36. 王妃が呼ぶ声
王都エルネイルへの道は、思っていた以上に長く、重く感じる。それは気持ちの問題がかなり大きかった。本当は谷から離れたくなかったから。
私たちはそれぞれの想いを抱えて馬に揺られながら、谷を背にして北へと進んでいた。
ルゥは私の膝の上に小さく身を丸め、省エネモードの姿で翼も畳み込んでる。私の胸の中からキョロキョロと落ち着かない様子だ。
その赤と金の鱗は朝陽を受けて輝き、行き交う人々の目を引いてしまいそうで、私は時折マントをかけて隠す。
(ねえ、リイナ。おうまさん、たのしい)
小さな心の声が胸に届き、思わず吹き出しそうになった。
「……ふふ、そうだね」
ルゥは馬のたてがみに鼻先を寄せ、すっかり懐いている様子だった。
馬も不思議と落ち着いたように耳を動かし、私たちを乗せて軽やかに進んでいく。
隣を行くクレイスは、無言で手綱を握っていた。
銀の髪が風に揺れ、騎士としての横顔はどこか険しく見える。
「……クレイス、やっぱり谷が心配?」と私が問うと、彼は短く頷いた。
「皆を……セリオンを残してきた。あいつを失うのが怖いわけじゃない。そんな弱い竜じゃない。ただ……俺がいない間に、谷が何者かに襲われるのではないかと考えると落ち着かん」
その言葉に胸が締めつけられた。
同じ不安を、私も抱えていたから。
「……大丈夫。ヴァルトも、みんなもいる。何かあったとしても、谷はきっと守られる」
そう告げると、クレイスは少しだけ表情を緩めた。
その時、前を行くノアが軽快に馬を操りながら振り返った。
「まったく。二人してそんな暗い顔してると、旅の空気が重くなっちゃうよ」
彼は片目をウィンクして、ひらりと手を振った。
「王都への道は案外楽しいさ。市場もあるし、宿場町じゃ美味しい菓子だって売ってる。あ、リイナさん、甘いもの好きでしょ?」
思わず笑ってしまう。
彼の軽口は時に軽すぎて不安になるけれど、不思議と心を和ませる力があった。
昼過ぎ、私たちは小さな宿場町に入った。
市井の人々が賑やかに行き交い、露店には色とりどりの果実や焼き菓子が並ぶ。
ノアは早速、袋いっぱいの焼きリンゴを買い込み、私たちに手渡した。
「ほら、こういう時くらい楽しまなきゃ。王都じゃ緊張する場面ばかりなんだから」
ルゥは目を輝かせ、焼きリンゴにかぶりつこうとする。
私は慌てて制したが、ノアが笑いながら小さく切って口元に運ぶと、嬉しそうに尻尾を振って食べた。
(おいしい! もっとたべたい!)
その声が胸の奥に響き、私やみんなを笑顔にした。
けれど、町を出るころ、私は奇妙な視線を感じた。
通りの陰で、黒い外套をまとった人物がじっとこちらを見ていたのだ。
気づいたときには姿を消していたが、背筋に冷たいものが走る。
「どうかしたか?」
クレイスが私の様子に気づき、表情を厳しくすると剣に手をかけた。
「……ううん。気のせいかもしれない」
私はそう答えたけど、胸のざわめきは消えなかった。
帝国の影。
その存在が、私たちのすぐ傍まで迫っているのかもしれない――。
夕暮れ、道の先に王都の城壁がかすかに見え始めた。ここまでほとんど休みなしの移動だったから、正直もうクタクタだ。
久しぶりに見る巨大な石造りの壁は、黄金色に照らされ、変わらず荘厳な姿でそびえている。
ノアが手綱を軽く引きながら、ぽつりと呟いた。
「さあ、舞台に到着だ」
その声音は、冗談のような軽さだったけれど、どこか冷たさを含んでるように感じる。私の気のせい?
私は思わずノアの横顔を見つめる。
……笑っているはずなのに、その目の奥は……笑っていなかった。
* * *
黄昏の赤に染まる空を背に、私たちはようやく王都の城門に到着した。
エルネイル――フェンリル王国の心臓。幾重にも重なった白亜の壁が夕陽を反射している。巨大な城門の前には槍を構えた兵たちが立ち並んでいた。
谷を出てからの旅路の疲れが、にわかに重く胸にのしかかる。けれど同時に、ここから始まる出来事の予感に、息が詰まるほどの緊張を覚えていた。
「……着いたな」
クレイスが低く呟く。彼の瞳は鋼のように硬く、王都を見据えていた。
「久しぶりですよね」と返すと、彼は軽く頷く。
「谷への異動を命じられて数ヶ月。別にそこまで長く離れていたわけではないが……なぜだろう。胸騒ぎがする」
馬の背に揺られていたルゥが、私の腕の中で小さく身じろぎする。
(リイナ、なんだかイヤなにおいがする)
心に響く不安そうな声に、思わずルゥを抱きしめた。
「大丈夫よ。私がいるから」
けれど、ルゥの勘はいつも侮れない。
彼の小さな鼻先が感じ取るものは、きっと目には見えない影――帝国の残り香なのかもしれない。
城門をくぐると、石畳の大通りに夜の灯りがぽつぽつと点り始めていた。
往来は賑やかで、商人が声を張り上げ、子どもたちが笑いながら駆け抜けていく。
一見すれば平和そのもの。だが、どこか人々の視線に冷たさが混じっていた。
竜を抱く私に向けられる視線――それは好奇と警戒、そして時折、露骨な嫌悪が入り混じったものだった。
以前は好意的に感じていた市井の人々の視線が、まるで変わってしまったように冷ややかに感じる。
「……気にするな」
クレイスが低く囁く。
「王都の人間は、基本的には竜を恐れる。それに、もしかすると反竜派が城下町で活動を活発にしているのやもしれん」
クレイスの言葉は理解できた。でも、ルゥはとても繊細に周囲の気配を感じとってしまう。小さな体を強張らせるのを感じると、胸が痛んだ。
そんな空気を和ませるように、ノアが笑いながら先頭にたった。
「王都って、空気がぴんと張り詰めてるよね。リイナさん、あんまり気にしないで。ここでは僕みたいな軽口屋がちょうどいい潤滑油になるんだから」
軽やかな声でそう言うノアの笑みは、どこか芝居がかって見えた。
……けれど、その屈託のない笑顔を見ていると、少しだけ安心してしまうのも事実だった。
私たちはそのまま城へと向かった。
白大理石で築かれた荘厳な宮殿は、夕闇の中で静かに輝きを放っていた。
衛兵が恭しく敬礼し、私たちを謁見の間へと通した。
広間は高い天井と彩色ガラスの窓が連なり、柔らかな光が床を照らしていた。
その中央に、一人の騎士が待っていた。
黒塗りの鎧に身を包み、漆黒のマントを翻すその姿は、王妃直属の使者――“漆黒の騎士”と呼ばれる存在だ。知らなかったけれど、王妃様の影となりその御身を一番近くでお守りする騎士だとクレイスが教えてくれた。普段は姿を見せることはないらしい。その“漆黒の騎士”が使者として私たちの前に現れたことこそ、重要な意味があるとも思えた。
「竜の母ーーリイナ殿。そして守護竜ルゥ、ならびに随行の者たち」
低く、凛としたよく通る声が広間に響く。
「我が主、セレスティア王妃陛下の御意により、ここに正式な召集を伝える」
私の胸がどくりと鼓動を大きくする。
それは予想していた言葉でありながら、実際に突きつけられると逃げ場のない重さを持って迫ってきた。
「ガルダルス帝国の動きは日に日に活発化している。反竜派の影は既に王都に潜み、民心を乱そうとしている。ゆえに王妃陛下は、貴殿とその守護竜を保護し、直々に対話を望まれている」
“保護”。
その言葉が耳に残る。
守るという響きの裏に、何か他の意味があるのではないか――そんな疑念が胸をよぎる。
「……王妃陛下の御意は絶対。速やかに王妃陛下の元へ参じられよ」
騎士の声が厳しく続く。
私は思わずルゥを抱き締めた。
谷に残してきた仲間たち。まだ守りきれていない小さな魔獣たち。谷底で静かに眠る竜の卵――。
「……これで、本当に良かったの?」
ごく小さく洩らした独白は、誰に向けたものでもなかった。
でもクレイスがそれ気づくと、静かに私の肩に手を置く。
「あの谷にはヴァルトも、仲間たちも残っている。セリオンもいる。俺たちが信じた仲間だ」
その声に励まされても、やはり不安は拭えなかった。
「ずいぶん思いつめた顔だね」
ノアがくすりと笑い、私の横に立った。
「リイナさんも知ってるでしょう。王妃様は優しい方だよ。誰よりも竜を知る存在。リイナさんを守りたいと願ってるのも、きっと王妃様の真心だよ」
彼の声はどこまでも明るく響く。
けれど、その目の奥に一瞬だけ、影が走ったように見えたのは気のせいだろうか。その言葉の内容だって、私には軽薄に感じる。私たちを利用するような、他に意図があるような……、そう思わせる“何か”。
私は小さく息を吐き、抱き締めたルゥに微笑みかけた。
――大丈夫。私たちならきっと乗り越えられる。
私はそう決意すると、漆黒の騎士を真っ直ぐ見据えた。
たとえ不安が尽きなくても、この小さな命を守り抜くために、私は歩みを止めるわけにはいかないんだから。




