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37. 龍封じの力

 玉座の間に足を踏み入れた瞬間、華やかな香りに包まれる。咲いたばかりの百合の花のような、清廉な芳香。煌びやかなシャンデリアが輝く下には、深紅の絨毯が敷かれ、その先にセレスティア王妃が待っていた。

 王妃様は変わらない気品と威厳を纏いながら、どこか憂いを帯びた微笑を浮かべている。


「……よく来てくれましたね、リイナ。そして、ルゥ」

 その声には、母のような温かさと、国を背負う者の緊張が同居しているようだった。

 私の実年齢よりおそらく10歳以上歳下なはずなのに、もう何百年もこの国を守ってきたかのような不思議な貫禄が王妃様にはあった。


 私はその場に膝をつくと、深く頭を下げた。

「お久しぶりです、王妃様。……谷での日々は、皆のおかげで少しずつ落ち着いてきました」

「ええ、風の便りで聞いています。再生の谷――その呼び名にふさわしく、傷ついた大地と傷ついた魔獣たちが息を吹き返しつつあると」

 セレスティア様は細めた瞳で私を見つめ、やがて小さく頷いた。

「あなたが成したことは、もはや一人の来客の役割を超えています。竜と人とが共に生きる未来を示す……象徴となりつつある」


 その言葉に、私は思わず視線を伏せた。誇らしさよりも、今は重さを感じてしまう。

「私は……目の前で傷ついた子たちを放っておけなかっただけです。竜も魔獣も、人と同じように“生きたい“と願っているだけなのですから」


 ルゥが私の胸元で小さく鳴いた。まるで同意を示すように。


「……あなたのその心が、私には救いです」

 セレスティア様の声がかすかに震えた。

「けれど、王都の現実は甘くありません。民の中には、竜との共生を夢見る者もいれば、逆に“竜は災厄”と叫び立てる者も増えている。反竜派の組織が暗躍し、先日も暴徒が市場を襲いました。『竜に与する者を排斥せよ』と……」


「……そんな」

 リイナは息を呑む。

「竜は、何もしていないのに」


「恐怖と憎しみは、理屈ではありません。そして、その背後には帝国の影がある。竜封じの技術を密かに流し込み、人々の不安を煽っているのです」


 王妃様の言葉を聞いていたクレイスが、顔を上げると一歩進み出た。

「やはり帝国が暗躍しているのですね。奴らが王国の民を利用しているのは明白。竜封じの術具が市井にまで出回っているなど、常識では考えられません」


 王妃様は静かに頷き、私に視線を戻した。

「だからこそ、リイナーーあなたに問いたい。再生の谷を、これからどうしたいと願っていますか?」


 私は迷わず答えた。

「……守りたいです。竜や魔獣たちが傷つかず、捨てられずに済む場所として。人が彼らから学び、寄り添える場所として。あの谷は……希望なんです」


 私の言葉に、セレスティア様はふっと微笑んだ。でも、その瞳には深い陰が揺れているように見える。

「あなたの言葉を信じましょう。ですが同時に覚悟してください。帝国は必ずその谷を狙う。――再生した希望の卵を……。そしてルゥを」


 私は思わず胸を押さえた。あの谷底で眠る竜の卵。まだ名前もない命の存在を思うだけで、不安と怒りがないまぜになる。

「守り抜きます。……何があっても」


「ええ。それができるのは、あなたしかいないでしょう」

 セレスティア様はまっすぐに告げた。


 静かな空気が玉座の間に落ちた、次の瞬間。扉が乱暴に開け放たれ、鎧を着込んだ近衛が駆け込んでくると、膝をつき、息せき切って口を開いた。

「王妃様、緊急の報せです! 竜騎士団の厩舎が襲撃を受けました――反竜派によるものと思われます!……数匹の軍竜が、竜封じの術具で……!」


 空気が凍り付いた。

 セレスティア様の唇がかすかに震え、私も息を呑む。胸元のルゥが小さく唸り、私の心にざわめきを伝えてきた。


(始まってしまった……!)


 報告を受けるや否や、クレイスは血相を変えて駆け出していた。私も王妃様に礼をすると、その後を追いかけた。

 王妃様の直属騎士たちに導かれて、王都北側にある竜騎士団厩舎へと急ぐ。


 夜気を裂いて響く竜たちの悲鳴が、遠くからでもはっきりと届いてきた。

「くっ……これは!」

 走りながらクレイスが歯噛みする。彼の愛竜セリオンは谷に残してきた。だからこそ余計に、仲間の竜たちの声が胸を切り裂いた。


 厩舎にたどり着いた瞬間、私は言葉を失った。

 そこは地獄だった。


 厚い木扉が破壊され、内側は炎と煙に包まれている。焦げ臭い匂いに混じり、血と焼けた鱗のにおいが鼻をつく。数匹の軍竜が倒れ、痙攣しながら呻いていた。その巨体は鋼のように強靭なはずなのに、鎖で絡め取られるように力を失っている。


「これは……竜封じ……!」

 クレイスの後ろから姿を現したミレーユが顔を蒼白にしながら呟いた。

 地面には見慣れない黒金の杭が打ち込まれており、呪符のような刻印が青白く光を放っている。そこから竜の体へと冷たい鎖が絡みつき、魔力を吸い取っていた。


 私は竜の一頭に駆け寄った。倒れた黒竜の息は浅く、目は虚ろに濁っている。

「ひどい……。力を封じられてる……」

 ルゥが私の腕の中で震え、心に悲鳴を響かせてくる。

(リイナ……! 痛いよ……怖いよ……!)

「大丈夫、大丈夫だよ、ルゥ……」


 その杭に気づいたのはクレイスが駆け寄り、剣を抜いて鎖を断ち切ろうと一閃する。

 だけど、刃は火花を散らすばかりで傷一つ付かなかった。

「……ちっ、なら、どうしたらいい?」


 焦りを見せるクレイスを見ていたミレーユが低く唸る。

「これは……帝国のもの。私の知る限り、フェンリル王国には存在しない技術だわ」


 クレイスは拳を強く握りしめ、静かな怒りを滲ませた。

「つまり、やはり帝国が背後にいるということか。反竜派はただの駒……」


 その時、黒装束の影が炎の向こうを駆け抜けたのが確かに見えた。

「待てっ!」

 騎士の一人が叫び追うが、時すでに遅し。影たちは闇に紛れ、王都の宵闇へと消えていった。残されたのは、倒れた竜と、焼け落ちた厩舎だけ。


 私は諦めきれず、竜の首元に手を当ながら必死に呼びかけた。

「お願い、死なないで。あなたはまだ……生きてる!」

 淡い光が私の左手の紋から広がり、竜の荒ぶる呼吸を少しずつ少しずつ落ち着かせていく。けれど完全に癒すことはできなかった。封印の鎖が、まるで竜の命そのものを握りつぶすように力を奪っていく。


「……外せないわ……」

 私は悔しくて、悔しくて。涙を堪えながら自分の無力さに嘆き、首を振った。

「私の力でも、これは……!」


 王妃直属の近衛兵が駆けつけ、傷ついた竜たちを囲うように布をかけていく。すでに三頭は息絶えていた。兵士たちの顔に絶望と怒りが入り混じる。


 その時、ギルハルト団長が現場に姿を現した。白銀の髪が炎に照らされ、濃い影を落としながら厳しい表情を浮かべている。

「……無念だ。我らの竜が殺された……これは宣戦布告と同じだぞ」

 彼の声は低く、震えていた。

「王都の民の目の前で、軍竜を殺す。――帝国は、我らの誇りを折りに来ている」


 沈黙が落ちる。誰もが事態の重さを痛感していた。


 私は胸の奥で、ルゥの小さな心臓の鼓動を感じた。

(谷も……卵も、狙われてる。次はきっと……!)


 その予感に、背筋が冷たくなる。

 私は守れるの?

 ――竜たちを、谷を、……そしてこの国を。

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