23. 痕跡を追って
牢屋を出たあとも、あの強い視線が焼き付いて離れなかった。
ヴァルトは確かにルゥを攫った。でもまだ何かが隠されてる気がする。あれは——もっと別のものを抱えている人間の目。なぜか分からないけど、そう確信できた。
……あの人は本当の犯人じゃない。他にヴァルトをそそのかした人がいる。
「ルゥはまだ生きてる」
彼がなぜ私にそれを伝えたのか、わからなかったけど。言うつもりはなかったのに、不意に出てしまったというようなヴァルトの言葉には、彼の心の奥底にある迷いが現れていた。
ヴァルトは……保護猫のなかでも関わるのに1番苦労した古株の虎丸に似てる。成猫になるまで満身創痍で生き抜いてきて、はじめは人間の手に全く慣れなかったあの子。自分の強い信念みたいなのがあって、大切な兄弟がいたのに、自分だけが生き残ってしまったことをずっと悔やんでいるような、そんな悲しい子だった。
子供の頃、性善説とか性悪説とか勉強したことあるけど、私は最初から悪なんてこと、ないと思う。
悪は“染まるもの”だと思うんだ。甘いかもしれないけど……。
* * *
屋敷に戻り、部屋の扉を閉めると同時に、私はルゥの名を呼んだ。
「ルゥ、聞こえる? 私だよ」
意識を集中させ、胸の奥であの日の温かい光が灯るのを待つ。
静寂の中で、呼吸が速くなっていくのを感じた。
ペンダントの奥に潜む淡い脈動が、私の鼓動と重なって響いてる。何度もあの子と繋がってきた感覚を思い出しながら、心を澄ませて呼びかけた。
「ルゥ、ねぇ、無事なの?」
けれど返ってくるのは、重たい沈黙だけ。
まるで分厚い布で塞がれたように、気配すら掴めなかった。
「……どうして」
声は自然と震え、無意識にペンダントを強く握り締める。そこから小さな熱が掌に広がるのに、あの子のぬくもりには届かない。
焦りで胸が締め付けられた、その瞬間。
ペンダントが淡く光ったかと思うと——黒い靄のような影が、すっと表面を走ったのが確かに見えた。
「……っ!」
息を呑む。まるで何者かが、意図的に繋がりを断っているかのように感じた。
「やっぱり試してたんですね」
背後から声がして振り返ると、カランが近づいてくるところだった。気配に全く気づかないほどに、私は集中していたみたい。
彼は珍しく表情を険しくしていた。
「強い“遮断”の術が働いているようだ。……おそらくは王都にいる誰か……相当な魔力を持つ者の仕業だろうな」
私は唇を噛む。
「ルゥは……無事だよね?」
「生きている…とは思います。ペンダントがそれを微かに示している」
カランは淡々と告げた。だがその声には、僅かな苦みが混じっていた。
私は胸にペンダントを抱きしめ、深く息を吐く。
たとえ無事だったとしても、空白の不安は埋まらない。
「……必ず見つける。何があっても」
カランの瞳が一瞬だけ柔らかく揺れた。
「そうですね。るぅたんが一人で泣いているかと思うと、居ても立っても居られない。僕も力を尽くしますよ。君が諦めない限り」
その一言に、不思議と胸の奥の焦りが少しだけ和らいだ。
——ルゥ、待ってて。必ず迎えに行くから。
カランは机の上に置かれた古びた地図を広げ、視線を落としたまま言った。
「……ペンダントの反応からして、るぅたんは王都の外に連れ出された可能性が高いでしょうね」
私は椅子の背に手をかけ、ぐっと身を乗り出す。
「なら、すぐに追わなきゃ」
カランは首を横に振った。
「焦らないで。表向きはヴァルトが犯人とされ、騎士団の目も厳しい今、君が動けば、ますます疑われるだけです」
「でも……!」
思わず声が上ずる。胸の奥の不安が、怒りと焦りを伴って膨れ上がり、溢れ出す。
カランは、そんな私をじっと見て、小さくため息をついた。
「君が一人で突っ走るのは目に見えている。……だからこそ、クレイスを連れて動くべきでしょう」
「クレイス副団長を……?」
「彼は表には出していないですが、すでに君の側に立つ覚悟を固めていますよ。夜明け前に出れば、騎士団の目もすり抜けられるはずです」
私は唇を噛んだ。
「じゃあ、カランは……?」
「僕は残ります」
迷いなく告げられた答えに、思わず言葉を失った。
「……残って、どうするの?」
「王都の中にいる“遮断の術”の使い手を突き止めるつもりです。あれほど強力な魔力を操れる者は限られている。……必ず手がかりを掴んでみせますよ」
カランの瞳は冷たい理性の光を宿しながら、それでも私を射抜くように真っ直ぐだった。
「君は外を追ってください。僕は内を探る。——二つの道から迫れば、必ず辿り着けます」
私は胸が熱くなるのを感じた。
こんな状況なのに、不思議と心が落ち着く。
「……ありがとう、カラン。あなたが残ってくれるなら……私も、前に進める」
彼の表情がほんの少し緩んだ。
「感謝は不要です。……君が竜を想う心は、誰よりも強い。それは他ならない大きな希望だということを忘れないで」
その言葉に、思わず胸が詰まりそうになった。
——私は諦めない。必ずルゥを取り戻す。
* * *
まだ夜は深く、王都の空は薄墨のように重たかった。
窓を少し開けると、ひんやりとした風が頬を撫でる。吐いた息が白く揺れて、胸の奥がざわめいた。
部屋の隅に置いた小さな荷袋には、必要最低限の物しか入っていない。ルゥのために、余計なものを持っていく余裕はなかった。
——本当に、これでいいのかな。
不安で何度も胸が詰まる。けれど同時に、もう引き返せないと私は決意していた。
「……行くんだな」
振り返ると、いつの間にか扉の影にクレイスが立っていた。鎧ではなく黒い外套をまとい、いつもよりも軽装だったが、普段の凛々しい姿のまま私に近づいてくる。
「はい」
私は小さくうなずいた。声が震えないように、喉の奥で言葉を押さえ込む。
クレイスが私の前に立ち、静かに問いかけてきた。
「王都に残る方が安全だが、本当に行くのか?」
「……ルゥが一人で苦しんでいるのに、私が行かない理由がありますか? ……行かなきゃ。ルゥは、きっと私を待ってるから」
自分でも驚くくらい強い声が出た。クレイスはわずかに目を細め、「そうか」と低く呟く。
少しの沈黙ののち、彼は小さく息をつくと外套の端を翻した。
「ならば俺が連れていく。……ただし無茶はするなよ」
その心強い言葉に、胸の奥がふっと軽くなった。
「はい……ありがとう、クレイス」
私たちは扉を静かに閉め、足早に廊下を抜けると裏門へと向かう。
見張りの交代の隙を突いて、二人で足音を殺して進む。
夜明け前の街はまだ眠りに沈んでいる。
石畳に靴音が響くたび、心臓まで跳ねるようだった。
やがて城壁の外へ出ると、東の空がかすかに白み始めていた。
新しい一日の始まり。けれど私にとっては、ルゥを取り戻すための戦いの始まりだった。
クレイスが馬の手綱を引き、私に手を差し伸べる。
その掌を握った瞬間、迷いはすべて吹き飛んだ。
「行こう、ルゥのもとへ」
私はうなずき、クレイスと共に王都を後にした。




