39. 半竜兵カイ
──夜の岩場を、黒い影が音もなく駆けていた。
月を背にして疾走するその影の集団の中にいて、ひときわ大きく、そして異形の姿を持つ男。
黒い装束から時折のぞく竜の鱗や太い尾が、彼がただの兵士ではないことを図らずとも知らせる。
──半竜兵カイ。畏怖を込めて、彼はそう呼ばれていた。
今、男の視線は迷いなく、南の「深淵の谷」へと注がれていた。
「情報は確かだな」
カイの低い声に、背後の斥候がうなずく。
「“例の女”は、谷の外れに魔獣や竜の保護区を築いている模様です。例の“捨てられし竜”も共にそこに」
カイの唇がわずかに吊り上がった。
「ならば計画を早めよう。──黒翼隊、配置につけ」
短い号令が飛ぶ。漆黒の外套をまとった兵たちが、砂を蹴って散開した。
荷馬車には、呪を刻まれた鉄製の檻が積まれている。檻の中で、帝国魔導師が生み出した封印の魔道具が淡い光を放っていた。
それは、竜の気を抑え込み、捕縛を容易にするための装置だった。
「……例の女、竜と“共鳴”しているとか」
「真実なら厄介だな」
「しかし、竜が完全に育ちきる前に、我らの手で奪えばいい」
囁きが夜風に攫われていったあと、黒装束たちは足場の悪い岩地を飛ぶように駆け抜けていく。
あの稜線を越えれば、谷を覆う深い霧が見えてくるはずだった。
カイは一瞬だけ空を仰ぎ、呟く。
「──時は来た。竜を、帝国のものとする」
その目は鋭く、感情の奥に冷たい光を宿していた。
「──ここから先はさらに慎重に行け。封陣を仕掛けたら、すぐに退路を確保しろ」
カイが重々しく命ずると、部下たちは無言でうなずくが、視線は一様に定まらない。小さな迷いや不安がそこにはあった。
カイは一歩前に出ると、マントの裾を払った。月明かりに照らされたその脚の一部は鈍く輝く鱗に覆われ、硬質の光を帯びているのが見えた。
人間と竜がひとつになった兵器――半竜兵。
彼が感情を乱せば、隠された爪や牙が顕れ、仲間ごと切り裂きかねないと、ここにいる誰もが知っていた。
「……怯えるな」
カイは彼らの様子に気づくと、鋭い眼差しで部下たちを一瞥する。
「お前たちが手に入れなければならない力。それは“竜”そのものだということを忘れるな。それが帝国の意志だ」
その声に、部下たちは小さく息を呑んだだけで、返事をすることはなかった。
彼らの手には、黒い縄と金属製の杭、呪符を刻んだ鉄環が握られている。
封陣を設置し、竜を追い込むための罠だ。
「まず南側に封印杭を打ち込め。谷を分断するよう配置しろ。……北の尾根には“共鳴封じ”の結界を張る」
カイの指示は短く無駄がなかった。
数名の兵が谷底へと滑り降りていく。その奥からは、湿った岩肌を伝う水の音と、かすかな獣の鳴き声のようなものが響いてくる。
残った兵は、杭を抱えたままカイを振り返り、思わず視線をそらした。彼の首筋に、はっきりと紅の鱗が浮かび上がっていたからだ。
カイは兵が己に向ける畏れに対して表情を崩すことなく、冷たい夜気を吸い込んだ。
「──竜を逃がすな。奪取は一瞬の隙をつく」
谷を覆う重い空気が、彼の気配に応じるかのようにわずかに震えた。
* * *
夜の「再生の谷」は、月光に淡く縁どられ、昼間よりもさらに神秘的な雰囲気を帯びていた。
かつて深淵と呼ばれた谷は、今では緑と水の息吹を取り戻しつつある。小さな魔獣たちが眠る巣穴には、ほのかに甘い草の匂いが漂い、岩壁を伝って流れる水が、ささやくように音を立てている。
──だが、その静けさは完全な安らぎではなかった。
ヴァルトは焚き火のそばに腰を下ろし、鋭い視線を谷底へ向けた。
「……風がいつもと違うな。谷の奥に、鉄のにおいが混じってやがる」
隣に立つレミィも、眉をひそめて応じる。
「わたしも感じる。昼間にはなかった匂いだわ」
そのさらに奥──影の中にグリムの姿があった。シャドウフェンリルは夜の一部のように溶け込み、長い尾の先から影を伸ばして周囲を探っている。
「……何かが潜んでいる。けれど、姿は見えない。念入りに術がかけられているようだ」
低い声が夜気に溶けていく。グリムの周囲では影がわずかに脈打ち、張りつめた空気を伝えていた。
セリオンとイグナートは、谷底の広い空き地に身を横たえながらも、耳をぴんと立てている。金と赤の瞳が、時折闇の奥を鋭く射抜いた。
竜たちは、まだ音も匂いも気配も確かではない“何か”を、確実に感じ取っていた。
焚き火の炎が揺らいだ時、岩陰に光るものがちらりと目についた。金属製の杭──罠の一部だとヴァルトはすぐに悟る。
「くそっ……。こんなもの、いつの間に仕掛けやがった」
レミィがその声に顔をしかめた。
「リイナさんが言っていた黒装束の仕業? まさか市民上がりの過激派を使って、ここまで忍び込ませるなんて……!」
二人は目を合わせ、言葉少なに警戒を強める。
「リイナたちが王都に行っている間に……谷を潰すつもりか」
「谷だけじゃない。あの卵を狙ってるとしたら……」
レミィの視線は、谷のさらに奥、温かな光がほのかに漏れる洞窟へと向いた。そこには、羽化を待つ竜の卵が眠っている。
夜風がふいに吹き抜け、焚き火の火花が舞い上がる。ヴァルトは剣の柄を確かめるように握りしめ、深く息を吐いた。
* * *
同じ夜、王都エルネイルの塔の上階では、別の緊張が静かに広がっていた。
客間の窓辺に立つリイナは、遠くの夜空に小さく瞬く星を見つめている。
膝の上では、ルゥが小さな姿で丸くなり、尻尾を揺らしていた。だが、その琥珀の瞳は眠ってはいない。耳の先が、わずかにそわそわと動いている。
背後で鎧を外したクレイスが肩の力を抜くように息をついた。
「……落ち着かない顔をしているな」
「ええ。谷のことが、どうしても気になって」
リイナは振り返り微笑もうとしたが、表情は曇ったままだった。
「ヴァルトたちは頼りになるし、竜たちもいる。それでも……罠や黒装束の話を聞いたあとだと、胸がざわめくの」
クレイスは静かに頷き、窓辺に歩み寄った。
「セリオンもイグナートもいる。あいつらは谷の守りの要だ。あの二匹が容易くやられるわけはない」
彼の瞳に一瞬、愛竜を思う柔らかな光が浮かぶ。
「──信じると決めたのは、俺たちだ」
ルゥが小さく「きゅるる」と鳴き、リイナの手に頭を擦りつける。
(……大丈夫。あそこには、みんながいるよ)
ルゥの声が、心の奥に響いた。リイナは目を細め、竜の小さな額をそっと撫でた。
そのとき、扉が軽く叩かれた。
「お邪魔するよ」とノアの声が響き、扉が開く。銀髪の魔導士は、いつもの人懐っこい笑顔を見せながらも、どこか影を帯びた表情をしていた。
「やっぱり、みんな谷のことが心配なんだね。……王都のほうも落ち着かないよ。反竜派の噂が広がってる。今日も広場で、竜の存在を否定する演説をしている連中がいたって」
「市民の不満を煽る者がいるのだろう」クレイスは腕を組み、低い声で言った。「帝国の影かもしれん」
ノアは頷き、真剣な眼差しを向ける。
「王妃さまも気にされてた。暴徒が現れれば、王都の竜たちが標的になるかもしれないって」
リイナの胸に冷たいものが広がった。
谷も危うい。王都も、決して安全ではない。
──守りたいものが、両方にある。
ルゥはその心の揺らぎを敏感に感じ取り、首をもたげた。瞳にかすかな光を宿し、外の夜空を見やる。
(……空気が、少し変だ)
その声に、リイナは息をのんだ。
まだ何も起きてはいない。だが、空気の奥底に「波立つもの」を、ルゥは確かに感じていた。
⸻
谷に仕掛けられた静かな罠と、王都に広がる目に見えない不穏。
遠く離れた二つの場所。だが、同じ影がゆっくりと形を成しつつあった。
そして、その影は竜たちと彼らを守る者たちの運命を、大きく揺さぶろうとしていた。




