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月影の狩人 ―アフリカサバンナに生きる―

●第1章 生命の目覚め


 最初の記憶は、暗闇と温もりだった。


 生まれたばかりの子ハイエナの瞼は、まだ開かなかった。だが、彼女は確かに生きていた。母親の体から漂う温かな匂いと、乳の甘い香りに導かれるように、本能的に乳を探して吸い始める。やがて満ち足りた気持ちになると、兄弟たちの小さな体に寄り添って眠りについた。


 地下の巣穴は、外敵から身を守る安全な避難所だった。アフリカのサバンナに広がる地下道は、何世代にもわたって掘り続けられた迷宮のような構造をしている。その奥深くで、彼女は兄と共に生まれた。


「お前は月の光のように美しい毛並みをしている」


 母親のニャラは、生まれたばかりの娘を見つめながら、そうつぶやいた。ブチハイエナの子供は通常、黒い毛並みで生まれる。しかし彼女は珍しく、月明かりのような銀灰色の斑点模様が背中に浮かんでいた。


「ツキカゲ……。そうだ、お前の名前はツキカゲにしよう」


 兄のほうは、力強い体つきをしていたことから、アラシと名付けられた。二頭は共に母親の温もりの中で、日々を重ねていった。


 生後二週間が経ち、ようやく目が開いた。ツキカゲが見た最初の光景は、母親ニャラの優しい瞳だった。黄金色に輝く瞳は、深い愛情に満ちていた。


「よく目が開いたわね」


 母親の声は低く温かかった。ツキカゲは初めて見る母親の姿に見入った。褐色の毛並みに黒い斑点が散りばめられた大きな体。力強い顎。そして何より、その目に宿る慈愛の光。それらすべてが、幼いツキカゲの心に深く刻み込まれた。


 アラシも同じ頃に目を開けた。兄妹は互いの姿を確かめ合い、じゃれ合って遊ぶようになった。その遊びは、将来の狩りの練習となる重要な経験だった。かみつきごっこや追いかけっこを通じて、二頭は少しずつ体を強くしていった。


 生後一ヶ月が経つと、二頭は巣穴の外に出られるようになった。


「気をつけるのよ。外には危険がたくさんあるわ」


 ニャラの警告の言葉とともに、ツキカゲは初めて地上の世界を目にした。


 そこには想像もしていなかった広大な世界が広がっていた。


 頭上には果てしない青い空。遠くまで続く黄金色のサバンナ。風に揺れる背の高い草。様々な動物の鳴き声。新鮮な空気。すべてが新鮮で、驚きに満ちていた。


 ツキカゲは、大地に降り立った瞬間の感触を全身で味わった。乾いた土の感触。風に運ばれてくる無数の匂い。遠くで轟く雷鳴。サバンナは、五感すべてを刺激する魅力に満ちていた。


「あれは何?」


 空を見上げながら、アラシが尋ねた。頭上を大きな影が横切っていく。


「ハゲワシよ。私たちの仲間が狩りに成功すると、必ずやってくる鳥たちね」


 ニャラの説明に、子供たちは興味津々で聞き入った。ハイエナの社会について、母親から学ぶことは数えきれないほどあった。


 彼らの住むクランには、約40頭のブチハイエナが暮らしている。その中心にいるのは、女王と呼ばれる最上位のメスだ。ニャラはその直系の血を引く有力なメスの一頭だった。


「私たちのクランは、代々この土地で暮らしてきたの。この場所には、たくさんの獲物が集まってくる。でも、それは同時にライオンたちとの争いも意味するわ」


 ツキカゲは、母の言葉を真剣な面持ちで聞いていた。サバンナの掟を学ぶことは、生きていく上で何より重要だった。


 夜が訪れると、新たな発見があった。


 月明かりに照らされたサバンナは、昼間とは全く異なる表情を見せる。星々が煌めき、風が運ぶ匂いはより鮮明になった。ハイエナたちにとって、夜は活動の時間だった。


 クランの仲間たちが、次々と巣穴から姿を現す。みな、狩りに向かう真剣な表情をしていた。


「今夜は、シマウマの群れが近くにいるわ」


 ニャラが鼻を風上に向けて言った。ツキカゲも、生まれて初めて嗅いだ獲物の匂いを、しっかりと記憶に留めた。


 その夜、ツキカゲは初めて狩りの様子を目にした。


 遠くから響く、クランの仲間たちの独特な声。それは獲物を追い詰める時の、特徴的な笑い声のような鳴き声だった。暗闇の中で光る目。すばやく動く影。そして、最後の一撃。


 狩りの光景は、幼いツキカゲの心に強い印象を残した。それは残酷でありながら、生きていくために必要不可欠な営みだった。


 月日は流れ、ツキカゲとアラシは成長していった。


 生後三ヶ月を過ぎる頃には、二頭とも立派な若獣になっていた。毛並みは艶やかになり、体格も逞しくなった。特にアラシは、同じ年齢の若獣の中でも一際大きな体格を誇っていた。


「もうすぐ、あなたたちも狩りを学ぶ時期よ」


 ニャラの言葉に、ツキカゲの心は高鳴った。これまで見てきた狩りの光景が、いよいよ自分の番になる。その期待と不安が、胸の内で交錯した。


 狩りの訓練は、まず小さな獲物から始まった。


 ネズミやウサギを追いかけ、捕まえる練習だ。最初は失敗の連続だった。獲物はすばやく、予想もしない方向に逃げていく。しかし、その度に新しい発見があった。


 風の向きを読むこと。足音を忍ばせること。獲物の動きを予測すること。それらすべてが、狩りには必要な技術だった。


 ツキカゲは、特に嗅覚に優れていた。風が運んでくる微かな匂いから、獲物の位置を正確に把握することができた。その才能は、母親のニャラも驚くほどだった。


「あなたの嗅覚は、私が見てきた中でも最高レベルよ」


 その言葉に、ツキカゲは誇らしい気持ちになった。


●第2章 若獣の試練


 生後半年、ツキカゲの人生で大きな転機が訪れた。


 それは、雨季の始まりを告げる最初の雷雨の夜のことだった。


「今夜、あなたは初めての本格的な狩りに参加するわ」


 ニャラの言葉に、ツキカゲの心臓が大きく高鳴った。これまでの小さな獲物との戯れとは違う、クランを挙げての本格的な狩り。その日をどれほど待ち望んでいただろう。


 夜の帳が降りると、クランの若獣たちが集められた。ツキカゲの他にも、同じような年齢の若獣が5頭ほどいた。アラシもその中にいた。


「今夜の獲物は、シマウマの群れだ」


 クランの女王キリが、低い声で告げた。彼女は威厳のある体格と、傷跡の残る顔を持つ年長のメスだった。


「若いお前たちは、後方から群れを追い立てる役目を担え。決して単独行動は取るな。常に仲間と連携を取ることを忘れるな」


 キリの指示に、若獣たちは真剣な面持ちで頷いた。


 サバンナに散らばった草の匂い。遠くから聞こえるシマウマたちの蹄の音。風向き。気温。湿度。ツキカゲは、その夜のすべてを鮮明に覚えていた。


 狩りが始まった。


 ベテランたちが、シマウマの群れに忍び寄っていく。若獣たちは、その後方でじっと待機する。時間がゆっくりと流れていく。


 突然、前方で動きがあった。ベテランたちが一斉に動き出したのだ。驚いたシマウマの群れが、若獣たちの方向へ逃げ出す。


「今だ!」


 アラシの声とともに、若獣たちが走り出した。


 ツキカゲは、これまでになく全力で走った。足元を蹴る感触。風を切る音。群れを追い立てる興奮。すべてが新鮮だった。


 シマウマたちは、若獣たちに追い立てられ、ベテランたちが待ち構える場所へと追い込まれていく。作戦は、完璧に進んでいた。


 しかし、その時だった。


 一頭の若いシマウマが、群れから外れて横方向に逃げ出した。


 ツキカゲは、咄嗟の判断を迫られた。このまま主力部隊について行くか、それとも外れた一頭を追うか。


 彼女は、群れから外れることを選んだ。


「ツキカゲ! 戻れ!」


 後ろからアラシの声が聞こえた。しかし、ツキカゲの心は既に決まっていた。彼女の嗅覚は、そのシマウマが足を怪我していることを察知していた。


 追跡は、予想以上に長引いた。


 月明かりを頼りに、ツキカゲは必死で獲物を追いかけた。シマウマは確かに足を引きずっていたが、それでも相当なスピードで逃げていく。


 しかし、ツキカゲには確信があった。このシマウマは、必ず疲れ切ってしまうはずだ。


 予想は的中した。


 追いかけること約30分。シマウマの動きが、明らかに鈍くなってきた。そして、ついに足を止めた。


 ツキカゲは、獲物に忍び寄った。シマウマは、すでに疲労困憊の状態だった。


 最後の一撃。


 ツキカゲは、母から教わった通りの場所を狙った。首の後ろ、急所となる部分だ。必死の抵抗もむなしく、シマウマは力尽きた。


 ツキカゲは、初めての大きな獲物を仕留めた喜びに震えた。しかし、同時に不安も感じていた。クランの掟を破って、単独行動を取ってしまったのだ。


 しばらくすると、仲間たちが彼女の元にたどり着いた。


「ツキカゲ!」


 真っ先に駆けつけたのは、母のニャラだった。


「無事で良かった……。でも、なんてことを!」


 ニャラの声には、安堵と叱責が混ざっていた。


「単独行動を取るなと言ったはずだ」


 女王キリの声が、闇に響いた。


 ツキカゲは、うなだれた。確かに、掟を破ってしまった。しかし――。


「しかし、見事な狩りだった」


 意外な言葉に、ツキカゲは顔を上げた。キリは、厳しい表情の中に、細やかな笑みを浮かべていた。


「怪我をした獲物を見分け、的確に追跡し、確実に仕留めた。その判断力と実行力は褒めるべきものだ」


 キリの言葉に、クランの仲間たちもうなずいた。


「ただし、掟を破ったことへの罰は必要だ。今夜の獲物は、すべてクランの年長者たちに譲ることとする」


 それは、若獣にとっては厳しい罰だった。初めての獲物を味わえないのだ。しかし、ツキカゲは素直にその罰を受け入れた。


 その夜の出来事は、クランの中で語り草となった。若獣の単独狩りの成功は、極めて稀なことだったからだ。


 アラシは、妹の成功を誇らしげに見ていた。


「さすが、俺の妹だ」


 兄の言葉に、ツキカゲは嬉しさを感じた。しかし、同時に複雑な感情も芽生えていた。彼女は、自分の中に眠る何か特別なものを感じ始めていた。


 それから数ヶ月、ツキカゲの狩りの腕は目覚ましく上達した。


 特に、嗅覚を活かした追跡は、クランの中でも一際目立つ存在となっていた。彼女は、風の匂いから獲物の状態を正確に判断し、最適な追跡ルートを選択することができた。


 アラシも、別の形で頭角を現していた。


 彼は、圧倒的な体力と力強さで、正面からの戦いを得意としていた。兄妹は、それぞれ異なる才能を開花させていった。


●第3章 運命の季節


 生後一年が経ち、ツキカゲは立派な若手ハンターへと成長していた。


 その頃、クランに大きな変化が訪れた。女王キリの体調が悪化したのだ。


 キリは、長年クランを率いてきた賢明な指導者だった。しかし、年齢とこれまでの戦いの傷が、彼女の体を蝕んでいた。


 後継者争いが、密かに始まっていた。


 クランの中で、有力な若手メスたちが、少しずつ力を示し始めていた。ツキカゲも、その一人として注目されていた。


「あなたには、女王の素質があるわ」


 ある夜、ニャラが静かな声でツキカゲに告げた。


「でも母さん、私にはまだ……」


「年齢は関係ないわ。キリも、若くして女王の座に就いたのよ」


 ニャラの言葉に、ツキカゲは複雑な思いを抱いた。確かに、彼女の狩りの才能は群を抜いていた。しかし、クランを率いる立場になるということは、また別の問題だった。


 そんな中、新たな試練が訪れた。


 ライバルクランが、彼らの縄張りに侵入してきたのだ。


「敵の数は、およそ30頭」


 偵察から戻ってきた歯長メスのカゲロウが報告した。


「奴らは、この乾季で獲物が減少した自分たちの縄張りを捨て、より豊かな我々の土地を狙っているのです」


 クランは、緊張に包まれた。


 キリは、まだ体調が万全ではなかった。しかし、この危機に、彼女は強い意志を示した。


「我々は、この土地を守る。代々受け継いできたこの場所を、簡単に明け渡すわけにはいかない」


 戦いの準備が、始まった。


 ツキカゲは、アラシと共に前線に立つことを志願した。


「気をつけるのよ」


 ニャラの言葉に、二頭は頷いた。


 戦いは、満月の夜に始まった。


 サバンナを照らす月明かりの下、二つのクランが対峙する。風は、緊張感を運んでくる。


 最初の衝突は、雷のように突然だった。


 ツキカゲは、これまでの狩りで培った技術を、戦いに活かした。嗅覚で敵の位置を把握し、素早い動きで相手を翻弄する。


 アラシは、その強靭な体格で、敵の主力を食い止めていた。兄妹は、見事なコンビネーションを見せた。


 戦いは、一進一退の攻防が続いた。


 しかし、決定的な瞬間が訪れる。


 敵クランのリーダー格が、突如キリに襲いかかったのだ。体調の悪いキリは、その攻撃を避けきれない。


 その時、ツキカゲが閃光のように飛び出した。


 彼女は、風を読み、相手の動きを予測していた。敵の攻撃の一瞬の隙を突き、急所を狙う。


 決定的な一撃。


 敵のリーダーは、大きく吹き飛ばされた。


 その光景を目の当たりにした敵クランは、戦意を失った。彼らは、速やかに撤退していった。


 勝利の歓声が上がる中、キリはツキカゲを見つめていた。


「お前は、私の後継者となる資格がある」


 その言葉に、クランの全員が静まり返った。


 ツキカゲは、大きな決断を迫られていた。女王の座を受け入れるということは、大きな責任を負うということだ。しかし、彼女の心は既に決まっていた。


「お受けします」


 その瞬間、月が雲間から顔を出し、ツキカゲの銀灰色の毛並みが、幻想的に輝いた。


 それは、新しい時代の始まりを告げる瞬間だった。


 しかし、ツキカゲの前には、まだ多くの試練が待ち受けていた。


 女王となることは、単なる名誉ではない。クランの生存を賭けた、重大な責務なのだ。


 特に、これから始まる乾季は、彼女の指導力が試される最初の試練となるだろう。


 ツキカゲは、夜空を見上げた。


 満月が、彼女の決意を見守っているかのようだった。


「私は、必ずこのクランを守り抜く」


 その誓いは、サバンナの風に乗って、遠くまで響いていった。




●第4章 新たな責任


 女王となって最初の試練は、予想よりも早く訪れた。


 乾季が例年以上に厳しく、サバンナは日に日に色を失っていった。草は枯れ、水場は干上がり、獲物は次第に姿を消していった。


 ツキカゲは、クランを率いて新たな狩場を探さなければならなかった。


「北の谷には、まだ水が残っているはずです」


 ベテランハンターのカゲロウが提案した。


「しかし、そこはライオンの縄張りです」


 別のメスが懸念を示す。


 ツキカゲは、慎重に状況を判断した。確かに、ライオンとの争いは避けたい。しかし、このまま獲物が減少を続ければ、クランの存続さえ危うくなる。


「私たちには、選択の余地がない」


 ツキカゲの決断に、クランのメンバーは緊張した面持ちで頷いた。


 移動は、夜間に行われた。


 月明かりを頼りに、クランの全メンバーが静かに進む。子供たちは、大人たちに守られながら、必死についていく。


 ツキカゲは、先頭を歩きながら、絶えず周囲の匂いを確認していた。彼女の優れた嗅覚は、危険を事前に察知する重要な能力となっていた。


 夜が明ける直前、彼らは北の谷に到着した。


 予想通り、谷には小さな水流が残っていた。周囲には、比較的新鮮な獲物の痕跡も見られる。


 しかし、同時にライオンの存在も明確だった。


 新たな狩場での生活が始まった。


 ツキカゲは、狩りの時間帯をライオンの活動時間を避けて設定した。また、獲物を分散させて狩ることで、一度に大きな痕跡を残さないよう工夫した。


 その戦略は、徐々に効果を上げていった。


 クランは、最小限の衝突でこの地での生活を確立していった。時には小規模な争いは避けられなかったが、ツキカゲの賢明な判断により、大きな損失を出すことなく乗り切ることができた。


 そんな中、ツキカゲの人生に大きな転機が訪れる。


 彼女は、母親になったのだ。


 三頭の子供を出産したツキカゲは、新たな責任を感じていた。クランの女王であり、同時に一児の母である。その二つの役割の両立は、想像以上に困難だった。


 幸い、クランの仲間たちの支援があった。


 特に、アラシは妹の子供たちの良き保護者となった。彼の存在は、ツキカゲが女王としての責務を果たす上で、大きな支えとなった。


「心配するな。俺が、お前の子供たちを守る」


 アラシの言葉に、ツキカゲは深い感謝を覚えた。


 子供たちは、すくすくと成長していった。


 長女のツキホは、母親譲りの優れた嗅覚を持っていた。次女のカゼは、驚くほどの俊敏性を見せた。そして末っ子の息子、ソラは、叔父のアラシに似て、たくましい体格の持ち主だった。


 ツキカゲは、自分の子供たちの中に、クランの未来を見ていた。


●第5章 大いなる試練


 乾季が深まるにつれ、状況は徐々に厳しさを増していった。


 水場は、ついに完全に干上がってしまった。残された選択肢は、さらに北へ移動するか、それとも雨季の到来をこの地で耐え忍ぶかの二つだった。


 ツキカゲは、熟考の末、この地にとどまることを決断した。


「移動は、子供たちにとって大きなリスクとなる」


 その判断は、母としての視点も含まれていた。


 しかし、現実は厳しかった。


 獲物は日に日に減少し、クランのメンバーは疲労の色を濃くしていった。子供たちの中には、衰弱する者も出始めた。


 そんな中、思わぬ事態が発生した。


 ある夜、巨大なゾウの群れが、この地域に現れたのだ。


 ゾウたちは、長い鼻で地面を掘り、地下水を見つけ出していた。その場所を記憶することで、クランは新たな水源を確保することができた。


 しかし、それは同時に新たな問題も引き起こした。


 水を求めて、様々な動物たちがこの地域に集まってきたのだ。その中には、当然、ライオンも含まれていた。


 緊張が高まる中、ツキカゲは大胆な決断を下した。


「ライオンたちと、縄張りの協定を結びましょう」


 前代未聞の提案に、クランのメンバーは驚きを隠せなかった。


 しかし、ツキカゲの考えには明確な理由があった。


「この危機的状況下で、互いに争っている余裕はない。一時的にでも、平和的な共存の道を探るべきです」


 交渉は、慎重に進められた。


 ライオンの群れのリーダーである年長のメスは、意外にも理性的な判断を示した。彼女もまた、これ以上の争いが両者にとって損失でしかないことを理解していたのだ。


 協定が結ばれた。


 水場と狩場を時間で区分し、互いの縄張りを明確に定めることで、共存の道が開かれた。


 その決断は、クランの存続を左右する重要な転換点となった。


 やがて、雨季の兆しが見え始めた。


 遠くの空に、雨雲が姿を見せ始めた。湿った風が、変化の訪れを告げている。


 最初の雨が降り出した時、クラン全体が歓喜に包まれた。


 子供たちは、生まれて初めての雨に驚きながらも、その恵みを全身で感じていた。大地は、急速に命を取り戻していく。


 ツキカゲは、この試練を乗り越えたクランの絆が、一層強くなったことを実感していた。

●第6章 生命の循環


 それから数年が経ち、ツキカゲは中年期を迎えていた。


 彼女の子供たちは、立派なハンターに成長していた。長女のツキホは、母親に並ぶ優れた追跡者となり、カゼは戦術的な狩りの名手として知られ、ソラは群れの強力な守護者となっていた。


 アラシは、年老いてなお力強く、若い世代の指導者として活躍していた。


 ある月明かりの夜、ツキカゲは一人で高台に立っていた。


 遥か遠くまで広がるサバンナを見渡しながら、彼女は自分の人生を振り返っていた。生まれてから今日まで、どれほどの月が昇り、沈んでいったことだろう。


 突然、風が彼女の鼻に懐かしい匂いを運んできた。


「母さん? どうしたの?」


 振り返ると、そこにはツキホが立っていた。


「ええ、ちょっと考え事をしていたの」


「私たち子供のことを、心配してくれているの?」


「いいえ、もうあなたたちのことは心配していないわ。あなたたちは、立派に成長した」


 ツキカゲは、穏やかな笑みを浮かべた。


「でも、これからもクランの未来のために、できることをしていきたいの」


 その言葉には、深い決意が込められていた。


 年を重ねても、彼女の責任感は少しも薄れていなかった。ただ、その形が少しずつ変化していっただけだ。


 今の彼女の役割は、若い世代に知恵を伝えることだった。


 長年の経験から得た知識。サバンナの自然との向き合い方。仲間との絆の大切さ。それらすべてを、次の世代に伝えていく。


 月明かりに照らされたツキカゲの姿は、かつての若き日のように輝いていた。


 その夜、彼女は子供たちに、自分の人生の物語を語って聞かせた。


 生まれてから今日まで、喜びも悲しみも、すべてが意味のある出来事だった。それらが積み重なって、今の自分があり、クランがある。


「命は、永遠に続く循環なのよ」


 ツキカゲの言葉に、子供たちは深くうなずいた。


 やがて夜が更けていく。


 ツキカゲは、満月を見上げた。


 月の光は、変わることなく彼女の人生を見守り続けてきた。そして、これからも永遠に、このサバンナを照らし続けるだろう。


 新しい世代が育ち、また新しい命が生まれる。


 それは、終わりのない生命の循環。


 ツキカゲは、自分もその大きな循環の一部であることを、深く実感していた。


## エピローグ 永遠の月明かり


 時は静かに流れ、ツキカゲは老年期を迎えていた。


 彼女の毛並みは、かつての艶やかな銀灰色から、霜降りのような白みを帯びた色に変わっていた。動きは緩やかになり、狩りに参加することも少なくなっていた。


 しかし、その鋭い嗅覚と知恵は、衰えを知らなかった。


「おばあちゃん、また物語を聞かせて」


 孫の世代にあたる幼いハイエナたちが、ツキカゲの周りに集まってくる。彼女は、穏やかな笑みを浮かべながら、サバンナの物語を語り続けた。


 ある夜のこと。


 ツキカゲは、いつもの高台に立っていた。満月が、サバンナを銀色に染め上げている。


「母さん」


 ツキホが、そっと近づいてきた。


「ツキホ、あなたはとても良いクランリーダーになったわね」


 娘は、すでにクランの新しい女王として、見事な手腕を発揮していた。


「それは、母さんから学んだことばかりです」


 ツキカゲは、遠くを見つめながら言った。


「私の時間が、近づいているのを感じるの」


 ツキホは黙ってうなずいた。母の言葉の意味を、彼女は理解していた。


 その後、数日が過ぎた。


 満月の夜が再び訪れた時、ツキカゲは静かに巣穴を後にした。


 アラシも、妹の決意を理解していた。年老いたハイエナたちには、時々あることだった。最期の時を感じると、彼らは一人で旅立っていくのだ。


 ツキカゲは、懐かしい場所を巡っていった。


 初めて狩りを成功させた場所。クランの危機を乗り越えた谷。子供たちを育てた巣穴。それぞれの場所に、大切な記憶が刻まれていた。


 最後に、彼女は生まれた巣穴の近くにある小高い丘にたどり着いた。


 ここからは、広大なサバンナを一望することができる。


 月の光が、優しく彼女を包み込む。


「美しい夜ね」


 ツキカゲは、心の中でつぶやいた。


 遠くでライオンの咆哮が聞こえる。風が草原の匂いを運んでくる。大地は、生命の鼓動を感じさせていた。


 彼女は、ゆっくりと目を閉じた。


 全ての記憶が、静かに蘇ってくる。


 母ニャラの優しい声。兄アラシとの温かな絆。最初の狩りの興奮。女王としての誇り。子供たちの成長を見守る喜び。


 そして、このサバンナで過ごした全ての瞬間が、彼女の心に深く刻まれていた。


「ありがとう」


 最後の言葉を、風が優しく運んでいった。


 翌朝、クランの仲間たちが、月光に照らされるように横たわるツキカゲを見つけた。その表情は、安らかだった。


 その夜、満月が再び昇った時、サバンナを吹き抜ける風の中に、かすかな笑い声が聞こえたような気がした。


 それは、永遠に続く生命の循環の中で、新たな物語の始まりを告げているかのようだった。


(了)


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