35. 守る決意
王妃の使者が去ったあと、再生の谷にはなんとも言えない緊張が残されていた。
空に漂う竜の跡ーー白銀の軌跡がまだ消えないうちに、皆が広場へと集まってくる。
クレイスが真剣な表情で口を開いた。
「……王妃の召集は、避けられぬものだ。リイナとルゥを、俺が護りながら王都へ向かうのが一番良いだろう」
その言葉に、ヴァルトが腕を組み、苛立ちを隠さない声音で応じた。
「ふん、都合よく戦力を割かれる形になるわけだ。誰の意志か知らんが、わざとそう仕向けられたな」
だけど彼は深く息をつくと、目を逸らすようにして続ける。
「……だからこそ、ここは俺が守る。イグナートと共に、谷に指一本触れさせやしねぇ。誰にもだ」
イグナート――紅蓮の竜が低く喉を鳴らす。
その炎を纏った瞳には、まるで「任せろ」とでも言いたげな光が宿っていた。
「ヴァルト……」
私が口を開くと、彼は大きな手で頭を掻き、ぶっきらぼうに笑った。
「お前さんは余計な心配すんな。お前はお前のやることをやれ。俺は俺の役目を果たす」
そこへレミィが一歩前に出てくる。
お下げの編み込みを風に揺らしながら小柄な体を凛と伸ばし、私に向き直って笑顔を見せた。
「私も谷に残ります。何かのときのために治癒の術を施せる人が必要だし、それに小さな魔獣たちのお世話もありますしね」
レミィの澄んだ瞳はまっすぐで、確固とした意志がそこにあった。
「……リイナさんと一緒に築いた“再生の谷”を、私も守りたい。ここはもう、ただの砦じゃありませんから」
その言葉に胸が温かくなる。
――そう。ここは、みんなで育んだ居場所。そしてこれからもそれは変わらない。
その時、グリムが壁際の影からふっと姿を現した。
長い漆黒の毛並みがゆらぎ、瞳は夜のように深い。
「俺も残るが、遠く離れていても影はつながっている。主が望めば、すぐにでも駆けつけられる」
低く響く声には、不思議な安心感があった。
「お前が心配するほど、俺たちは無力じゃない」
グリムがそう力強く言ったあと、今度はネラが私の足元に甘えるようにすり寄ってくる。
小さな星紋の浮かぶ毛並みが、淡い光を放っていた。
「にゃあ……」
言葉を持たないその鳴き声。でも、ネラの気持ちは心に直接伝わってくる。
――「ここは、まかせて」
「……ありがとう、ネラ」
私は思わず抱き上げ、頬を寄せた。この温もりを危険に晒したくなんてない。
その時、風の流れが不意に変わった。
「早いな。王都から派遣された守備隊か。伝令よりも早く出立したのだな。でなければこんなにタイミングよく現れないだろう」
守備隊の到着にすぐ気づいたのは、クレイスだった。
風に乗って微かな鎧のぶつかる音が聞こえてきて、私たちは顔を上げる。
王都から派遣された兵が列を整え、谷の周囲を見張るように高みからこちらを見下ろしていた。
彼らの先頭には、王国の紋章の描かれた旗が揺れている。
数は少ないが、規律正しく、頼もしさを感じさせた。
「こうして戦力が増えるのは心強いが……」
クレイスが小声で漏らす。
「決して油断はできん。谷を狙う者は必ずいる」
彼の言葉に、皆の顔が引き締まる。
その空気を少し和ませるように、ノアがひょいと手を挙げた。
「じゃ、僕も王都組ってわけだね! ふふ、心強いでしょ?」
にこやかに笑うノアに、ヴァルトが呆れ声を投げる。
「そういえばお前もいたっけな。すっかり忘れてた。そんで、ノア、お前は役に立つのか?」
「ひどいなぁ、僕の魔力を忘れた? 可愛いルゥのお世話もするしね!」
そう言ってルゥの頭をなでると、ルゥは目を細めて喉を鳴らした。
――だいじょうぶ。僕、行くよ。
心に響く幼い声に、私はぎゅっと抱きしめる。
「ルゥ……ありがとう」
小さな竜の鱗は、陽に照らされて赤と金にきらめく。
普段は小さな姿で寄り添ってくれるけれど、その奥には計り知れない力が眠っている。
それを知るだけに、不安と誇らしさがないまぜになった。私はまだ、ルゥの力の全てを知るわけじゃない。竜のことも、まだ勉強途中だし……。
皆の視線が、自然と私へと集まる。
ここにいる仲間は、誰もが命を懸ける覚悟をしている。
その思いの重さに、喉が詰まりそうになる。
けれど私は深く息を吸い、言葉を紡いだ。
「……みんな、本当にありがとう。私、ルゥと一緒に王都へ行ってきます。でも……必ず戻る。必ず、またここで笑い合いたいから」
「その言葉、忘れるなよ」
ヴァルトが拳を突き出す。
私は戸惑いながらも拳を合わせた。硬くて温かい感触が伝わる。
「谷は俺たちが守る。だから安心して行け」
ヴァルトの声は不器用で、でも真っ直ぐだった。
レミィはそこに静かに手を重ねる。
「気をつけてくださいね。リイナさんが無事であることが、私たちの支えなんですから!」
グリムは影に溶けかけながらも、ひとことつぶやきを落とした。
「ーー心はつながっている。忘れるな」
ネラは短く鳴き、私の足元を軽く叩いた。
……みんなが背を押してくれる。
その想いを胸に刻み、私は力強く頷いた。
「行こう、クレイス、ノア。そしてルゥ」
私が王都組を振り返った時、クレイスが静かにセリオンのもとへ歩み寄っていくのが目に入った。
鋼の鎧をまとった白銀の竜は、己の主人の気配を察して目を細める。
「セリオン……」
クレイスが低く呟き、首元の硬い鱗に手を当てた。
「俺は王都に行く。この谷はお前に任せるぞ。仲間を、そして……ここで芽吹き始めた命を守ってくれ」
セリオンはクレイスの言葉を理解し、低く喉を鳴らすと、頭をクレイスの肩へ寄せた。
鎧と鱗が擦れ合い、硬質な音が響く。けれどその仕草は、どこまでも優しく、信頼に満ちていた。
「……もう、ただの軍用竜じゃ、ないんだね」
思わず私の口から漏れた言葉に、クレイスはかすかに微笑んだ。
「当たり前だ。こいつは俺の相棒だ」
そのやり取りを見ていたヴァルトが鼻を鳴らした。
「ま、うちのイグナートだって負けちゃいねぇけどな!」
炎を纏った竜が翼を広げ、谷に力強い風を送り込む。
私はその風を受けながら、心の奥にしみ込む温かさを噛みしめた。
――大丈夫。この谷は、仲間と竜たちが必ず守ってくれる。
「リイナ!」
小さな声が胸元から響く。ルゥが大きな瞳をきらきらさせて、周囲を見回していた。
――皆の心はひとつ。だからきっと大丈夫。
ルゥの少し大人びた心の声に、私は胸を打たれた。いつのまにか少しずつ、ルゥは進化と共に成長しているんだ。
そんな私たちを少し離れた場所から見ていたノアがくるりとマントを翻すと荷物を抱えてみせる。
「さあ、行こうか。王都の空気はちょっと窮屈だけどね」
その調子のよさに、不思議と緊張が和らぐ。不安や心配はあるけど、ノアの底抜けの明るさが時折私たちを救うのは確かだった。
私はもう一度仲間たちを見回した。
ヴァルトの逞しさ。レミィの柔らかな強さ。グリムの影に溶けるような静かな気配。ネラの星紋が淡く光り、私たちを見送っている。
「――谷は俺たちに任せろ!」
もう一度確かめるように、ヴァルトが声を張り上げる。
それに呼応するように、谷の守備兵たちも武器を掲げた。
セリオンとイグナートが並び立ち、風を切って羽ばたく。
その姿に見送られながら、私たちは王都へ向かう道へと歩み出した。
蹄の音が石を打ち、道が続いていく。
振り返れば、谷の仲間たちが手を振っていた。
その姿が遠ざかるたびに、不安も募っていく。
けれど――その何倍も強い信頼が、胸に灯っていた。
(必ず戻ってくる。この谷を、守り抜くために)
胸の奥で誓いを新たにしながら、私は手綱を強く握った。




