伯爵家の事情 1
ミッドロージアン伯爵の治める領地。そこは王都からそれほど離れておらず、城で開かれる夜会にも、自領から出向くことが可能な距離に位置していた。多くの貴族がこぞって王都にタウンハウスを持つ中、その必要のない位置関係は、別邸の維持費もままならないミッドロージアン家にとっては、大変都合がよかった。
歴史だけは長く、名前の立派なミッドロージアン家。その実態は、ここ数年は生活費をねん出するのがやっとなほどのド貧乏貴族だった。決して、現伯爵が浪費家だとか、騙されやすい人物だとかが原因ではない。いうならば、マーカス・ミッドロージアンがお人よしすぎるのがいけない。かろうじて領地の切り売りや返還するところまではいっていないものの、実態は火の車。それは、伯爵令嬢の人格を左右する程度に。
マーカス・ミッドロージアンと、その妻セレストの間には4人の子どもがいる。現在18歳になる長女のジェシカ。14歳の長男オリヴァー。11歳の双子の姉妹、エイミーとフローラ。妻セレストは双子の出産後、産後の肥立ちが悪く、双子が1歳を過ぎたころに亡くなっている。それを機に、ミッドロージアン家の家計は、じわりじわりと傾きだした。
当時、表立って仕事をしていたのは、もちろんマーカスだ。しかし、実質彼は妻セレストの掌の上で転がされていたようなもの。やり手だったセレストは、邸内のことも領内のことも全て把握していた。けれどいかにも取り仕切っているのは夫ですとうまく装って、夫を立てることも怠らなかった。それが、ある意味影の主人だったセレストが亡くなってしまうと、徐々に立ちいかなくなってしまった。
伯爵邸からは、一人また一人と使用人が姿を消していった。もちろん、人のよいマーカスのこと。何の手立ても打たないまま解雇したわけではない。涙ながらに謝罪し、次の勤め先も確実に手配した上でのこと。まあ、勤め先の確保には、昔からミッドロージアン邸で執事を務めているウォルターの伝手にも頼ってのことだが。
気付けば邸に残っている使用人は、ウォルターと一番長く勤めていた侍女のカーラだけになっていた。この二人だけで邸内のことが回っていくわけがない。そこをジェシカが手伝うようになったのは、自然の流れだった。一人また一人と使用人が去っていく中、仕事量が増えて大変そうな使用人達を見て、ジェシカは黙っていられなかった。進んで弟妹達の世話をして、まだ残っていた使用人達にまざって家事を覚えていった。今となっては、なんでも一通りこなせてしまうほどジェシカは本格的に家事能力を身につけていった。
ミッドロージアン家には、先立つものが潤沢にあるわけではない。贅沢は敵とばかりに、ジェシカの作る料理は庶民じみたものが多かった。むしろ、栄えた領地の庶民や商人達の方が、豪勢な暮らしをしていたぐらいだろう。そういった背景が、夜会でのジェシカにつながっていく。
それは二年前のこと。エーズワール王国では、近年まれにみる自然災害に見舞われていた。ミッドロージアン伯爵の治める領地も例外ではない。長く続いた大雨に、領地のほとんどが農地だったミッドロージアン領は、その年ほとんどの作物が収穫できなくなってしまった。
もちろん、備蓄してある食料はあった。けれど、とてもそれだけで賄えるような状態ではなく、領民達は途方に暮れていた。
そこでマーカスは、一つの決断を迫られていた。
迷惑ばかりをかけ続けてきた、長女のジェシカ。本来、貴族の令嬢ならばするはずのない、掃除や洗濯も、自ら進んでやってくれる。弟妹達の世話もだ。いつも他者を優先し、自分のことなど顧みることのないジェシカ。せめて、デビュタントだけは豪華に着飾らせて送り出してやりたいと、父マーカスは秘密裏にコツコツとお金を貯めていた。できる限り豪華なドレスに、今まで買ってやれなかった宝石。この時ぐらいは、親として用意してやりたい。その日だけはジェシカが主役になれるようにと、マーカスは計画していた。
しかし、背に腹は代えられないこの状況下で、そのような贅沢をさせてもよいのか。親としてはもちろん、予定通りにジェシカにお金を使いたい。けれど、領主としては、微々たるものだとしても領民のために使うべきだと、頭を悩ませていた。このお金があれば、もっとも必要な来年のための種や苗が買える。今年、収入が得られそうにない中、それはなによりも重要な問題だった。
「お父様。私はかまいませんよ。むしろ、迷う理由がありません。このお金は、領民のために使うべきです」
父の悩みを知ったジェシカは、それが当然とでもいうように、一切迷うことなく父に進言した。それは強がりでも染みついた節制根性でもなく、心からの言葉だった。父と母が守ってきたこの領地、領民のために使われるのなら、それがたとえ自分のデビュタントのための資金であったとしても、ジェシカにとっては本望だった。
弟のオリヴァーが父からこの領地を継ぐ時まで、なんとしてもここを守らなければならない。賢いオリヴァーのこと。彼が領主となった時、ここはきっと見違えるような変化を遂げるはず。父にはそういう才がないのは、ジェシカにもわかっていた。だから今すべきことは、細々でもこの生活をつないでいく。それがジェシカの目標だった。
「ジェシカ……すまない」
涙を流したのは、マーカスの方だった。一年遅れてしまうけれど、来年は絶対に……そう誓ったマーカスだったけれど、大金がそう簡単に貯まるはずもなく、その上、被害の立て直しの費用も思いの外かさみ、結局翌年もジェシカは、小さな夜会ですら一つも参加できなかった。
「お父様、気にしないでください。夜会に参加できないことなんて、ほんの小さなことです。それよりも、領地を立て直すことのほうが大事ですから」
母親のいないジェシカにとって、本音や弱音を吐き出せるのは彼女が生まれる前から勤めているカーラぐらいなもの。マーカスは秘密裏に、ジェシカがなにかこぼしていないかとカーラに尋ねるも、愚痴一つ言っていないと言う。もちろん、父親としてジェシカ本人に幾度となく聞いてみた。しかし、ジェシカからは、恨み言の一つも出ることはなかった。娘のそんな様子に全く甘えがなかったかと問われれば、ないとは言い切れないマーカスだったけれど、その年もまた、自分達に必要な最低のお金と、ウォルターとカーラに渡す給金以外のお金は、全て領民のために使用していた。
三年目の正直、とでもいうのだろうか?自然災害に見舞われた翌年は近年稀に見る豊作となった。前年度の立て直しも翌年の準備も終え、それでも余裕が出るほどに。加えて、ジェシカの状況を知っている領民達は、“ぜひ使って欲しい”“他でもない。ジェシカお嬢様のために”と、わずかずつとはいえ、やっと捻出したであろうお金を、自主的に差し出してきた。一重にマーカスの人徳と、それまで父と共に領民のためにと尽力してきたジェシカだったからこそ、領民達も心を動かされたのだ。この時ばかりはジェシカも、その大きな瞳に涙を浮かべて、何度も何度も感謝の言葉を述べていた。
その結果が、あの初めての夜会だった。デビュタントというわけでもなかったため、二年前に父が思い描いていたほど豪華なドレスは用意されなかった。その代わり、今後いくつも夜会に参加できるようにと、オリヴァーの進言を受けて、伯爵令嬢として恥ずかしくない程度のドレスを数着用意していた。宝石にさほどの興味のないジェシカは、“お母様のがあるじゃない”と、新しく強請ることもせず、形見のアクセサリーを身に着けることに決めていた。わずかに余った予算は、これまたオリヴァーの進言を受けて、日々の仕事で荒れがちな指先に塗るクリームや、髪に使う香油をそろえることにした。贅沢を好まないジェシカも、さすがにこれには年相応の女の子のように喜びを見せていた。