残念美人の誕生 2
それは数か月前にさかのぼる。
ここエーズワール王国では、16歳を迎えると成人とみなされ、社交界にデビューする。本来、ジェシカ・ミッドロージアン伯爵令嬢も、2年前に成人を祝うデビュタントに出席するはずだった。そう、そのはずだったのだ。そのためにずいぶん前から準備もしていた。
しかし、残念なことに、名前だけは立派なミッドロージアン伯爵家は、日々の生活がやっとなぐらいの貧乏貴族だった。ジェシカのデビュタントのドレスのためにと貯めていたお金は、その年飢饉に見舞われて貧困にあえぐ領民のために使われることになってしまった。もちろん、ジェシカ本人もそうするべきだと望んで。微々たる金額だったとはいえ、必要なことだった。それもあって、翌17歳の年にもドレスの用意がままならず、結局、ジェシカの社交界デビューは2年も遅れてしまったのだ。
人々の間で、存在は認識されているものの、一向に姿を現さないジェシカに、世の貴族男性は様々な噂をした。金欠で……なんて事情は知られておらず、かなりかけ離れた噂が流れた。
病弱な令嬢なのでは。
極度の人見知りなのでは。
本当は直視できないような美人で、父であるマーカス・ミッドロージアンが溺愛するあまり、人前に出したがらないに違いない。
噂は尾ひれに背びれに腹びれまで、実につけたい放題で広まった。
男性陣の願望もあったのか、ジェシカを卑下するものは一切なく、期待は高まるばかり。そんな中で迎えた初めての夜会。しかも、王家主催の城で開かれるものだ。婚約者のいないジェシカは、父と共にその姿を現した。それはもう、いろいろな意味で話題となった。
光り輝く金色の美しい髪に、透き通った緑色の大きな瞳。小ぶりな唇は、まるで熟れた果実のように赤く色付き、色白の肌がますますそれを際立たせていた。
初めて社交の場に姿を現したジェシカ・ミッドロージアンは、まさしく期待を裏切らない美しい女性だった。横に父親がついているのにもかかわらず、ジェシカにはすぐさまダンスの申し込みが殺到した。
しかし、彼女はそのどれにも頷かず。彼女のきらきら輝く瞳は、どの男性にも向けられない。容姿の整った者にも、身分の高い者にも、その両方を備えた者にも。取り付く島もないとは、まさしくこのこと。
色白なことがそう思わせたのだろうか?深窓令嬢は、一体誰の手なら取るのかと、ますます周りの興味関心を煽った。どこかにチャンスはないものかと、男性陣の熱い視線が向けられる中、ジェシカは父親と初めてダンスを踊った。
“すわ、次は自分が!!”と、再び群がろうとする男性達をヒラリとかわした彼女が向かった先は、料理が並べられた壁際のスペース。頭上で煌めくシャンデリアも、女性たちの首元で輝く宝石もくすんでしまいそうなほど美しい瞳を、かつてないほどきらきらと輝かせるジェシカ。
「すごい……」
思わず漏れたジェシカの呟きに“声すら華憐だ”“小鳥のさえずりか?”と嘆息する男性達。その存在に、彼女は気が付いているのだろうか?いや、気付いているはずがない。今目の前には、見たこともない豪華な料理が、これでもかと並べられているのだから。おまけに、デザートまで!!
“いいですか、父上。姉さんから目を離さないでください。絶対ですよ!!”
と、口酸っぱくオリヴァーに言い聞かされていたはずの父マーカスの姿は、この時点ですでにジェシカの横にない。近くにすらない。踊り終えた直後、懐かしい面々に声をかけられ、アルコールを手渡され、すっかり同窓会状態になって姿をくらましていた。つまり、ジェシカを見守り、その奇行を止める人物は誰一人としていない。
「これ、全部タダなのね……」
うっとりと呟くジェシカの言葉が少々場にそぐわないことなど、彼女に心奪われた男どもに正確に伝わるはずもない。料理に向けるジェシカの視線に負けないほどうっとりした視線を彼女に向け、その足元では牽制し合う。
皿を手に料理を吟味するジェシカ。男どもには、そんな些細な動作ですら華麗に見えてしまうから不思議だ。
ジェシカに釘付けになっていた男たちが、“おや?”と首を傾げ出したのは、そのすぐ後のことだった。この華麗な乙女は一体何を選ぶのかと、もはや意味のわからない期待を膨らませていた彼らにとって、ジェシカの行動はあまりにも意外だった。
「これ美味しそう!!」
「うわぁ、なんだろうこれ?」
「あっ、お肉だわ!!」
「これは2個もらっておこう」
みるみるうちに盛り上がっていくジェシカの皿に、男どもの疑問がむくむくと膨らんでいく。が、ジェシカがそれに気付くはずも気に留めるはずもない。目の前の料理に心を奪われているのだから。
「うん。こんなものかしら?とりあえず」
“とりあえず?”と呟いたのは誰だろうか?口にこそしないものの、内心そう思った男は数人いたかもしれない。もちろん、ジェシカは知らないが。そのまま少しだけ脇のスペースに移動するジェシカ。首をひねりながらも、ジェシカに群がっていた男の8割ちかくが、ぞろぞろとついていく。
とりあえず、食事を始めた以上、この華麗な乙女はしばらく踊らないだろう。とはいえ、目を離した隙に抜け駆けする輩もいるかもしれない。と、離れることも誘うこともできない面々は、再び足元で軽い牽制を繰り広げていた。
「美味しい!!」
その熟れた苺のような赤い唇に吸い込まれていったのは、一体どの料理だったのか。咀嚼するジェシカの口元を堪能するように凝視する面々は、いろんな意味でゴクリと喉を鳴らした。
「まあ、これも美味しい」
「こんなの、はじめて食べたわ」
「ああ、作り方を教えてもらえないかしら?」
苺から時折発せられる小鳥のさえずりが、どこか妙だと感じた1割の男性は、また後でチャンスを狙いに行けばいいかと、そっとその場を離れた。もちろん、ジェシカは気付きもしない。
皿に山盛りだった料理のほとんどが、赤い苺に吸い込まれていった頃、ジェシカの一番近くにいた男が、さらに一歩彼女に近付いた。周りが慌てて牽制しようとするも少し遅く、近付いた男がジェシカに声をかける。
「失礼。はじめまして。私、バース侯爵が嫡男、エイベルと申します。お名前を伺っても?」
それまで皿の上の料理に釘付けだったジェシカの瞳が、ちらりとエイベルに向けられる。正面から見るその美少女ぶりに、エイベルの喉がゴクリと鳴った。彼の耳元に赤みが差しているのは、気のせいだろうか?初めてジェシカの視線を独占できたことに、はっきり言ってエイベルは今にも舞い上がらんばかりの気持ちだった。
「あら、はじめまして。ジェシカ・ミッドロージアンと申します」
“知っていましたとも。ええ、もちろんですとも”と、心の内で思った男は、エイベルだけではない。姿を見せない令嬢、ジェシカ・ミッドロージアンの名前を知らない結婚適齢期の貴族男性は、王都にそうそういない。
「この後、私とおどっ……」
最後まで言わせてもらえはしなかった。
そんな哀れな男エイベルの様子に気付いていないジェシカは、名乗ったのだからおしまいと言わんがばかりに、皿の上の最後の一品を食べ終わり、再び料理を取りに向かっていた。
「ジェ、ジェシカ嬢!!この後私と踊っていただけませんか?」
それでも気を取り直して、すぐさまジェシカの横に立ったエイベルを、ジェシカはちらりと見た。が、すぐに料理に向き直る。
「ぜひ、お願いします」
とエイベルがさらに食い下がれば、“食事の後でしたら”と返したジェシカ。
彼女の意識は、ほぼ料理に向いている。けれど、確かに彼女はOKしてくれた。
「約束ですよ」
あまりの嬉しさに天を仰ぐエイベル。その様子をジェシカは気にすることもなく、再びもくもくと皿に山を築いていく。
そこに、抜け駆けは許さないとばかりに、他の男達も次々に声をかけるも、もはや彼女の耳には届かない。今のジェシカには、料理のことしかないのだから。
「あら、これはさっきまではなかったわ」
「デザートも、そろそろいこうかしら?」
「はあ……チョコレートなんてはじめてよ」
ついにはデザートに到達したジェシカは、その夢のような光景にますますうっとりとして、その大きな瞳を潤ませた。
「ジェシカ嬢」
「私とも一曲」
「ええい、邪魔だ!!私は侯爵家の人間だぞ」
「爵位など関係ない。選ぶのはジェシカ嬢だ」
それまで足元で静かな牽制を繰り広げてきた男達は、エイベルの抜け駆けと自分達の誘いに気が付かないジェシカに焦れて、明確な牽制のし合いに発展してしまった。もちろん、チョコレートに魅せられているジェシカは気付きもしない。
そしてついに、ガシャンっとテーブルが倒されてしまった。
その時点で、さすがのジェシカもハっとした。
「何事だ」
「怪我人は?」
とたんに見張りで立っていた騎士達が駆け寄ってくる。もとより、集団になっていることに気付いていた騎士達は、そこに注意を向けていたため、駆け付けるのが早かった。群がる男どもの状態を確認しながら押しのけ、騒ぎの中心へ入ってくる。やっとその先にいるジェシカの元に到着した騎士が、彼女に声をかける……より一足早く、ジェシカの悲痛な叫びが響いた。
「あぁぁぁ……」
まるで、最愛の者を亡くしたかのような嘆きに、“え?”“けがでもしたのか?”“ドレスを汚したか?”と狼狽える男ども。
「け、怪我……」
気を取り直して尋ねようとした騎士の声を遮ったのは、それより大きなジェシカの声だった。
「もったいない!!」
今や、聞こえてくるのは楽団の奏でる調べのみ。辺りは静まり返っている。
「なんてことを……」
「ど、どこか、お怪我は……」
「食べ物を無駄にするなんて……」
わなわなと体を震わすジェシカに、もしかして相当怖い思いをしたのだろうかと、騎士が手を伸ばしてくるも、ジェシカは気付かず。バッと集まっていた男どもに鋭い視線を向けた。行き場を失った騎士の腕は、宙に浮いたままだ。
「罰が当たるわよ。反省なさい!!」
いささか的外れなジェシカの叫びに、もはや騎士でさえ言葉を失った。
「こんなに素晴らしい料理を無駄にするなんて……いいですか!!この料理がこうしてここに並べられるまでに、どれだけの人がかかわり、苦労してきたのか考えたことがありますか!!」
熟れた苺から発せられる予想外の言葉に、周りは凍り付いたままだ。
「野菜や豚や牛を育てる人。魚や貝を採ってくる人。運ぶ人、調理する人。そこにはたくさんのお金や時間も費やされ、こうしてここに並べられているのです。それを、それを……こんなふうにダメにしてしまうなんて……許せません!!」
もはやどこから何を突っ込んでいいのか……ポカンとする面々をよそに、ジェシカは手の付けられていない皿を持ち、倒れたテーブルに近付く。
「これはまだ大丈夫ね」
「こっちも助かったわ」
「ああ……このお肉。美味しかったのに。床に落ちてしまってるわ」
どうやら、料理が無事か無事じゃないのか選別をしているらしい。その令嬢らしからぬ姿に、ますますポカンとする面々。
「あぁ……これもダメになってしまってるわ」
「よかった。デザートのテーブルは無事ね」
新しい皿を手に、さらに選別を進めるジェシカ。
「ぷっ……くくく……」
その姿に、もう耐えられないと肩を震わせる人物がいた。振り返ったジェシカの視線の先にいた大柄な男性は、ついには声を立てて笑い出した。
「ははは」
「だ、団長」
我に返った騎士は、宙に浮いたままだった腕をやっと下ろし、助けを乞うような視線を、その大柄な男に向けた。
「団長?」
ここにきて、ようやくジェシカの意識が料理から外れた。
「いかにも。騎士団長のフェルナン・タウンゼンドだ」
「騎士団長……」
「ジェシカ・ミッドロージアン嬢だな?お怪我はないか?」
「怪我……」
首を傾げつつも一応自身の手足を確認するジェシカを、フェルナンは見つめた。
「大丈夫そうです。あっ、でもお料理が……」
しゅんと悲しそうな顔をするジェシカに、フェルナンは再び肩を震わした。
「あなたの言うとおりだな。本当にもったいない」
“でしょ?”とでも言うようにジェシカはコクコクと首を振った。
「もう少し、周りが見えないものか?」
フェルナンは、ジェシカに向けていたよりも幾段も鋭い視線で、テーブルを倒した男達を見た。何か言いたげだった彼らは、その視線の鋭さにぐっと息を呑んだ。次第に顔が青ざめていくのは仕方がない。戦の鬼とまで言われ、近隣諸国にまでその名を轟かせるフェルナンを知らない者は、この国にそうはいない。
「も、申しわけない」
「不注意だった」
口々に言い訳をして、そそくさと引いていく彼らを、それでもまだ、フェルナンは鋭い視線で射抜いた。その間にやっと動き出した使用人達は、ジェシカから皿を受け取り、片付けを始めた。
「ジェシカ嬢」
「はい?」
状況を理解しきれず、首をかしげるジェシカに、フェルナンが微笑を向ける。
「先ほどのあなたの主張は、なかなかためになった」
「主張、ですか?」
「ああ。食べ物を無駄にしてはいけないという」
そこでジェシカがハッとした。同志を見つけたのだと気が付いて。
決してフェルナンの側にそんな強い思いはなく、半分は共感したものの、もう半分は彼女をフォローしようとしたにすぎなかったのだが。
「ですよね!!ああ、もったいない。本当にもったいない。作ってくださった方々に申し訳ない」
「ぷっ……くくく……」
再び戦の鬼と呼ばれる大柄のフェルナンが肩を震わせていることにも気付かず、ジェシカは嘆き続けた。
「ジェシカ!!」
ここまできてやっと娘の様子に気が付いたマーカスが、青ざめた顔で駆けつけてきた。
「も、申し訳ありません。娘がこんな……」
てっきりジェシカがしでかしたと思い込み、土下座でもしそうな勢いでやってきたマーカスを、フェルナンが手で制す。
「いや。やらかした輩は、とっくに逃げ出しているので。お嬢さんのせいではありませんよ」
そう言いながらフェルナンが誰かに合図を送ると、しばらくして楽団が少しばかり演奏の音量を大きくした。我に返った出席者達は、ちらちらとジェシカ達の様子を伺いつつも、その場を離れていく。
「で、ですが……」
あまりの惨状に狼狽えるマーカスに、フェルナンは堂々と言う。
「大丈夫です。お気になさらず」
34歳のフェルナンに対し、42歳のマーカスの方がずいぶん頼りなく見えてしまう。自分はなにもしていないと、自信満々のジェシカは、遅れてやってきた父親を見つめた……のは一瞬で、まだテーブルに乗っているデザートを、物欲しげに見つめた。
「本当に申し訳なかったです」
どうやら二人のやりとりは終わったようだ。ことの次第を聞いたマーカスは、それでも娘にも悪いところがあった(主に食い意地が張っていたことについて)と謝罪の言葉を口にして、デザートを名残惜しそうに見つめるジェシカに“諦めなさい”と促しながら、会場を後にした。