2. 未知との遭遇
ルゥの手当てを終えてから、私は改めてこの世界のことを考えることにした。
さっき、ふっと頭の中に浮かんできた“この世界”の記憶。その時、まるで生まれた時からここで育ってきたかのような情報が、目まぐるしく私の中に流れ込んできたんだ。
この大陸には四つの大国がある。私が今いるのは「フェンリル王国」。大陸の中心あたりに位置し、 肥沃な大地と穏やかな気候が特徴で、「軍用ドラゴン保有国」として知られる。
その東に位置するのが「ガルダス帝国」。火山地帯と鉱山資源が豊富な軍事大国で、鉄と魔鉱を元にした武装国家でもある。
大陸の北西部にあるのは「ルネシア聖国」。雪と氷に覆われた魔法国家で、「聖竜の巫女」による神託政治が行われている、魔法と信仰の国。
そして大陸の南には「イゼラ遊牧連合国」がある。砂漠地帯で、定住しない遊牧民が大型魔獣を懐柔しながら不毛の大地を生きる連合国家だ。
ここは私が生きてきた世界とはまるで違う。想像上の生き物が野生に生息し、剣と魔法、人間以外の様々な種族が生きるファンタジーのような世界…。
私は止めどなく浮かんでくる情報をなんとか頭の中で整理していたけれど、突然空腹を感じてお腹を押さえる。ぐうぅぅ〜〜という気の抜けた音が、思ったより大きな音で響いてびっくり。
「くうぅぅ〜〜〜?」
ルゥが私の足元で私のお腹の音を真似たように鳴くので、私は苦笑い。
「考えるのはやめやめ! 何か食べよ」
私はもう一度バッグの中をガサゴソと漁り、街で買ってきたパンと保存用の干し肉、ミックスナッツのようなものを取り出した。
近くの木の根元に腰を下ろすと、ルゥが「みぃーー」と鳴きながら私の膝の上にやってきて丸まる。
「ルゥ可愛すぎるでしょ!」
クリクリした目が私を見上げてきて、たまらない気持ちになる。これからどうやって生きていこうか不安な気持ちがほんの少し軽くなる。
昔から、生き物が与えてくれる癒しは育てる大変さを凌駕するほどの幸せがあった。そう、私は今、ルゥを守るっていう使命がある。まずはそれが第一!
「ルゥも一緒に食べよう。干し肉食べれるかな?」
よく見るとルゥの口に生えた牙は、赤ちゃんとは思えないほどすでにかなり立派だった。干し肉を小さく千切って与えてみると、ルゥは夢中でそれを頬張る。
「そりゃ、肉食だよね。ドラゴンなんだもん」
「うみゅ、うみゅ、むぐむぐ…」
ルゥが食べるのを見ながら、私も干し肉をつまむ。焼き立てを買ったパンは、紙袋の中で少し汗をかいていたけれど、端っこを食べてみるとそのふわふわさと甘さに感動!
水袋の水を簡易皿に移しルゥの前に置いてから、私も喉を潤すと、ようやくお腹は落ち着いた。
「食べると今度は眠くなるんだよなぁ。でもこんな森の中で寝ちゃダメだよね…って! ルゥ寝てる!」
私の膝の上で、規則正しい寝息を立てるルゥは、完全に安心し切ってる。こんなに無防備でいいのかと不安になるくらい、ルゥは私に心を許していた。
それはたぶん、この紋のせいもある。私が名付けた時に浮かんだ私たちの絆の証。私の精神や体調の安定が、ルゥにも繋がっているように感じた。
あたたかな食後の余韻が胃に残っていたけど、ここに長居するわけにはいかない。私のこの世界での記憶が合っていれば、夜の森には魔獣が出る。早めに移動して、旅人の使う街道に出なければ。
私は空になった器を片づけながら、ルゥを見下ろした。すやすやと眠る小さな竜。赤い鱗がかすかに光を反射している。猫とは違いふわふわしているわけではないけれど、鱗はとても滑らかな手触りだった。
ルゥはくしゃみをひとつして、また小さく身体を丸めた。私は、そんなルゥを起こさないようにそっと布にくるんで抱き上げる。うちのカフェにいた1番大きな猫の虎丸と同じくらいの重さ。私の腕の中にあるこの命が、何よりもずっしりと大切に思えた。
「……南のほう。たしか、この森を抜けるには…」
記憶をたぐり寄せながら、私はポケットから1枚の羊皮紙の地図を取り出した。かつて暮らしていた農園の端にある、小さな木造の小屋。そこが、今の私の“帰る場所”だったはずだ。
地図と地形を照らし合わせ、なんとか方向を定める。こういう時に、伊達に歳とってないなぁと思う。どこか客観的に自分を見ているというか。こういう時は目の前のできることをひとつずつやると、案外道が開けるものだって、これまでの38年で経験してきたから。
木々の間から差し込む斜陽が、少しずつ角度を変えていた。もうすぐ夕暮れ。夜になる前に、あの場所へたどり着かなくては。
ルゥを抱き直し、私は歩き出す。
——と、そのときだった。
ひゅう、と風の音が変わった。葉擦れのざわめきのなかに、違和感が混じる。空気が、ぴり、と張り詰めていた。
私は思わず立ち止まり、耳を澄ます。
(……いる)
言葉では説明できない。けれど私は昔から、なぜかわかってしまうのだ。どこかで誰かが、こちらを見ている。あるいは、こちらに何かが意識を向けている、その気配が。
木々の向こう、視線の先の深い茂み——。
そこに潜む“何か嫌な気配”が、肌を刺すようにして、私に“危険”を知らせた。
(まずい……)
私は、ルゥを抱えたまま足音を殺し、そっと木陰に身を潜めた。
すう、と息を詰める。鼓動が速くなるのを、自分でも感じた。ルゥの温もりだけが、心のよりどころだった。怖がらせないように、そっと布の端をルゥの頭にかぶせる。
そのとき——。
低く唸るような気配とともに、草を踏みしめる足音が近づいてきた。姿を現したのは、狼よりもさらに大きな姿をした魔獣。小型種とはいえ、鋭い牙と黄色い眼光を持つ、れっきとした危険種のひとつ。
私は、葉の影から息を殺して見守った。
——行って、お願い。こっちに気づかないで……
魔獣は鼻をくんくんと鳴らし、あたりの匂いを探っているようだった。すぐそこにいる私の存在を、まるで試すように。
喉の奥がひりついた。何もできない。逃げることも、戦うことも——でも、私はこの子を守らなきゃ。
そう強く願った時、私の左手に浮かぶ紋様がふわりと光って、私とルゥの体が何か薄い布に包まれるような感覚がした。
獣が近づくほどに、鼓動が大きくなる。けれど、その恐怖の裏で、もう一つの感覚が覚醒していた。
──目を閉じれば、見える。
私の中で、幼い頃から時おり発現していた“感覚”が、自然と息を吹き返した。目に映る景色とは異なる、もうひとつの世界──生き物たちの「意識の気配」が、夜の森に淡く浮かび上がる。まるでその場所を私に知らせるように。
狼型の魔獣の輪郭が、灰色の霧のような意識として視える。獣は今、不安と飢えのまじった気配を漂わせていた。目の前の匂いに警戒しつつも、まだ私たちを獲物とは判断していない。
私はゆっくりと呼吸を整えると、気配を押し殺すように、自身の“存在”を内へ、内へと沈めていく。風の葉音に溶けこむように──。
やがて、魔獣は一歩、また一歩と遠ざかり、ついには森の奥へと消えていった。
「……はぁ……っ……」
気配が完全に消えるのを確認してから、ようやく肩の力を抜いた。ルゥはいつの間にか目覚めていて、不安そうな瞳でも私を見上げてくる。
「……大丈夫よ。もう行ったみたい」
そう言って頭を撫でると、ルゥは小さく「クゥ」と鳴いて、再び胸元に顔をうずめた。
森の奥には、まだいくつもの気配がある。けれど、先ほどのように積極的に近づいてくるものは、今のところいないようだった。
(あの子がいた場所も、こんな風に魔獣が徘徊していたのかしら……)
考えれば考えるほど、ルゥがあの状態で生きていたのが奇跡に思える。
「……そういえば……この紋、見覚えが……?」
またひとつ、記憶が蘇る。それは私の手に浮かぶ紋様のこと。
いつか、王国の古書の一節──住んでいた農園で働くおばさんが見せてくれた本の挿絵に、同じような紋があった気がする。
(たしか、“王家に仕えし聖竜”とか書いてあったような……?)
伝説の竜。王家と心を交わした守護竜の紋。だが、そんなものはとっくに途絶えたとされ、今は誰も語ることすらない。
──けれど、いま、私の腕の中にはたしかに、その紋様に似た印を宿した赤ちゃん竜がいて、私の手にもまた、同じ紋様があった。
(……この子、何者なの?)
疑問は深まるばかり。でも、今はとにかく、この子を保護して育てることが先決だ。
私は再び歩き出した。家へ戻る道のりはもうひとりではない。
足元には折れた枝、踏み荒らされた草のあと。でもその先には懐かしい風景も待っているはずだった。
「……これからは、もっと慎重に動こう。この子のためにも」
私は、自分自身に言い聞かせるようにそう呟いた。
この子と一緒なら——今までとは、きっとすべてが違う。
守るものがあるということが、こんなにも強く、怖いものなのだと、私は初めて知った。