伯爵家の事情 2
「……それなのに、ですよ。父上、姉さんといったら……」
ジェシカが木登りをした夜会の翌日、ミッドロージアン邸内でオリヴァーが力説していた。
「まあまあ、オリヴァー。落ち着きなさい」
「そうよ、オリヴァー。昨夜は何もやらかしてなんかないんだから」
小さな後ろめたさを感じつつ、弟には知られていないのだからと、精一杯平静を装いながら、ジェシカが口を挟んだ。
「それに、挨拶をしなくちゃいけなかったとはいえ、オリヴァーの方が単独行動したんじゃないの」
「あれは……」
ある意味、精神年齢は自分より下だと認識している姉からの指摘に、思わずムッとしつつ、言い訳のできない状況にしたのは自分だとわかっていたため、オリヴァーは言い返せずにいた。
そもそも、成人している姉の言動が、あまりにも幼稚で危ういせいで……なんてこの場で本人に言ったところで、感情的な返しがくるだけだろうと、オリヴァーはイラ立ちを自身の内で解消することに努めた。
「まあまあ。ジェシカもオリヴァーも落ち着いて。つまり昨夜のジェシカは、複数の男性にダンスを申し込まれて、無難にやり過ごせたのだろう?」
「ええ、もちろん」
「おまけに、運よく豪華な料理も食べられたと」
「スイーツですわ、お父様」
「そうか。スイーツだね」
チョコレートを思い出したのか、うっとりとした顔で宙を見つめる娘を、“よかったねぇ”とでも言いそうな顔で見つめているマーカス。それをオリヴァーは苦々しく見ていた。どうせあの場に残っていたのなら、食べ物などではなく、遅れて来た公爵令息やちらちらと姉の様子を伺っていた将来有望そうな男達と、せめて会話ぐらい交わせたらよかったのにという思いが頭をよぎる。
「それで、昨夜はフェルナン騎士団長殿とロジアン公爵夫人と知り合いになったと?」
「ええ、そうです。ロジアン様は帰り際に“お友達になりましょう”って言ってくださったの。とっても気さくで、素敵な方でしたわ」
「ほおう」
「お、お友達……姉さん、ロジアン公爵夫人がどういう方なのか、ご存じなんですか?」
「ん?ロジアン様はロジアン様でしょ?」
弟は何を言っているのかと、若干呆れ口調の姉に、オリヴァーのいら立ちは再び爆発しそうになっている。
「ロジアン公爵夫人です!!公爵家の方なんですよ!!」
「ええ、そうね」
この姉には、何を言っても響きそうにない。オリヴァーは深く息を吸って自身を落ち着かせようと試みた。そんな二人を、マーカスはどこか楽しそうに見ている。
「ロジアン公爵夫人といえば、王家とも深いかかわりのある方で、社交界で影響力のある方なんですよ。今はもう降りられていますが、一時は王族のマナー指導をしていらした方ですよ」
ジェシカののんびりした様子に、半ば吐き捨てるように説明したオリヴァー。それでもジェシカには、強く響かなかった。
「へえ。マナーの指導なんて、なんだか厳しそうね。あっでも、昨夜のロジアン様は本当に気さくな様子で、一緒にチョコレートを……」
「姉さんに手助けされた手前、ロジアン夫人はあなたに合わせてくださったんでしょうが!!」
もう限界とばかりに、オリヴァーの声が一段と大きくなった。
「オリヴァー。落ち着いて」
姉には言われたくないと思わず歯を食いしばるも、オリヴァーがなぜイラ立っているのか、ジェシカにはピンときていないことは見え見えで、イラ立ちは募るばかり。“この人は、こういう人だった”そう頭ではわかっている。けれど、これからさらに社交界に出てつながりを広げて、少しでも良い結婚相手を見つけなければならないのにという焦りは募るばかり。
本来なら、ジェシカ自身が焦るところのはず。そんなことはオリヴァーもわかっている。けれど、なんせ自分のこととなると無頓着なジェシカのこと。周りが騒いで追い立てなければ、一生話が進まなさそうだ。いや、絶対に進まないと断言できる。
「それで、居合わせたフェルナン殿とも?」
「ええ、お父様。団長さんには以前も助けていただきましたので、二度目ですわね」
「ああ、そうだったね。前回、あの方にはずいぶんお世話になったね」
「団長さんとは、同志なんですよ」
ふふふと笑うジェシカに、オリヴァーの何かが切れそうになる。こめかみをぴくぴくとひくつかせ、口元をわなわなと震わせるオリヴァーに、ジェシカは全く気付かない。
「同志、ですか……」
地を這うような長男の声に、さすがにマーカスもピクリと肩を揺らした。どうやら息子は限界に達したらしいと気付き、若干青ざめる。が、ジェシカは気が付かない。いや、気付いていても、“あらあら”と思うぐらいのこと。彼女の中でオリヴァーは、やっぱり可愛い弟なのだ。
「ええ、そうよ。オリヴァー、顔がひどいわ」
(誰のせいだ、誰の)
という弟の心の叫び声は、父にしか伝わっていないだろう。ただひたすら、父は穏やかな表情の下でジェシカに対し“無自覚に煽るのはやめようか”と訴えていた。が、それも伝わるはずがないこともわかっている。
「そう。団長さんは同志なの」
どや顔でさらっと言い切った。
マーカスは、オリヴァーから確かに何かがプチっと切れる音を聞いた。普段は一体誰に似たのかというほどクールで賢いオリヴァーだったが、姉とのやりとりでは案外安々とその仮面が外れてしまう。それを彼の若さや幼さのせいだけにするのは、いささか不憫というもの。まさしくトリガーはジェシカで、彼女は無自覚にそうさせるだけの言動をしている。
ジェシカはしっかり者の姉と思いきや、ちゃっかり者でのんびり、おっとりした面もあると、オリヴァーは知っている。人の命、人の幸せがかかっていれば、自分の持ちうる限りの全てを投げ出して手を差し伸べる優しさも、幾度となく見てきた。時にはその姿に、歯がゆい思いもしてきた。
それなのに……それなのに……当の本人のこの自由さ。“夜会で異性と踊ったのよ。すごいでしょう?”の世界じゃないのだ。そこから、“ぜひ結婚を!!”と望まれなければ、いくらたくさんの人と踊っても、なんの意味もない。そのために、主要な貴族について事前に覚える必要があった。その勉強にと資料も用意してあげたし、時には勉強に付き合ってもきた。それなのに、ロジアン公爵夫人もフェルナン騎士団長のことも知らなかった姉ジェシカ。加えてその二人をお友達に同志だと認識している有様。一体、この人の頭の中はどうなっているのか。覗いてやりたいと思ったが、その中にスイーツの山でも見つけようものなら、もうやってられないと首を振った。
「戦の鬼と呼ばれ、近隣諸国にまで名を知られ、恐れられてきたほどの方を同志だと?昨夜もご本人の前でそんな恐れ多いことを言ってましたけど、姉さんはどこをどう見て騎士団長と自分を同志だと言うんですか!?」
「ちょっちょっとオリヴァー、落ち着いてよ」
ぜえぜえと肩で息をするオリヴァーをいさめようとするジェシカ。それがますます怒りを煽るというのに、少しも気付かない。
「団長さんとはね、食べ物を無駄にしてはダメ!!という同志なのよ。以前の夜会で、そう意気投合したの」
「ああ、そうですか……」
負けた……いや。無駄な足掻きだったのか……
戦なんて無縁な昨今。自分とは違って、学校には行っていないこの姉に、騎士団長のすごさを語ったところで、“そうなんだ”の一言で終わらせてしまいそうなことは、冷静になればわかっていたこと。自分はなにを熱くなっていたのか。らしくない。おそらく、騎士団長も姉の呑気な性格に合わせてくれたのだろう。現に昨夜は、姉の言動に何度か笑いを堪えていたぐらいだ。
「父上。フェルナン騎士団長も、おそらく姉さんに合わせてくださったのかと」
「そ、そのようだね」
以前の夜会を思い出したのか、父マーカスもまた、全てを悟ったかのように呟いた。