145_アセロラと紫陽花の日
リンの日記_五月二十六日(月)
今日は会社…ではなく休日である。実はワークツリーには振替休日なる制度がある。休日に働いた場合、平日にお休みを貰えるのだ。だから今日、私とアセロラはお休みだった! なんだか普通の休日以上にワクワクしている自分がいる。皆がせっせと働いている中、二度寝を決め込む解放感。これは何物にも代えがたい。ところがベッドでゴロゴロしていると、ドアがノックされる音がした。こんな朝から誰だろう。
ドアを開けるとそこにはアセロラが立っていた。化粧までして完全に外出モードだ。
「どっか行くの?」
「紫陽花の日も近いし、両親が家に顔を出せってうるさくて…。まあここから十五分くらいの距離だけどね?」
紫陽花の日とはトランの慣習の一つ。五月の第一土曜日に母へ贈り物をして、六月の第一土曜日に父へ贈り物をする。だが今、そんなことはいい。私は近くに実家がある境遇が羨ましかった。まあ、そもそも私がアセロラだったら一人暮らしなんかしない。思わず「いいなあ、実家」と小さな嫉妬が漏れる。その一言を彼女は見逃さなかった。
「じゃあ、リンも来てよ!」
何故そうなる。私が羨ましがったのは〝自分の実家〟が近所にある環境である。むしろ友達の実家じゃ気まずいわ!
「ムリムリ、私が人見知りって知っているでしょ?」
しかしアセロラは引き下がらない。彼女は私の手を強く握って抵抗した。こんなにグズった彼女を見るのは初めてだ。まさか両親との仲がイマイチだったりするのかな。
「だとしても来てよー! 私一人じゃパパもママもうるさいんだよ。『寮生活は止めて、実家から通え』とか言ってくるし」
「え、そうなの…?」
万が一アセロラが寮生活を辞めたら…寮内で私の顔見知りは、鬼上司のミラーくらいになる。それは駄目だ。私もついていって彼女の手助けをすべきかもしれん。私は自分が介入した場合のアセロラファミリーを想像してみた。
私は緊張でろくに喋ることが出来ないだろう。で、支離滅裂なことを喋って、アセロラの両親をドン引かせてしまう。うーん、私が入ると益々問題が拗れそうだ。すまんアセロラ、やっぱり無理じゃ。
「せっかくの休日、やっぱ家族水入らずで過ごすべきだよ」
アセロラはブツブツ言っていたが、私はキッパリと断りを入れた。ところが――
二時間後、私とアセロラ(とラムス)は彼女の家の前に立っていた。結局、彼女の押しに負け、引きずられる形でここにいる。あの小さな身体にここまでのエネルギーを秘めていたとは(ジャムの蓋は絶対開けられないくせに)。そして家の前に立った私は戦慄していた。
「ええ、アセロラの家、デカ…」
家というより〝お屋敷〟である。普通にワークツリーの寮より大きい。柱や扉は実に装飾的で優雅な印象。私は間違いなく場違いである。衣服は適当だし、髪もやや乱れていた(アセロラに引きずられたせいで!)。少なくともこんなお屋敷に入れる格好ではなく、冷や汗が止まらない。
「え、今日からはアセロラお嬢様って呼ぶべきだったりする!?」
「もう、やめてよー!」
アセロラはそう言いつつ、私の背中をバシバシ叩く。よかった、彼女はいつも通りだ。普段なら陽の者過ぎるボディータッチも、こういう時にはほっとする。ここで彼女が突然優雅に振舞い始めたら、私は逃走していただろう。私は心を落ち着けるため、一度深呼吸を試みた。
ところがアセロラはそんな私の手を引くと、ズカズカと屋敷の庭に足を踏み入れる。
――ちょっと、まだ心の準備ができていない!
だが置いていかれるのはもっと怖い。私は不審者のような挙動のまま、彼女について歩いた。庭のあちこちに綺麗な花や、高価そうな壺が置いてある。あれを割ったら、私が今までワークツリーで積み上げてきた全財産と信用が消し飛ぶかも。
花粉怪鳥ヘルフィーブや、死神安置デッドロックとの戦いが全て無に帰すのだ。だからここはダンジョンよりずっと怖い場所だ。ダンジョンで失うのは命だけだが、ここでは命も金も、人権すら失いかねない。そう思うと血の気が引いた。