026_はじめての残業
午後も調整を繰り返してレードルは帰宅した。私は仕事が終わらず定時後も四苦八苦している。【パイ生地を生成する魔法】の調整がまだ完了していない。そしてこの件とは別で、学習用に渡された魔法学の問題集を解く必要がある。本当は定時までに終わる内容だったが、レードルの件が遅れて後ろ倒しになったのだ。(ちゃんと研修してくれる点はありがたいが…)
入社して初めての残業だった。とにかく今日中には終わらせなければ…。私は時々ガスタを頼りつつも何とか魔法陣に食らいついていた。
横ではガスタも作業している。この先輩、昨日までは定時で帰っていたのに。ちょっと気まずい、というか単純に苦手だ。私は「何か喋らなければ」という衝動に駆られてガスタに向かって話を振った。出来る限り笑顔のつもりだ。
「やっぱり案件の後半戦に入ると残業も増えるものですか?」
「君の面倒を見ているから作業が後ろ倒しになるんだ」
「ああ、すみません!!」
まさかそんな返事が返ってこようとは。この先輩の場合、冗談か本気かも分からない。というか本気なのかもしれない…。私たちは黙々と作業を続けた。ガスタはお客様がいない分、日中より集中している印象も受ける。
「今日はこの辺にしておくか」
――二時間後、ガスタが唐突に呟いた。私は慌てて自分のタスクを見返す。ダメだ、私はまだテスト項目が残っている。
「お、お疲れ様です」
「君は?」
「まだ今日のタスクが終わってないです」
それを聞くと彼は渋い顔をして見せた。ふざけているのだろうか、それとも本気で怒っているのだろうか。私もどのような顔をすればいいのか分からない。そんな私に対してガスタは呆れたように両手を上げた。
「君は本当に遅いな。残りのタスクを見せてくれ」
突然どうしたのだろうか。一先ず私は残りの作業をガスタに連携した。それを見たガスタは暫く顎に手を置いてブツブツ何かを呟いていたが、少しするとコチラを向いて自身の魔導書を手に取った。
「残りは僕が片付けてやる。その代わりちゃんと見て学べよ?」
「へ?」
突然どういう風の吹き回しだろうか。ガスタは私の操作していた魔法陣の前に立ち、軽快なタッチで魔法陣を弾く。そして次々と値を入力していった。私が間違えて生んでしまったエラーが次々と消えていくのが分かる。
「は、速い…」
それは魔法陣の制作というよりはピアニストの演奏みたいだった。一つの流れがあり、ガスタの視線が迷うこともない。すでに彼の脳内ではこの魔法陣の完成形が構築されているのだろう。私が一時間かかる作業を一瞬で終わらせてしまった。あまりの速さに思わず息を呑む。
私もアキニレや他社員の開発を見たことはあった。しかしここまで無駄のない作業は見たことがない。彼は最後に魔法陣を再起動してエラーが出ないことをチェック。そして明日のスケジュールを簡単に確認すると魔導書に「退勤」を記録した。ガスタは自身のバッグに魔導書をしまい込むとさっさと立ち上がる。
「ほら帰るぞ」
「は、はい…」
私は彼の後ろ姿を視界に入れたまま階段を降りた。彼の背中はいつもよりずっと大きく見える。ここにも確かに職人がいた。ガスタは厳しい上に粘着質で口も悪い。自分より上の先輩にも図々しいし、遠慮を知らない。それでも彼は凄い技術を持っている。私は普段、職人と呼ばれる人たちを無条件に尊敬しているのだ。この男も尊敬しなければ筋が通らない。
――ガスタは凄い奴だ。
技術という点においては今、私が目指すべきは彼なのかもしれない。私ももっと頑張らないと…。翌日以降も私達は魔法陣の調整作業を繰り返した。
リンの日記_四月十一日(金)
調整作業開始から四日が経った。ついに【パイ生地を生成する魔法】が完成。後はこの魔法陣をスイーツ店――アップルジャムにリリースするだけだ。肝心のゴーレムは既に別企業が製造し、アップルジャムに納品済みらしい。
私とガスタは来週アップルジャムを訪れ、そのゴーレムにこの魔法陣を登録する。そうすれば対象のゴーレムは【パイ生地を生成する魔法】が使えるようになるわけだ。そこまで実施して今回の案件は終了である。スケジュール的にはあっという間だったが、随分長く感じる一週間だった。
来週は忙しくなるかもだし、今日は早めに退勤しよう。そう思って帰ろうとした時、先輩社員――アキニレに止められた。彼はいつになく不安そうな顔をしている。
「リン、来週のリリース作業は延期かもしれない」
「え!?」
せっかくこんなに頑張ったのに! 私は驚きの声を上げる。が、ガスタは冷静なままアキニレの次の言葉を待っていた。アキニレはゴクリと唾を呑み込むと恐る恐る口を開く。こんな彼を見るのは初めてだ。ダンジョンの中でさえもっと余裕があった。何かそれ以上のトラブルに見舞われたというのだろうか。
「花粉症の権化――花粉怪鳥ヘルフィーブが出現した」
――花粉怪鳥…ヘルフィーブ!?