4. 農園でのひととき
しばらくの間、農園には静かな日々が流れた。
ルゥは相変わらず私にべったりで、朝はミルク、昼はお昼寝、夜は私の布団に潜り込んでくる。赤くてまん丸な身体を胸に抱いて眠るのにも、すっかり慣れてしまった。
レミィはいつも明るく元気で、ルゥを“るぅたん”と勝手に呼んでは、くすぐったそうに抱っこしている。最初は少し緊張していたルゥも、今ではレミィにぺたっとくっついて寝てしまうほど心を許し始めてる。
農園の仕事も、なんとなく身体が覚えていて不思議と手が動いた。畑の雑草取りに水やり、小屋の掃除、家畜の餌やり……。
平和で穏やか過ぎる農園での毎日に、ようやく心も体も慣れてきた、そんなある日のこと。畑の仕事が一段落して休んでいた時、近くの井戸から汲んできた桶の水面にふと自分の顔が映った。
「……え?」
思わず、二度見した。
あれ? 誰……?
いや、これ……私、だよね?
微かに揺れる水面に、私がペタペタと顔に触れるのが映り込む。
でもなんだか、ずいぶん違う。髪のツヤ、肌の透明感、くっきりとした目元……。そういえば、眼鏡なしでも鮮明に見える!
今更か!と思うけど、毎日必死過ぎて、ようやくその事実に気づいた。
私の見た目、変わり過ぎ!!
前世では30代後半。日々の猫カフェ運営と保護活動でろくにメイクもせず、睡眠不足のくすみ顔だったのに。
「わ、若返ってる……!? っていうか、めちゃくちゃ美人になってない……!?」
思わず口元を押さえて、水に映る自分と見つめ合う。
小動物系というより、しっとりした落ち着きのある美しさ。髪は柔らかな榛色の癖毛で、後れ毛がふわりと風に揺れている。瞳は深いオリーブ色。え、まつ毛なっが! 最近やたらと目にゴミが入るのは、単純に目が大きくなったからなのね!
どう見積もっても20代前半。前より体が軽い気がしたのも、気力溢れる若者に転生したから……なんだ。
なるほど……。夢の中でフォリアが言ってた「少しだけ、おまけしておいた」って……これのことか。
(あのモフモフ、めちゃくちゃ仕事できる……!)
しかし、化粧もろくにしなくてもこの美貌。これでもし、おめかしなんかした日には、案外イケイケじゃない?なんて、思考がおばさん過ぎて凹む。さすがに心まで若くはならないものね。
もう一つ、気になっていたことがある。
それは印のある方の、手のひらの感覚だった。
数日前、小屋の裏手でケガをして動けなくなっていた小鳥を見つけた。夜のうちに木の上の巣から落ちてしまったのかな。翼が折れていたみたいでバタバタともがいていたのを、私は両手でそっと包み込んだ。
「大丈夫、大丈夫……怖くないよ」
そう囁いた瞬間。私の手のひらがほのかに光った。優しいくてどこか懐かしい温かな光。まるで春の陽だまりみたいな。
鳥の呼吸が少しずつ落ち着いていき、しばらくすると何事もなかったかのように翼をぱたぱたと動かして、空へ飛び立っていった。
「……え?」
その瞬間が当たり前のように自然な流れで。私はその場にしばらく立ち尽くしてしまった。
その後も、子羊の足の腫れを撫でたらいつの間にか治ったり、畑の苗の成長が異様に早かったり……小さな“癒し”の力が、確かに私の中に息づいているのが分かる。それをどうしたらいいのか、分からないまま。
「リイナさん、また鳥たちが寄ってきてますよ〜。あ、るぅたんお昼寝してる、かわいいー」
籠に入った洗濯物を腕に抱え、レミィが笑いながらやってくる。物思いに耽っていた私のまわりには、いつの間にか小動物や鳥たちが集まっていた。
ルゥは近くの草の上でそれを眺めながらおとなしく丸まり、尻尾だけぱたぱた動かしている。
「あなたたちも、安心できる場所がほしいんだよね……」
私はそう呟いて、ルゥの背を撫でた。
この子と出会ってから、何かが少しずつ、でも確実に変わってきてる。
生き物たちの声が、前よりもずっとはっきり届くようになっていた。
「この辺は昔から色んな生き物が住んでるけど、リイナさんが来てからもっと増えた気がするなぁ」
レミィが楽しげに言うと、周りの動物たちも嬉しそうにさえずり始める。警戒心の強いリスがレミィの肩に駆け上がり、私の足元では子ウサギが草を食んでいた。
そう。朝には小鳥たちが勝手に小屋の屋根に集まり、ヤギは私の服の端を食べながらついてくる。迷い込んだ子ウサギまで、小屋の隅っこに棲みついてしまった。
もちろん農園には猫もたくさん棲みついていた。その多くは自由気ままに過ごしていたけれど、数匹は私の家に頻繁に出入りしている。
「リイナさんのそばにいると、なーんだかホッとして安心するんだー。私も少しだけ休もっと」
レミィは私の隣に腰を下ろすと、一緒にルゥを撫で始めた。ルゥはぐるるぅと喉を鳴らしながら、されるがまま。
「リイナ、お前さんは動物にも子どもにも好かれるんじゃなぁ」
ラトじいがやってきて、私たちを見ながら笑いながら言った。
「……まるで、農園の母親だな、お前さん」
ラトじいのその言葉に、私はちょっとだけ照れてしまった。
⸻
日が暮れる前に農具を片付けようと腰を上げると、レミィと入れ替わるようにしてやってきた人影があった。
「リイナさん、少しいいですか?」
分厚い本を片手にやってきたのは、謎の旅人カランだ。
私のこの世界の記憶を辿ると、カランはいつからかこの農園の片隅の物置小屋に居座るようになったのだけど、どこから来て何の目的でここにいるのかはさっぱり分からない。
「あなたの、その手の紋のことなんですけど。お伝えした方がいいかと思って」
「これ、ですか?」
右手をカランに差し出すと、彼は神妙な顔で頷いた。
「それは……この子が、あなたに“絆印”を刻んだ証だと思われます」
私はカランの言葉を聞きながら、ルゥを膝に乗せて、小さな翼を優しく撫でていた。カランさんは隣の丸太に腰を下ろし、手に持った手帳のページをぱらぱらとめくっている。
「けい……いん?」
聞き返すと、彼は微笑みながら眼鏡を持ち上げた。何とも言えない、穏やかだけど深い瞳。
「“絆印”とは、古い竜の伝承に残る概念です。ドラゴンが自らの魂と、外の存在を結びつけるときに現れる、魔紋の一種。あなたの手の甲……今も少し、光っていますよね?」
私は反射的に手を見た。手の甲には、薄く輝く紋様――竜の尾が花輪をくぐるような、どこか神聖で優美な形が浮かんでいる。
「この子があなたを“親”と認識した証。そしてそれは……ごく稀にしか起こりません」
「……そう、なんですか?……」
ルゥは、私の手の上でくぅ、と小さく鳴いた。尻尾を軽く振りながら、いつのまにか背中のうろこが、すこーしだけ硬くなってきている。体温も、最初に会ったときより安定している気がする。
「この子、少しずつだけど、大きくなってますよね」
私がぽつりと呟くと、カランさんは軽く頷いた。
「はい。おそらく、成長が始まっています。しかも……自然の摂理ではなく、あなたとの“共鳴”によって、です」
その言葉に、私は思わずルゥをぎゅっと抱きしめてしまった。
「リイナさん、あなたの手に宿る力は単なる癒しではありません」
カランは手帳に書きものをしながら言葉を続ける。
「この世界には“癒し手”は確かに存在しますが、生き物の心にここまで強く共鳴し、種を超えて絆を結ぶ者は、現在では確認されていないんです」
「……わたしは、ただ、助けたかっただけです」
「ええ。それが“鍵”なんですよ。竜たちは理屈では動きません。彼らの中には“想い”を通して進化し、変化する存在がいるのです」
彼は最後に、こう付け加えた。
「あなたとルゥは、この国の“竜の体系”すら、変えてしまうかもしれない」




