賓席に座る国王と王妃が、わずかに眉をひそめる。

ブルターゼン公爵は、固く目を閉じていた。

ついに、断罪劇の幕が上がったのだ。


「ユリサ・ブルターゼン!前へ!」


王子が鋭く名を呼ぶ。

ユリサは少しも臆することなく席を立った。

彼女は背後のゼノに目配せをすると、一人、優雅なドレスの裾をさばきながら、ゆっくりと壇上へと続く階段を上り始めた。

その一挙手一投足は完璧に洗練されており、罪人として呼び出された者のそれとは思えなかった。

彼女のその落ち着き払った態度が、ジャクソンの神経をさらに逆なでした。

ユリサが壇上の中央、王子とメリエルの正面に立つ。


「ユリサ・ブルターゼン!貴様が、私の愛するメリエルに対して行ってきた数々の悪行、もはや見過ごすことはできん!」


ジャクソン王子は懐から一枚の羊皮紙を取り出し、そこに記されたユリサの罪状を一つ一つ感情的に読み上げ始めた。

その内容は、メリエルが涙ながらに王子に訴えたものを、側近がまとめたものだろう。


「第一の罪!貴様は、平民出身であるメリエルが勉学に励むことを妬み、彼女がけなげに使い古していた歴史学の教科書を、ナイフでズタズタに引き裂いた!これは、知性への冒涜であり、許されざる蛮行である!」


会場がざわめく。


「あぁ、あのお母様が遺してくださった、たった一冊の…」


メリエルは王子の腕の中でそう呟き、涙をこぼした。


「第二の罪!貴様は、メリエルが亡き母親から譲り受けた唯一のドレスを、私が彼女に贈ったささやかなパーティーで着ようとした矢先、故意に黒いインクを浴びせかけ、汚した!これは、彼女のささやかな幸せと、家族の思い出を踏みにじる、残虐非道な行いだ!」


貴族の令嬢たちから、ひそひそと「なんて酷い」「公爵令嬢のやることではないわ」という囁きが聞こえてくる。


「そして第三の罪!貴様は、自らの悪事が露見することを恐れ、学園の中央階段にて、メリエルを突き落とし、その口を封じようとした!これはもはや、単なる嫌がらせではない!殺人未遂だ!」


王子の声は最高潮に達し、彼の指は震えながらユリサを指差していた。

メリエルは恐怖に耐えかねたように、王子の胸に顔を埋めて激しく嗚咽する。

会場の空気は、完全にユリサを断罪する方向で固まっていた。

誰もが、彼女が嫉妬に狂った邪悪な女だと信じ込んでいた。


全ての罪状を読み上げ終えたジャクソン王子は、ハッハッと荒い息をつきながら、憎悪に満ちた目でユリサを睨みつけた。


「どうだ、ユリサ・ブルターゼン!これだけの証拠…いや、メリエルの涙が何よりの証拠だ!何か申し開くことはあるか!なければ、この場で貴様との婚約を破棄し、ブルターゼン公爵家の監督不行き届きを国王陛下に言上する!」


王子の言葉は、最後通牒だった。

会場にいる誰もが、ユリサの次の行動を注視していた。

ヒステリックに無実を叫ぶのか。

泣き崩れて許しを乞うのか。

あるいは、怒りに任せてメリエルに掴みかかるのか。

ブルターゼン公爵夫人はハンカチで口元を押さえ、娘の没落を覚悟しているようだった。

しかし、ユリサの反応は、その場にいた全ての者の予想を根底から覆すものだった。


一瞬の沈黙の後、ユリサはゆっくりと顔を上げた。

彼女の表情は穏やかで、その瞳はジャクソンと、彼の腕の中で震えるメリエルを真っ直ぐに見据えていた。

そして、彼女の唇の端に、ほんのわずかな、しかし確かな微笑みが浮かんだ。


「はい、王子殿下のおっしゃる通りです」


凛とした、よく通る声だった。

会場のどよめきが、波のように広がっていく。

ユリサは言葉を続けた。


「その全ての件、私が関わったことに間違いはございません」


その潔いまでの、完全な肯定。

ジャクソン王子とメリエルは、一瞬、虚を突かれたように目を丸くした。

まさか、ここまであっさりと罪を認めるとは思っていなかったのだ。

だが、その驚きはすぐに、抑えきれないほどの勝利の確信へと変わった。


「な…!やはり認めたな!悪女め!」


王子が勝ち誇ったように叫ぶ。

メリエルの瞳にも、安堵と歓喜の色が浮かんだ。

会場の貴族たちも、「ああ、やはり彼女が犯人だったのか」「弁明の余地もないということだな」と納得したように頷き合っている。

ユリサの味方は、もはやどこにもいないように見えた。


会場の空気が「これで一件落着」というムードに包まれ、誰もがユリサの追放と公爵家の凋落を確信した、その時だった。

ユリサは、周囲の反応を冷静に観察し終えると、ゆっくりと、しかしはっきりと次の言葉を紡いだ。


「全ての罪を認めます。王子殿下が糾弾なさった出来事が、実際に起きたことであると、私も認めましょう」


彼女はそこで一度言葉を切り、勝ち誇る王子とメリエルを冷徹なまでに見据えた。


「ですが、その上で、ほんの少しだけ、皆様にお伝えしたい事実がございます。物事には、見る角度によって様々な側面があるということを」


その言葉は、単なる言い訳には聞こえなかった。

そこには、絶対的な自信と、これから始まる何かを予感させる、不気味なほどの落ち着きがあった。

ユリサは、壇上の誰にも気づかれぬよう、ほんのわずかに視線を動かし、会場の隅に控えるゼノに合図を送った。

その合図を受け、今まで壁と同化していたゼノが静かに動き出した。

彼は、パーティーが始まる前に運び込んでおいた、分厚い書類の束が収められた革の鞄を手に取ると、人々の注目を浴びながら、ゆっくりと、しかし確かな足取りで壇上へと向かい始めた。


「な、何だ、貴様は!」


ジャクソン王子がゼノを咎めようとするが、ゼノはそれに一瞥もくれず、ユリサの隣に静かに立つと、鞄の中から最初の書類を取り出した。




* * *




ゼノが分厚い書類の束を抱えて壇上に現れたことで会場の空気は再び緊張に包まれた。

ジャクソン王子は予期せぬ展開に戸惑いと苛立ちを隠せない。


「ユリサ!今更何を企んでいる!罪を認めたのだろう!その騎士は何者だ、無礼であろう!」


王子が声を荒らげるがユリサは完全に無視しゼノから一枚目の羊皮紙を静かに受け取った。

彼女は集まった聴衆を見渡し落ち着き払った声で語り始めた。


「皆様、お聞き苦しいとは存じますが、今しばらくお付き合いください。先ほども申し上げました通り、私は王子殿下が挙げられた三つの事件への関与を認めます。私がその場にいたことは紛れもない事実ですから」


彼女はそこで一呼吸置き言葉を続けた。


「ですが、そこには王子殿下や、おそらくはメリエル様の認識とは少しばかり異なる真実が存在するのです。私が『関わった』という言葉の意味が、皆様の想像とは全く違うということを今から証明いたします」


ユリサの言葉にメリエルはびくりと肩を震わせた。


ジャクソン王子は「戯言を!」と吐き捨てるが主賓席の国王が「続けさせよ」と威厳のある声で制した。

国王は、この異常な事態の真相を冷静に見極めようとしていた。

ユリサは国王に優雅に一礼すると手にした書類を掲げた。


「では、第一の罪状、メリエル様の教科書を破損させた件についてご説明いたします」


ユリサはゼノから受け取った書類を淡々と読み上げ始めた。


「メリエル様の教科書が破損しているのが発見されたのは、先月の十日、午後三時頃のこと。その時刻、私は王立図書館の古文書閲覧室におりました。そこにいらっしゃった図書館司書長のヘンドリック様、並びに副司書の皆様、お顔をお上げください」


ユリサに促され、会場の後方に控えていた白髪の老紳士と二人の司書が静かに立ち上がり一礼した。

会場がどよめく。


「これが、その証明となる図書館の入退室記録の写しです。私のサインとヘンドリック司書長の確認印がここにございます。私どもは、古代魔法言語で書かれた王家伝来の文献の解読を三時間にわたり共同で行っておりました。そうですね、ヘンドリック様」


ヘンドリック司書長は重々しく頷いた。


「左様でございます。ユリサ様は、古代語に関する類稀なる知識をお持ちで、我々の研究に多大なる貢献をしてくださいました。あの日時、ユリサ様が閲覧室から一歩も出ておられないことは、我々三名が保証いたします」


ジャクソン王子が「な…では、教科書は…」と狼狽する。

ユリサは続けた。


「私が破損した教科書を発見したのは、その日の夕方です。中庭のベンチに打ち捨てられているのを偶然見つけ、持ち主がメリエル様であることを知りました。そして、貴重な本を何とか修復できないものかとヘンドリック様にご相談に伺ったのです。教科書を破ったのは、メリエル様の急な台頭を妬んだ別の令嬢の仕業。その令嬢は既に私に謝罪し反省しております。個人の名誉のためここでは名は伏せさせていただきますが」


ユリサの完璧なアリバイと第三者の証言に第一の罪状は根底から覆された。

ユリサは間髪入れず次の書類を手に取った。


「続きまして、第二の罪状、メリエル様のドレスを汚した件について。メリエル様のドレスに付着していたのはインクではございません。私が毎週参加しております、王都南地区の教会が運営する慈善食堂で配っているポークビーンズの煮込みソースです」


彼女は小さなガラス瓶を取り出し、中に保管されたソースの染みの付いた布切れを掲げた。


「こちらが、王立研究所に依頼したドレスの染みとソースの成分分析の結果報告書です。両者の成分が完全に一致するとの鑑定結果が出ております。そしてこちらが、事件当日、私が一日中慈善活動に参加していたことを証明する教会からの感謝状です。シスター・アグネス、どうぞ」


会場の隅から質素な修道服をまとったシスターが静かに進み出て深く頷いた。


「ユリサ様は、ご身分を隠し、毎週我々の活動を手伝ってくださっております。あの日も、朝から晩まで、貧しい方々のために食事を配り、子供たちの面倒を見てくださいました。彼女のような慈悲深い方を私は他に知りません」


会場は静まり返っていた。

公爵令嬢が人知れず慈善活動に身を投じていたという事実に多くの者が衝撃を受けていた。


「ドレスを汚してしまったのも私ではございません。食事の配膳を手伝っていた令嬢が誤って鍋をひっくり返してしまったのです。私はすぐに、公爵家に伝わる高価な染み抜き剤をお渡ししようとしましたが、メリエル様は『平民への侮辱ですか!』と叫び、受け取りを拒否なさいました。そして、王子殿下には私が故意に汚したとご報告なさった。…なぜですの、メリエル様?」


ユリサの静かな問いかけにメリエルは顔を真っ青にして震えるだけだった。

会場の空気は完全に逆転していた。

ジャクソン王子は信じがたいという表情でメリエルとユリサを交互に見ている。

そしてユリサは最後の罪状へと駒を進めた。


「最後に、最も重い罪。第三の罪状、殺人未遂についてご説明いたします」


彼女は、自らの純白のドレスの長い手袋を静かに外し袖をゆっくりとまくり上げた。

白く細い腕には痛々しい紫色の大きな痣が今も生々しく残っていた。


「これは、メリエル様をお助けした際にできたものです」


息を呑む音が、あちこちから聞こえる。


「あの日、階段の最上段で、メリエル様は足元のレースがほつれているのに気づかずご自分で足を踏み外されました。私は彼女の後ろを歩いておりましたので、とっさにその手を掴み引き寄せたのです。その勢いで、私は壁に強く体を打ち付け、彼女は私の胸に倒れ込む形となりました。彼女は無傷でしたが私はこの通りです」


ユリサはゼノから最後の書類の束を受け取った。


「そしてこれが、その一部始終を目撃していた複数の下級生の皆様からの署名入りの証言書です。皆様、怖かったでしょうに、真実を話す勇気を持ってくださり感謝いたします」


ユリサの言葉に、会場にいた数人の制服姿の女子生徒たちが、お互いに顔を見合わせた後、一人の生徒が勇気を振り絞って一歩前に出た。


「あ、あの!私、見ました!メリエル様が落ちそうになって、それをユリサ様が身を挺して助けていらっしゃったのを!」


少女の声は震えていたがその瞳は真実を語っていた。


「ユリサ様は、ご自分の腕が痛むのも構わずに、震えるメリエル様を心配して、『大丈夫ですか、お怪我は?』と優しく声をかけていらっしゃいました!なのに、メリエル様はユリサ様の手を振り払って、『あなたが突き落とそうとした!』って叫んで、走り去ってしまったんです…!ひどいです!」


少女の涙ながらの訴えは決定的な一撃となった。

王子が突きつけた三つの罪状は、その全てがユリサの善意の行動を悪意をもって捻じ曲げ捏造された、完全な虚偽の物語であったことが誰の目にも明らかとなった。

ユリサが提示した証拠は、図書館の記録、王立研究所の分析結果、教会の感謝状、そして複数の第三者による証言という何一つ反論の余地のない完璧なものだった。

会場の空気は熱を失い氷のように冷え切っていた。

数分前までユリサに注がれていた侮蔑と非難の視線は、今やその矛先を180度変え、壇上で立ち尽くすジャクソン王子と顔面蒼白で震えるメリエルに鋭い刃のように突き刺さっていた。


「そん…な…、嘘だ…。メリエル、これは…どういうことなのだ…」


ジャクソン王子は、信じていた聖女の物語が目の前でガラガラと崩れ落ちていく様にただ狼狽えることしかできない。


「わ、私は…私は、し、知りません…!ユリサ様が、みんなを買収したんですわ…!そうに決まってます!」


追い詰められたメリエルは金切り声を上げてユリサを指差した。

しかしその見苦しい言い訳を信じる者はもはや誰一人としていなかった。

ユリサは、そんな二人を憐れむでもなく嘲るでもなく、ただ静かな氷のような瞳で見つめていた。

彼女の無実の証明はこれで完了した。

だが、彼女の本当の目的はここから始まる。

この断罪の舞台を、国家を揺るがす陰謀を暴くための裁きの舞台へと変えるために。

ユリサはゆっくりと口を開いた。


「なぜ、私の行動を全て悪意あるものとして殿下に伝えたのですか?私と殿下の婚約を破棄させ、公爵家を貶めることで、あなたは何を得ようとしたのですか?」


その問いは、偽りの聖女だけでなく、その背後で糸を引く者たちへの宣戦布告だった。




* * *




会場は水を打ったように静まり返っていた。

ユリサの最後の問いかけが重く響き渡る。

「あなたは何を得ようとしたのですか?」

その言葉は単にメリエルの嘘を責めるだけのものではない。

その背後にあるより大きな悪意の存在を明確に示唆していた。


全ての視線が壇上のメリエルに集中する。

彼女はもはや聖女の仮面を保つことはできなかった。

恐怖と混乱で顔は歪み、必死に助けを求めるようにジャクソン王子にすがりついた。


「ジャクソン様!助けてくださいまし!私は、私は何も…!この女が嘘を言っているのです!」


しかしジャクソン王子もまた、自らが信じ庇護してきた物語が崩壊した衝撃で、正常な判断力を失っていた。


「メリエル…本当のことを言ってくれ…。君は、私を騙していたのか…?」


王子の声は弱々しく懇願するようだった。

彼が心の拠り所にしていた「清らかな聖女」という存在が目の前で揺らいでいる。

その光景に耐えられなかったのだ。

ユリサはそんな二人の醜態を冷徹なまでの静かな瞳で見つめていた。

彼女の視線はもはやメリエル個人には向けられていない。

彼女は会場にいる特定の人物たちの反応を注意深く観察していた。

ジャクソン王子を取り巻き、ブルターゼン公爵家を快く思っていなかったマクロン辺境伯を中心とする一派だ。

彼らの顔からは血の気が引き、明らかに動揺した様子で視線を泳がせている。

ユリサの罠が的確に獲物を捉え始めている証拠だった。

ユリサはさらに追い打ちをかける。


「メリエル様。あなたのその聖なる力…本当に神から与えられたものですか?あなたがいつも身につけているそのペンダント…それは魔力を増幅する古代の遺物アーティファクトではありませんか?」


その指摘に、メリエルは「ひっ」と短い悲鳴を上げ思わず胸元のペンダントを握りしめた。

その仕草が何よりの答えだった。

会場が再び大きくどよめく。

「聖女の力が偽りだったというのか?」。

偽りの聖女に国中が踊らされていたという事実は王子の愚かさをさらに際立たせるものだった。


ジャクソン王子が「聖なる力まで…偽りだと…?」と愕然とし、メリエルが泣き崩れて言葉を失ったその時だった。

今まで壇下の席で沈黙を貫いていたユリサの父、ブルターゼン公爵が重々しく立ち上がった。

彼の威厳に満ちた姿に会場の誰もが息を呑む。

公爵はゆっくりと壇上へと歩みを進め娘の隣に立った。


「その問いには、私が答えよう」


公爵の低くよく通る声が、大広間の隅々まで響き渡った。


「聖女メリエルは哀れな操り人形に過ぎん。彼女を利用し、王太子殿下と我が公爵家の離間を煽り、王国の権力構造を揺るがそうと画策した者どもがいる」


公爵の鋭い視線がマクロン辺境伯とその一派を射抜いた。

辺境伯たちはまるで槍で貫かれたかのように体を強張らせた。


「彼らは愚かにも恋に目が眩んだ王子殿下を焚きつけ、偽りの聖女をその后に据え、ブルターゼン公爵家を失脚させることで王国の実権を握ろうとした。そしてその背後には、我が国の弱体化を狙う隣国ガルニアの影がある!」


国家転覆、そして隣国の陰謀というあまりにも重大な言葉が公爵の口から放たれ、会場はパニック寸前の騒然とした空気に包まれた。


「な、何を馬鹿なことを!公爵、それは濡れ衣だ!証拠でもあるのか!」


マクロン辺境伯が顔を真っ赤にして叫んだ。

だがその声は明らかに上ずっていた。

ブルターゼン公爵は冷静に答えた。


「証拠なら、ここにある」


彼は娘のユリサに視線を送る。

ユリサは静かに頷くと、ゼノが抱えていた書類の束の中から領地経営書類とは別の、黒い表紙のファイルを取り出した。


「ここには、マクロン辺境伯がガルニアの間諜と密会を重ねていた日時と場所の記録、受け取った金の額を記した帳簿の写し、そして我が国の防衛情報を隣国に売り渡そうとしていたことを示す書簡の写しが全て収められております」


ユリサがファイルを掲げると、辺境伯は「そ、そんなもの、捏造だ!」と叫ぶのが精一杯だった。


公爵が大きく手を打ち鳴らした。

その音を合図に、今まで閉ざされていた大広間の全ての扉が一斉に開き、完全武装した王宮騎士団が騎士団長を先頭になだれ込んできた。

彼らは一切の躊躇なくマクロン辺境伯、そして顔面蒼白になっている反公爵派の貴族たちを次々と取り囲んでいく。


「マクロン辺境伯!並びに、同席の者ども!国家反逆罪の容疑で身柄を拘束する!」


騎士団長の厳かな声が響き、貴族たちの悲鳴と怒号が入り乱れる。

もはやパーティー会場は壮大な捕物劇の舞台と化していた。


「待て、待ってくれ!これは罠だ!ブルターゼン公爵の陰謀だ!」


辺境伯は最後まで見苦しく抵抗したが、屈強な騎士たちに取り押さえられなすすべもなかった。

その混乱の中、全ての希望を失ったメリエルは壇上にへたり込み、嗚咽を漏らしながら全てを白状し始めた。


「わ、私は…悪くありません…!辺境伯様たちが…!公爵令嬢を追い落とせば、ジャクソン様と結婚して、王妃様になれるって…!だから、言われた通りに…!」


彼女は隣国の間諜から「公爵令嬢に虐げられる悲劇の聖女」を演じるよう詳細な脚本を渡されていたこと。

教科書やドレスの件も階段から落ちる演技も全てが計画されたものだったこと。

そして、聖なる力の源であるペンダントも間諜から与えられたものであることを涙ながらに告白した。

ジャクソン王子はその告白を魂が抜けたような表情で聞いていた。

自分が愛した女性はただの操り人形だった。

自分は敵国の掌の上で愚かな恋の劇を演じていただけだった。

長年の婚約者、国、そして王家を裏切り、国を滅ぼす片棒を担いでいた。

その絶望的な事実に彼は膝から崩れ落ちた。


全ての陰謀が白日の下に晒された。


拘束された反逆者たちが引き立てられていき、ジャクソン王子は騎士に両脇を抱えられ力なくうなだれている。

大広間には国王の深い溜息と、ブルターゼン公爵の静かな怒り、そして全てを終えたユリサの冷徹なまでの静寂だけが残されていた。




* * *




卒業記念パーティーでの大捕物劇から数日後。王宮の最も格式高い「暁の謁見の間」は重苦しい沈黙に支配されていた。

玉座に座す国王の前にはブルターゼン公爵と、清廉な白いドレスに身を包んだユリサが静かに控えている。


「ユリサ・ブルターゼン嬢。此度の働きまことに見事であった。そなたの知略と勇気がなければ、この国は隣国の謀略によって内側から崩壊していたやもしれぬ。王国を救ったその功績いくら称えても足りぬほどだ」


国王は玉座から立ち上がり、自ら階段を下りてユリサの前に立つと深く頭を下げた。

王が臣下に、しかも年若い令嬢に頭を下げるなど前代未聞のことだった。


「もったいなきお言葉にございます、陛下」


ユリサは完璧な礼法で応じた。

国王は今回の事件に関わった者たちへの処分を報告した。

偽りの聖女メリエルは、国家反逆罪の幇助と王家を欺いた罪で終身、北の修道院へ幽閉されることとなった。

彼女の家族も爵位を剥奪され平民に戻された。

マクロン辺境伯をはじめとする反逆者の貴族たちは法に基づき厳正な裁きを受け、首謀者たちは処刑、その他も領地没収の上永久に貴族社会から追放という厳しい処分が下された。

そして最後に、国王は苦渋に満ちた表情で自らの息子の名を口にした。


「我が息子、ジャクソンについては…」


国王の合図で、衛兵に連れられてジャクソンが謁見の間に引き出された。

彼は豪華な王太子の装束ではなく簡素な旅装を身に着け、その顔には生気がなく憔悴しきっていた。


「ジャクソン。お前は王太子という立場にありながら私情に溺れ、敵国の陰謀を見抜けなかった。そればかりか、長年お前を支え続けてきた婚約者を無実の罪で断罪しようとした。その愚かさと罪は万死に値する。よって本日をもって、お前の王太子位を剥奪し、北の辺境領地にて無期限の謹慎を命じる」


国王の厳粛な宣告にジャクソンは力なく膝をついた。

彼は最後までユリサの方を見ることができず、ただ「…申し訳、ございませんでした」と床に向かって呟くと、衛兵に連れられて静かに退室していった。

彼の背中にはかつての自信に満ちた王子の面影はどこにもなかった。


ジャクソンの退室後も謁見の間の重い空気は変わらなかった。

国王は深くため息をつくと改めてユリサに向き直った。


「ユリサ嬢。ジャクソンの愚かな行い、父親として、そしてこの国の王として心から謝罪する。本当に申し訳なかった」


「陛下がお気になさることではございません」


「いや、そうではない。…そこでそなたに頼みがある。一度は破綻しかけた縁ではあるが、どうか今回のことは水に流し改めてジャクソンとの婚約を…いや、もはやあの愚か者にそなたはもったいない。弟の第二王子ではどうだろうか。そなたのような賢婦こそ、この国の王妃となり未来の王国を導いてほしいのだ」


国王からの予想外の、しかし最大限の申し出だった。

ブルターゼン公爵も、娘が王妃となることは公爵家にとってこれ以上ない栄誉だと考えているのか、わずかに期待の色を瞳に浮かべた。

王妃になる。それはこの国の全ての令嬢が夢見る最高の地位だった。

悪役令嬢として奈落の底に突き落とされるはずだった彼女が、今や国の頂点に立つことを請われているのだ。

しかしユリサの答えは決まっていた。

謁見の間の誰もが、彼女がその申し出を受け入れるものと信じて疑わなかった。

だがユリサは静かに、しかしきっぱりと首を横に振った。


「陛下。そのあまりにもったいなきお言葉、身に余る光栄に存じます。ですが大変申し訳ございません。お受けすることはできません」


ユリサの明確な拒絶に、国王もブルターゼン公爵も驚きに目を見開いた。


「なぜだ、ユリサ嬢。何か不満があるというのか」


「いいえ、決してそのようなことではございません。ただ一度壊れてしまった信頼は、ガラスの器と同じで決して元には戻りません。王子殿下ともはや心から手を取り合うことは叶わないでしょう。そして何より…私には、王妃になることよりも果たしたい夢がございます」


ユリサはまっすぐな瞳で国王を見つめ、自らの願いを口にした。


「今回の事件で首謀者であったマクロン辺境伯の領地が王家の直轄地になったと伺いました。彼の悪政により土地は痩せ、民は貧困に喘いでいると。どうか、その土地の統治をこの私にお任せいただけないでしょうか」


「な…!?領主になりたいと申すか!そなたのような若い女性がなぜわざわざそのような苦労を…」


「私はこれまで、王妃教育の一環として帝王学、法学、経済学、そして治水や農業技術について学んでまいりました。ですがそれらは全て机上の空論。私は自らの知識と力を、実際に苦しんでいる民のために使いたいのです。痩せた土地を緑豊かな大地に変え、飢えた民の笑顔を取り戻す。それが今の私のたった一つの夢なのです」


彼女の言葉には揺るぎない意志が込められていた。

政略結婚の駒として窮屈な王宮で生きるのではなく、自らの手で未来を切り拓きたいという強い覚悟が。

その覚悟に満ちた清々しい瞳に国王は反論する言葉を失った。

彼は、しばし黙考した後大きく頷いた。


「…わかった。見事な志だ。そなたの願い聞き入れよう。本日をもってユリサ・ブルターゼン嬢とジャクソン王子の婚約は完全に白紙とする。そして旧マクロン辺境伯領を『ブルーム領』と改め、そなたを初代領主として正式に任命する」


ユリサは深く頭を下げた。

彼女は、ついに自らの人生をその手に取り戻したのだ。


数週間後、王都を出発する一台の質素な馬車があった。

公爵令嬢の華やかなドレスを脱ぎ、動きやすい質実剛健な旅装に身を包んだユリサが御者台に座り、自ら手綱を握っている。

窮屈な王妃教育と政略結婚から解放された彼女の表情はこれ以上ないほど晴れやかで希望に満ちていた。

その隣には同じく騎士服ではないシンプルな旅装のゼノが座っている。

彼はブルターゼン公爵家の騎士の任を解かれ、一個人の護衛としてユリサに付き従うことを選んだ。


「本当に良かったのですか、ゼノ。公爵家の騎士という名誉を捨ててこのような辺境の地へ」


ユリサが馬を進めながら尋ねた。


「私が忠誠を誓ったのはブルターゼン公爵家ではありません。ユリサ様、あなたお一人です」


ゼノは静かに、しかしきっぱりと答えた。

そして少しの沈黙の後、彼は意を決したようにユリサに向き直った。


「そしてユリサ様がどこへ行こうと、私はお傍におります。今後は…一人の騎士としてではなく、あなたを支える一人の男として」


その真っ直ぐな告白にユリサは驚いて目を見開いた。

いつも冷静沈着な彼女の頬がほんのりと赤く染まる。

そして、彼女は心の底からこみ上げてくる喜びを隠すように、少女のようなはにかんだ笑みを浮かべた。


「…ふふ。あなたもなかなか言うようになりましたね」


今後、彼女は、かけがえのないパートナーと共に新しい人生を始める。

二人の前には、困難だがきっとやりがいに満ちた未来が、どこまでも続く地平線の先へと明るく広がっていた。


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