17. 王妃の真意
訓練場で再び起きた波乱の後、疲れ果てて屋敷に戻った私を、王妃付きの侍女が訪ねてきた。
「セレスティア様がお呼びです。ルゥ様と共に密かに王宮へと来るようにと」
その言伝を聞いた時、胸元のペンダントがまた小さく脈を打った。
――ああ、やっぱり。
このペンダントを預かったとき思った。
ルゥも、そして私も。何か、とても大きなことの渦中にいる。
セレスティア様は、それを知っていて……きっと、このペンダントを託したんだ。
「わかりました」
私はそう返事をするだけで、精一杯だった。
⸻
夕陽が落ち、星のわずかな光が差し込む回廊を、侍女に導かれて歩いていく。籠の中ですっかり安心して寝入っているルゥを守るように抱きしめながら、私は王宮を訪れていた。
人の気配が極端に少ないのは、意図的なのだろう。
――まるで、王城が眠っている間にだけ開く秘密の道みたい。
案内されたのは、小さな応接室だった。
そこに、淡い青のドレスを纏ったセレスティア様がひとり、窓辺に立っていた。
「来てくれてありがとう、リイナ」
その声はいつもと変わらず柔らかいのに、不思議と逃げ場のない気配をまとっている。
勧められた椅子に腰を下ろすと、王妃様はまっすぐに私を見つめた。
白磁のティーカップから立ちのぼる香りは、ジャスミンの中に蜂蜜を混ぜ溶かしたように甘い。
けれど、向かいに座る王妃の瞳は、透き通る湖の底に刃を隠しているみたいだった。
「今日の訓練場でのこと、報告を受けました。……暴走竜をおさめたと。その時ペンダントが反応したのでしょう?」
心臓が跳ねる。どうしてそれをもう知っているのだろう。あぁでも、王妃様は感知能力があるとクレイスが言っていたっけ。
答えられずにいる私の沈黙を肯定と受け取り、王妃様は静かに微笑んだ。
「それは“竜と心を結ぶ者”だけが持つ証。王家の古い記録では〈真の契竜者〉と呼ばれています」
言葉が重く胸に落ちた。
「……契竜者。前にも聞いたことがあります」
「軍の竜騎士は、魔力の鎖で竜を縛り従わせます。でもそれは不完全な関係。契竜者は、竜と魂を響かせ、互いに自由を保ったまま力を交わす」
セレスティア様の瞳は、柔らかい色をたたえながらも、芯の強さが伝わってきた。
「リイナ、あなたにはそれができる。……だからこそ、この国はあなたを必要としている」
その言葉はとてもまっすぐ、私に向かう。
ペンダントがまた脈打った。――心臓と同じリズムで。
「……もしそれが本当なら」私は言った。
「私はどうすればいいんですか」
セレスティア様は少しだけ微笑を深めた。
「それを探す旅は、もう始まっています。王都での日々は、その第一歩なのです」
王妃が視線を落とし、籠の中で身じろぎするルゥを見つめながら言葉を続ける。
「隣国——ガルダルス帝国をご存じ?」
「少しだけ」
「フェンリルの東、火山と鉱山の国。鉄と魔鉱を武装に変え、魔装兵を量産する……我が国とは違う形態を持った軍事国家です」
王妃の声色は柔らかかったけれど、言葉は冷たく鋭い刃を持ち合わせていた。
「彼らは竜を“滅ぼすべき神獣”と呼び、徹底排除を宣言しています。……フェンリルのように竜を扱う国は、彼らにとって敵以外の何ものでもありません」
「今は停戦中……のはずですよね?」
「ええ、表向きは」
唇に浮かぶ笑みは、まるで薄い絹越しに棘を隠しているようだった。
「ですが実際には、スパイも小競り合いも絶えません。——だからこそ、稀少な竜は狙われやすい」
ルゥがその言葉に反応したのか、寝ぼけ眼でこちらを見た。
私は思わずその頭を撫でる。
「……この子を守るためなら、私は——」
「ええ、あなたの気持ちは理解していますよ、リイナ」
王妃様の指先が、ルゥの額にそっと触れる。ルゥは殆ど眠りながら、尾をぴくりと動かした。
穏やかに眠るルゥを見つめた後、王妃様はそばで控えていた一人の召使を呼んだ。
「あの箱をここに」
召使いは優雅に会釈すると、応接室の奥から見るからに高級そうな箱を持ってきて、私たちの円卓の上にそれを置く。
「セレスティア王妃陛下より、贈り物でございます」
「……え?」
私が驚きで息を呑むと、ティーカップを置いた王妃様は静かに微笑んで、その箱を開けた。
「リイナ。あなたと、その小さな竜——ルゥには特別な絆がある」
そう言って、王妃は掌の上に小さな護符をのせて差し出す。
銀色の枠に淡い蒼石が埋め込まれ、繊細な紋様が表面を飾っている。どこかで見覚えがある……そう、セレスティア様から預かったこの胸のペンダントに似ていた。
「これは《契鎖の護符》。心を許した存在と精神と魔力をつなぐ道具です。あなたがその竜と真に共に歩むのなら、やがて《共鳴鎖》が芽生えるでしょう」
「……レゾナ、リンク……?」
「言葉を交わさずとも心を通わせ、相手の痛みを分け合い、ときに力をも分け合う。それは祝福であると同時に、試練でもあります」
護符の石が、まるで呼吸するように微かに明滅した。
王妃はその光に目を細め、続ける。
「竜はただ従えるものではなく、寄り添い、共に歩むもの。……けれど、その絆を繋ぎとめるには、代償も伴うのです」
ルゥの方を見ると、すでに眠りから目覚めていて、無邪気にテーブルの端に前足をかけて菓子を狙っていた。
——この子と心を繋ぐ。命を分け合う。
その意味の重さが胸にずしりと落ちてきて、私は思わず護符を両手で包み込んだ。
「……わかりました。受け取ります」
私の答えに、王妃はふっと微笑む。けれどその目の奥に、言葉にできない影が揺れた気がして、胸がざわめいた。
王妃から渡された護符は、冷たく澄んだ手触りをしていた。胸の奥にひやりと落ちるような感覚に、思わず指がすくむ。何だろう、この不安感。
「この護符、首輪のようになってる」
「ええ、あなたのペンダントと対になるもの。この護符はルゥのためのものです」
王妃の言葉が、やけに静かに響く。
私はそっとルゥを呼び寄せた。
「ルゥ、ちょっといい?」
テーブルから転がり落ちそうになっていた菓子をあきらめ、ルゥが「きゅ?」と首を傾げる。
護符をルゥの首元に回し、開いていた首輪の留め具の凹凸を合わせると、ぱちりと小さな音がして嵌まった。
その瞬間、蒼石が淡く光を放つ。
空気が震え、ルゥの鱗がひときわ赤く輝いた。
「……っ!」
胸が締め付けられるような感覚。
心臓の鼓動と同じリズムで護符が脈打ち、ルゥの瞳が私のものと重なった気がした。
「きゅるぅ……」
ルゥも同じように感じたのか、小さく鳴いて私の手に顔をすり寄せてくる。
普段はやんちゃな子が、甘える子供みたいに寄り添ってきて、胸が熱くなった。
けれど、次の瞬間には、すっと光が消える。あの一瞬の不思議な感覚は何だったのだろう。
何事もなかったかのように、ルゥはまた菓子の皿に鼻先を突っ込もうとしたので、私は「こらこら」と慌てて尻尾を優しく引っ張った。
「……不思議な子ですね」
王妃が微笑む。その笑みに隠された真意を読み取ろうとしたけれど、氷のように整った顔は何も教えてくれない。
護符は確かにルゥの首に収まった。
けれど私の胸には、あの一瞬の共鳴の余韻と、得体の知れないざわめきが残っていた。
⸻
屋敷へ戻ると、ネラが廊下で待っていた。
扉を開けるなり、ルゥが鼻先を私のペンダントに近づけ、小さく「くぅ〜?」と鳴く。首元に収まる護符が少し重たそう。
「……やっぱり、気になるの?」
ルゥは首を傾げ、尻尾をゆっくり揺らした。ネラがその背に飛び乗り、まるで「そうそう」と言わんばかりに喉をゴロゴロさせる。
グリムは暖炉の前で丸まりながら、低く唸り私に気持ちを伝えてきた。
『妙な気配…。あの王妃は、只者ではない……』
ネラが尻尾でグリムの鼻を叩き、「ニャ」と一声。まるで「今は怖がらせるな」とでも言うようで、私は少しだけ肩の緊張を解いた。
そんなやり取りをしていたその時、トントンと扉がノックされた。マロウが扉の外から「リイナ様のお客様です」と言ってきたので、私は誰だろうと首を傾げつつ開く扉に目を向ける。
「やあ、久しぶりだね」
そこに立っていたのは相変わらずのんびりとした風情のカランだった。最後に別れたときの旅装束ではなく、学者風の小綺麗な服を身にまとい、どこか高貴な雰囲気さえ感じる。カランって何者なんだろう。
「王妃から何か受け取ったって聞いたけど……」
挨拶もそこそこに、カランはつかつかと私に歩み寄ってきた。どこから聞きつけたのか、カランの視線が私の首元へと真っ直ぐ向かう。
「……ペンダントのこと?」
私はためらいながらも、昼間の訓練場でのこと、セレスティア様の言葉、そしてペンダントから感じる脈打つ感覚について話をした。
カランは腕を組み、少し険しい表情になる。
「それは古い契竜儀式に関わる道具の可能性がある。王立研究所なら、関連文献が残っているかもしれない」
彼の声色はどこか厳しく、真剣そのものだった。
「明日、案内しよう。それらの正体を知るには、あそこが一番だ」
彼はそう告げ、懐から一枚の通行証を差し出す。
私はそれを受け取りながら、心の奥で小さく息をついた。
――もしこれが、ルゥにも影響を与えているとしたら。知らないままではいられない。
暖炉の火が小さく弾け、ルゥが私の膝に頭を乗せた。
ネラはその横で丸まり、グリムは窓辺から夜空を見つめている。
私はペンダントを握りしめたまま、眠れぬ夜を過ごした。
* * *
翌朝、カランに案内され、私は王立研究所へ向かった。
城の北翼にそびえる石造りの建物は、まるで要塞のように重厚で、外壁には古い竜の紋章が刻まれている。中へ足を踏み入れると、古い紙と薬草の匂いが漂っていた。
「こっちだ」
カランに続き、螺旋階段を降りていく。地下の資料庫はさらに薄暗く、壁一面に古文書が並んでいた。研究員が数名、静かに書き物をしている。
「これだな……」
カランが引き出したのは、ぶ厚い革表紙の一冊。
表紙には金の箔押しで、翼を広げた竜と、その胸に輝く光の宝玉が描かれている。
ページをめくると、淡い絵と古文字が並んでいた。
《契竜者は竜と心を結び、三つの鍵を揃えしとき、光を宿す守り竜へ至る》
カランが声を低くして、記されていた古い文字を読み上げる。
「三つの鍵……?」
私が呟くと、カランは頷いた。
「共鳴する心、竜を導く器……そして“場所”。ーーそれはおこらく深淵の谷だ」
深淵の谷。その名前を聞くと胸の奥がざわめいた。私はなぜか、その場所を知っているような気がした。
「それはどこにあるの……?」
「フェンリル王国の南端。千年以上封鎖され、いまも軍以外は近づくことを禁じられた地だ」
さらに古書を読み進めると、竜が進化するには竜自身の成長だけでなく、契約者の感情の爆発――強い想いが引き金になるとあった。
ページの隅には、小さくこうも記されていた。
《その欠片、胸に宿すは王家の証》
欠片。私は思わず、ペンダントを握りしめた。
小さな脈動が指先を打ち、腕の中のルゥが不安げに小さく鳴く。
「……それは“器”の一部なのかもしれない」
カランの視線がペンダントとルゥの護符に落ちる。
私は無意識に、それをぎゅっと握りしめた。
そんな私を見ていた研究員が「魔力反応だけでも測定しておきませんか」と声をかけてくる。
簡易測定器にペンダントをかざすと、青白い光が瞬き、ルゥの翼膜にも同じ光が走った。
けれど測定器は次の瞬間、軽く火花を散らし、驚くことに沈黙してしまった。……壊れちゃったみたい。
「……やっぱり普通の魔具じゃない」
カランの言葉に、私は小さく頷いた。
三つの鍵、そして光を宿す守り竜。
すべての欠片が揃ったとき、何が起こるのか――それを知るのは、まだ先になりそうだった。