7. 王都への旅立ち
朝の光が柔らかく畑を照らす中、私はいつものようにルゥを胸元で抱いて、鶏たちに餌をやっていた。ルゥは温もりを感じているのか、安心したように眠っている。
フェンリル王国騎士団が突然やってきて、嵐のように去っていってから1ヶ月ほどが過ぎ、私もこの農園での生活にすっかり慣れていた。
日本での生活とはまるで違い、全てが原始的な日々の暮らし。明かりも限られているから、日が落ちれば家の中のわずかな光で夜を過ごすしかなくて、毎日睡眠不足だったあの日々が遠いことのように感じる。
「ルゥも私も、もうすっかりこの家の住人だね」
私はぽつりと呟いて、肩のあたりに頬をすり寄せてくるルゥの温もりを感じた。
この平穏な時間が、ずっと続けばいいのに――そう思っていた、その時。
ふいに、丘を駆け上がってくる聞き慣れた足音が聞こえた。
「リイナさーん! て、手紙ですっ!」
レミィだった。息を切らし、両手で抱えるように何かを大事そうに持っている。
彼女が差し出したのは、厚手の羊皮紙に金の封蝋が押された、見るからに高貴そうな封書だった。
「これ……王都から?」
「うん……王家の使者って人が馬車で届けてくれて。王妃陛下からって……」
私は封を切る手を一瞬ためらった。
けれど、ルゥが小さく私の指を舐めるように動いた瞬間、不思議と決意が生まれた。
――読むべきだわ。ちゃんと、この世界の声を、受け止めなきゃ。
手紙には、柔らかい筆致で見慣れない文字が綴られていた。でも、まるで日本語のようにその文字の羅列を私は読むことができた。
そこに込められた言葉は、どれも静かな熱を孕んでいた。
⸻
《はじめまして。わたくしはフェンリル王国の正妃セレスティアと申します。突然のお手紙で驚かれたでしょう。
王国騎士団のクレイスからあなたについて報告を受けました。そもそも、わたくしがあなたの存在を感知し、派遣したことをまずはお伝えしなければなりません。
わたくしはこの国の王妃ではありますが、元は王家専属の筆頭魔術師でもありました。そのことについては、いずれあなたにも直接お話ししたいと思っています。
リイナ。あなたの存在を知って、わたくしがどれほど嬉しかったか。信じられないかもしれませんが、わたくしはあなたのような存在を、ずっと待ち侘びていました。
わたくしは、あなたの存在を”奇跡”だと捉えています。
けれどそれは、軍や魔術師たちの言う”戦力”としての意味ではありません。
わたくしはかつて、竜と共にあった巫女の記録を読んだことがあります。今では忘れ去られ、神話のように語り継がれる伝説。
そして今、あなたが育てているというその竜に――わたくし自身が忘れかけていた”共鳴の光”を見たのです。
わたくしたちは、竜を兵器として扱うようになって久しい。
共にあったはずの存在を、ただ『制御不能な危険な存在』と見なすこの世界で、あなたは”母”として竜と繋がった。
その選び方は、私たち王家が失ってきたものかもしれません。
どうか、あなたの真実をわたくしに見せてください。
恐れずに、その命の在り方を教えてほしい。
―― セレスティア・ルクレティア・アールヴァイン》
⸻
私は読み終えて、しばらくその場から動けなかった。
ルゥが微かに鳴く。私の鼓動に反応したのか、胸の奥がじんわりと熱くなる。
この手紙は、ただの命令じゃない。
王妃陛下自身が、この世界の「竜の在り方」に、悩んで、迷って、答えを探そうとしてる……。
私なんかが、何かを変えられるのかは分からない。
でも、私の未来は、ルゥを抱いた瞬間に決まってた。
「――行こう、ルゥ。王妃様に会いに」
そう口にした瞬間、ルゥがくるりと私の首に顔をすり寄せた。王妃様からの呼び出し。それが何を意味するのか、まだ全てはわからないけれど――。
私のそばで様子を伺っていたレミィは、大きな栗色の目を瞬かせて私を見つめる。
「リイナさん、本当に行っちゃうんですか?」
レミィが少し涙ぐんだ瞳で私を見上げてくる。
「ううん、帰ってくるよ。絶対に。またルゥと一緒にこの家に戻ってくる。だから大丈夫」
そう言って頭を撫でると、レミィはルゥをそっと撫でて「必ずね」と小さく呟いた。
「行くのかね」
そう言って畑から戻ってきたラトじいは、いつになく表情を引き締めていた。
私の方を見る目が、少しだけ寂しそうで、でもどこか誇らしげでもあった。
「……ごめんなさい、急な話で」
「謝るこたぁない。……竜を捨てられず抱いたあんたにゃ、いずれこんな日が来る気がしておった」
ラトじいは、ごつごつした大きな手のひらでそっと私の頭を撫でてくれる。どこか懐かしいその温かな手。
しんみりとした気持ちでいると、ポーチに詰めた旅用の荷を肩に担ぎ、カランがふらりと目の前に現れた。
「さて、王都へ行くそうですね。ならば僕も同行しましょう」
「え? カランさんも?」
「当然ですよ。君とルゥの成長を見逃すわけにはいかない。竜との共鳴なんて、数百年ぶりに記録に残るかもしれない奇跡だ。目撃者として同行する義務がある」
そう言って笑うカランは、どこか楽しそうだったけれど、その目は真剣だった。
私は笑って頷いた。頼れる仲間がそばにいてくれるのは、心強い。
レミィは半泣きで私の荷物をまとめてくれて、ルゥの食事まできっちり用意してくれていた。
こうして、私は王妃様の呼びかけに応えるため、ルゥを抱いて、再びこの丘を降りることになる。
それが、どんな運命に繋がっているのか、まだ何一つ知らないままで――。