紅花
愛だとか、幸せとか、そんな抽象的なもので己の人生を満たせるなら、いくらでもそんな言葉を口にすればいい。そうしたら、いつかあんたの脳はその「偽り」が「本物」だと錯覚を起こして、おめでたい人間が完成するから。「私もいつか愛されて幸せになりたい。」と口走る人に対して、いつしかそんなことを思い始めた。
目の前の全てが偽りで、本当はどいつもこいつも自分の欲求を、生物的な欲求を満たすためだけに生きてるんだって思ったその日から、私の周りの全てが色を失った。正直、そうなったのは結構早かった。私を作った女も、その相手も、その他の人間も、どいつもこいつも汚れてる。その汚れで、私自身も汚れていく。自分を汚さないと生きていけないから。仕方なく、汚れている。洗っても洗っても落ちないその汚れは、私の未来も黒くしていく。もはや、きれいになることはないだろう。このまま死んでいくんだって、そう思っている。
そして今日も、“疲れを癒やしに来た”男たちが、妓楼に足を運んだ。この場所がどんな場所なのか、知っているのか知らないのか、男共は全員、この場所を大いに楽しんでいる。表向きは娯楽の場所であるのに、本当のところは社会の陰にある場所だ。ここで働く女たちの多くは、自分の親に売られた身であり、そして私もまた、その1人である。
私を産んだ女もまた、元遊女だった。そこで出会った”殿方“と駆け落ちし、私がつくられた。これだけ聞けば、強引ながらも幸せに、世間の片隅で生きている夫婦とその子どもを想像するだろうか?もしそうだとしたら、私はあんたを”おめでたい人間“と、そう呼ぼう。そしてそんな思考を巡らすあんたに、現実という闇を、人間という汚い生き物の実体を、教えてあげようではないか。
私は知っていた。私を産んだ女も、その相手も、私をそいつらの金のために作り、産んだのだと言うことを。世間がいう“愛情”というものを、少なくとも私はみじんも感じたことがなかった。そしてそれは、私以外の私の“姉妹”もまた、おなじことを感じていたらしい。私たちは作られ、数年育てられた後に、淡々と生活の仕方を教わった。そして世の中のことも、たくさん教えられた。元遊女だったその女は、知識が豊富だった。1つだけ良かったとするなら、その女が私たちにありとあらゆることを教え込んだことだろう。それは実際遊女になってからも役に立った。それもそのはず、私たちを作ったその日から、その女は私たちを遊女として売るつもりだったからだろうということは、女が遊女の話をし始めてから分かった。
そしてもう一つ、私は知っていた。私たちを作った女と男の間には、愛がなかったことを。愛というものがなんなのか、考えるのも面倒だし、その必要性も全く感じない私であるが、あまりに愛を語る人が多いので、いつか誰かに聞いたことがある。その人は言った。
「私も好きで、相手も私が好き。両思いの関係で、いやなことがあっても、喧嘩しても、ずっと一緒にいたいって思える。それが愛。」
その2文や3文で語れるほど、「愛」とは単純なものなのかと、少し考えた自分はさておき、その人の言うとおりだとすれば、明らかに私を産んだ女と男は愛し合っていなかった。確かに2人は喧嘩しても同じ家で暮らしていたが、男はしょっちゅう帰ってこなかったし、家にいても夜で、男がほしがるままに女が相手をするだけの、それだけの関係だったと、客観的にみればそう感じる。それも、遊女として男の相手をしだしてから、そのことに気づいたのかもしれない。遊女として男の相手をする度に、男が、おまえが好きだの、愛してるだのいっても、結局は本当に私のことを知ろうともしないで、自分の欲求を満たすだけの、ただの動物にすぎない。俺は本当におまえのことを愛してるだとか、おまえのためなら死ねるとか、文字を並べただけで中身が空っぽな言葉は、今まで散々聞いてきた。結局は自分のためで、でも愛し合ってるふりをするために発する言葉にだまされて、その偽りだけの沼にはまっていく人間も、散々見てきた。
正直に言えば、「沼にはまった」という点を除けば、私もその1人である。生きていくために嘘は必要である。好きと言われれば好きと言うし、“恋愛”を楽しんでいるふりもする。あくまで遊女として、相手の欲求を満たしてあげている。そう考えれば、私もただのお人好しなのかもしれない。
ある雨の日。ある用で、町外れまで行っていたその帰り道。
「おい。」
と声をかけられた。振り返ると、刀を抱えた男が、小道にそって生える木々の一本にもたれかかって座ったまま、こちらを見上げていた。気づかなかったが、人がいたらしい。
「何か。」
私は言う。
「あんた、妓楼の女だろ?」
男は言う。
「そうですが。」
男が言いたいことはなんとなくわかった。どうせ、遊んでほしいのだろう。私が答えると、男は笑った。
「やっぱりな。あんたみたいないい女、一度見たら忘れねぇよ。」
「ありがとう。」
私は一応、ほほえんで答える。
「これから遊びにいらっしゃらない?」
勧誘も仕事の1つであるので、私は遊女としてその男に声をかけた。だが男は、いやぁ、といって下を向いた。
「あいにく金を持ち合わせてないんでな。悪いが、遊びに行けない。」
金なしで遊女に声をかけるなんて、たいした殿方だ。もしかして、タダで遊んでもらおうとでも企んでいたのだろうか?
「わりぃな、足止めして。あんたには一度声をかけてみたかったんだ。」
男はまた笑ってそういった。…ただそれを言うためだけに私に声をかけたのだろうか。それとも、なにか企んでいるのだろうか。私としては、後者を疑わずしていられない。だから、この男には気をつけた方がいい。金ももらわず相手をしたとなれば、妓楼の人が黙っていない。私たちは、その人たちが金を儲けるためだけにいる人形なのだから。
私自身、たびたび町外れに足を運ぶことがある。そしてあの日、あの男に会ってからというもの、町外れに行くたび、帰り道は必ずその男に声をかけられた。そのたび妓楼に誘うが、毎回金がないといって断る。そのたび私は話を切り上げ、その場から立ち去るのだが、あるときその男は、同じように金がないことを答えた後言った。
「俺はただ、あんたと話がしたいんだ。」
全く意味が分からなかった。一体何のために?こうやって仲良くなっていけば、タダで相手してもらえるとでも思っているのかしら。まあ、大前提として、その男となんかなれ合う気はないが。
「確か名前はお紅…さんだったよな?俺、あんたみたいな優しい人に会ったことねぇから、なんか毎回話しかけちゃうんだよな。」
男は笑った。確か一度自己紹介をしあったっけ。私はこの男の名前を覚えていないが。それに、「優しい」とは、一体どういうことなんだろう。
「私、殿方になにか差し上げましたか?」
私は聞く。
「ああ、毎回な。短くても、お紅さんと話すときほど楽しい会話をしたのは久しぶりでさ。ご覧の通り、俺ぁ浪士でさ、行く当ても住む場所もねぇんだ。」
だからって、毎度話す短い会話だけで私のことを優しいと感じるほど、単純な感性をこの男はもっているのだろうか。私が愛想良く話すのは、仕事であり、自分を隠すための仮面なのに。まあそんなこと、この男は知り得ないのだが。
「毎回、悪いな。足止めて。気をつけて帰れよ。」
男が言うので、私はほほえんで会釈し、その道を妓楼に向けて進んだ。あの男は何がほしいんだろうか。私は全然わからなかった。理解も解釈もできないほど、もどかしいものはない。ただ、他の男たちとは少し違うことだけは、そのとき感じられた。
そしてある日の夜、いつものように町外れに行ったが、その日は少し遅くなってしまい、また雨も降っていたので、まだ夕方であろうに辺りはすっかり暗くなっていた。そんな中、傘を差しながら、仕事に間に合うことだけを祈りながら必死に歩いていると、目の前を数人の人影が現れた。いつもの男ではなさそうだ。急いでいるのもあって、少し急きながら、
「あの、何かご用でしょうか?急いでいるのですが。」
と私は立ちふさがる4人に言った。
「お嬢ちゃん、こんな夜にどうしたの?1人でこんなとこ歩いてたら危ないよ?」
そのうちの1人が言う。
「お気遣い、ありがとうございます。私は大丈夫ですので、通していただけませんか?」
私が言うと、その人たちは笑いながら近づいてきた。
「ほんとうかなぁ?」
私は思わず少し後ずさりすると、後ろから誰かが私の右肩をつかんだ。しまった、後ろにもいたのか。きっとたちの悪い浪士か、人身売買の輩か。正直、ここでつかまって売られたとしても、私は何の問題もない。このまま抵抗して、身を危険にさらすくらいなら、おとなしくしていた方がいいかもしれない。そう思い、私はそれ以上抵抗しなかった。と、前にいた男が目の前まで来て、私の頬を片手の指ではさむ。
「ほう、なかなか上等じゃねぇか。」
男は感心して言う。
「兄貴、そいつたしか妓楼の女ですぜ?」
別の男が言った。
「じゃあ、遊ぶのもうまいのか?試してやるか。」
そういってその男は私の傘をうばい、それをほって、私を小道の端に押し倒した。ああ、また金にもならないことを。金もない浪士が。汚れが。必死に抵抗してみるものの、相手は元侍かなにかだろうし、力も強いから、かなうはずがない。売る前に汚すなんて、この者たちは売り屋なんかじゃなく、ただの男なのだろうか。だったら、逃げようとしなかった自分に少し後悔する。遊女なのに。こんなことに使われるなんて。むなしい限りだ。
そのときだった。周囲が騒がしくなった。他の男たちの騒ぐ声が聞こえた。私に馬乗りになっている男もそれに気づき、後ろを振り返るが、暗くてよく分からないらしい。ただ、部下の騒ぎ声にタダ事ではないと気づいたのだろう、その男は立ち上がって刀を抜いた。そして、闇の中に進んでいった。そして、強い雨の音のなかに聞こえる、男の叫び声。そして、また雨音だけが聞こえた。だがすぐに、誰かが走ってくる音が聞こえた。ああ、逃げる隙を逃した。そうまた後悔しかけた時だった。
「大丈夫か?!」
その声は聞き覚えがあった。その声の主が私の所に駆け寄ってきて、私を起こす。その男というのは、いつも町外れの帰り道に話しかけてくる、その人だった。男は私の傘を持ってきて、私にさしていた。少しぼーっとした頭を無理矢理回して、
「あ、ありがとうございます。」
と、私は急いで服の乱れを整えながらいった。
「怪我してないか?」
“何かされてないか?”と聞かなかったのは、何かされていたことが私の服の乱れから分かったからだろう。
「はい。大丈夫です。ありがとう…」
私が言い終わる前に、その男はいきなり、私の首に腕を回して、私を抱き寄せた。
「あ、あの…」
私は何も言わない男に問いかけるようにそういった。男は少し震えていた。
「大、丈夫ですか?」
この状況で私が大丈夫かと聞くなんて、変な状況だ。すると男はばっと私をはなした。その表情は、驚くような、恥ずかしさを隠しきれないような、そんな表情だった。
「いや、すまん、つい….」
男は目をそらしていう。私はふふっと笑って、
「助けてくれて、ありがとうございました。」
とほほえんでいった。男はそんな私をみてまた恥ずかしそうに目をそらして、
「当たり前のことをしたまでだよ。」
といった。
こんな人を、私はなんというか、知っている。彼のような人を、偽善者とよぶのだ。あたりまえのことだとか言って、人を助けて、感謝されることに気持ちよさを感じる。助けるのが当たり前とか言って、お節介をやいて、自分はこんなにも優しいんだと、他に見せびらかすことで、自分の地位を保つ。人に好かれようとする。この男もやはり、人間に過ぎないのか。人のことに首を突っ込むことほど、自分の人生は余韻があるということなのだろうか。どちらにしろ、人間くささは、この男にもあることが明らかになった。
私は男の手から傘をうけとり、立ち上がって、もう一度会釈して、その場を立ち去ろうとした。と、その男はまたもやいきなり、後ろから抱きついてきたのだ。今まで気づかなかったが、その男は私よりも頭一つ分くらい背が高くて、体つきがしっかりしていた。男は私の首に腕を回して、私を抱きしめた。
「俺、おまえが好きなんだ。」
やはり、この男も他の男と何ら変わりがないのだと言うことが、今はっきりと分かった。いい人ぶったあとに告白すれば、おちるとでも思ったのだろうか。本当に人間は馬鹿だ。
「いきなりこんなことされて、好きとか言われて、ほんと訳分かんねぇよな。」
私は何も言わず、絶えずほほえんでいた。わかってる。わかってるから。あんたも遊びたいんでしょ?あんたも男だって言いたいんでしょ?私を愛してるとか言って、同じ床で眠りたいんでしょ?でもそれだけじゃ、私はあんたの言うとおりになんかなってあげないわよ。私は遊女。あんただって分かってるでしょ。そう、心の中で言いながら、私は微笑み続けた。男の、私を抱きしめる力は強くなった。きっと、他の男と同じように、俺のものになれっていいたいんだろう。私だって、「もの」なんかじゃなくて、人間なんだって事は、さらさら男たちの頭にはない。
「じゃあ、今夜は来てくださる?」
私は遊女としての役割を果たそうと、いつものようにそう男に言った。男は黙っている。
「…今日もお金がないのかしら?」
言われる前に、私はそう聞く。と、男は
「そうじゃないんだ。」
と答えた。金はある、ということなのだろうか?
「俺は…ただおまえと一緒にいたいだけなんだ。ただ隣で、笑っていてほしいだけなんだ。」
どういう意味なのだろう。笑っているだけでいい…?
「自分勝手なことしたり、言ったりしてるのはわかってる。だが俺は…」
「そう言っていただけるだけで、私は嬉しいのですよ。もう少しお話ししていたいいのですが、私行かなければならないので、失礼してもよろしいでしょうか。」
急ぐ気持ちも確かにあったが、何よりこの気味の悪い状況を脱したくて、私はそういった。と、男ははっとして、私を離し、
「すまん!出過ぎた真似を…」
といった。私は振り返ってその男を見、ほほえんだまま、
「ありがとう。」
といって、会釈し、その場を去った。男が後ろから歩いてくる足音は聞こえなかった。
それから一週間ほど経ったある日の昼間、用事で出ていたときのことだった。用事も済ませ、いったん妓楼に戻ろうとしていたとき、騒がしい声が聞こえた。みると、侍が3人ほど、誰かを追っていたが、見失ったようで、必死で探しているようだった。私はなんとなく、あの男の顔が浮かんだ。そして私はなんとなく、あの男を捜してみようと思ったのだ。
しばらく探していると、町外れの川側の草むらにたどり着いた。と、そこで草同士がすれる音が聞こえたので、私はその中に入っていった。と、草むらにいる別の何かは、逃げているような急いだ足取りであることに気づいた。きっと、さっきの侍が探していた人に違いない。私も足をはやめた。と、その何かが倒れた音を聞いたので、私は急いで近づくと、高い草むらを抜けた先に倒れ込んでこっちを見上げていたのは、やはりあの男だったのだ。
「おま…なんでここに。」
男は驚いて言った。私はほほえんでしゃがんだ。
「音がしましたので、猫か何かいるのだと思ったのですが、まさか殿方だったなんて、びっくりです。殿方はここで何をしてらっしゃるのですか?」
私に告白して以来、初めて会うのだが、あの日のことを恥ずかしく思っているのか、男は顔をあからめて目をふせた。
「あ、いや、実は追われていて…」
「この間の浪人殺しの件ですか。」
私が言うと、男は一瞬私をみて、またうつむき、うなずいた。実はあの夜、私を襲った浪人を切ったことで、この人が容疑者として追われているというのは、町中に張られている人相書きでわかっていた。この人自身、長年別の件で追われている身であることはその人相書きが出回ってから知った。そしてそれを知る彼を見た町の人が真っ先に彼を疑い、あのような人相書きが出回っているのであろう。まあ、偶然にもその仮想は現実なのだが。
「殿方も大変ですね。」
私はまるで人ごとのように笑ってそういった。その男は苦笑いする。
ここじゃみつかると、私はその男を町外れの、木々が多い茂る茂みの奥に連れて行った。私もお人好しだな。そう思った。そしてそこで、しばらく男と話していた。たわいもない話を。と、男は急に顔を曇らせ、
「今はこうしていても、いつかは見つかって処刑されるんだろうな。」
といった。男の罪は、どうやら重いものらしい。何をしたかは、興味もないので聞かなかった。
「誰かに殺られるなら、いっそのこと自分で腹切った方がいいぜ。」
男は笑って言う。笑っているが、真剣なのは、その目で分かった。私は何も言わなかった。と、男が私を見て、真顔で言った。
「なあ、一緒に死んでくれねぇか?」
一瞬驚きを隠せなかった。急にそんなことを目を見て言われて、動揺しない人はいないだろう。
「…わかってる、わかってるんだ。おかしいこと言ってるって、おかしいこと考えてるって、わかってるんだ。でも…でも、俺、押さえられないんだ。おまえがほしすぎて…」
死んでも愛してるふりを続けたいなど、この男はどこまで「愛」という言葉におぼれているんだろう。この世に未練がないのは私も同じだ。正直、あの世という別世界に、少し興味はあった。人間によってできている「この世」はこんなにも暗いなら、人間があふれる「あの世」もきっと暗いかもしれない。でも、もしかすると別の世界が広がっているのかもしれない。私は微笑み続け、何も言わなかった。
「でも、俺におまえは殺せねぇ。おまえを傷つけるなんか、無理だ。だから、だからさ、俺の後におまえも死んでくれよ。そしたら俺は….」
そう言って、男ははっとした表情を見せた。そして、自分が言ったことに恐怖を覚えているようだった。
「あぁ…わりぃ、俺何言ってんだ。自分の欲求を他人に押しつける何かして….」
男は座ったまま、顔を手に埋めた。これほどまでに欲求をはっきりさせ、それに自分で気づいた人は初めてだ。私はなんだかおかしくなって、ふふっと笑ってしまった。それを男は聞き逃さず、笑った私を驚いた表情でみた。
「馬鹿みたい。」
私は笑ったまま言った。と、男も口角をゆるめ、笑い出した。
「だよな!俺ほんとなに言って…」
「いいよ。」
男が言い終える前に男を遮って私がそういうと、男はぴたりと笑うのをやめ、また驚いた表情で私をみた。
「あんたと一緒に死んであげる。」
男は何も言わなかった。というか、驚きのあまり言葉が出ないのだろう。
「死にたいんでしょ?」
男はまだ何もいえずに、私から目を離し、驚いた表情のまま、地面をみた。
「あんたが怖いって言うなら、私が最初に死んであげるよ。」
そう言って、男が腰に差していた短刀をとり、そこに正座して、短刀の柄を両手にもち、自分の腹部に向け、振ろうとした。と、男がとっさに私のその腕をつかんだ。男をみると、男は驚きと恐怖を感じているような顔で私をみていた。私の腕をつかむその手の力は強かった。
「なんで…」
やっと男の口から出てきた言葉はそれだった。
「なんで、って、あんたがそう言ったんじゃない。」
私は答える。男が考えていることが、正直よく分からなかった。私を殺したいのか、生かしたいのか、一体どっちなんだろう。
「言ったけど、ほんとにやろうとするなんて…」
「見くびらないでよ。この世に未練なんかないもの、死ぬその一瞬なんか怖くないわ。」
私が言うと、男は私の腕をつかむその力をゆるめて、うつむいた。
「…俺のせいか。」
男はぼそっという。
「何が?」
また、私はその意味が分からなかった。
「俺が死のうなんて言ったから…。おまえに死ぬことを考えさせちまったんだな。」
「勘違いしないで。あんたのために死ぬんじゃないんだから。私だって、もうこの世がつまんなくなっただけ。だからあんたと一緒にあの世までいってあげようって、いってるだけじゃない。」
私が答えると、男は私を見て、そして笑い出した。一体何がおかしかったのか。
「やっと、本心が聞けた。」
男は嬉しそうだった。あんたのことなんかこれっぽっちも考えてないって言ってるのに、それがそんなに嬉しいんだろうか。本当にこの男は、最初から全然わからない。
「ありがとな。」
男はそういった。そして、私がもっていた短刀をとり、そこにあぐらをかいた。そして小袖の襟の下方を広げ、腹部の包帯が見えるように開いた。
「…あっち向いててくれないか?」
男は恥ずかしそうにいう。ここにきてプライドを気にするのか。武士の誇りか何かは知らないが、よくわからない。私はそのまま、後ろをむいた。まあ、人の死に際を見たがるなんて、不謹慎そのものかもしれないが。
「俺が刺したら、もっかいこっち向いて。」
男は付け足した。死に際は私の顔を見ていたい、ということだろうか。私の死に際は、私1人なのに、やっぱり自分のことしか考えてないのね。最後まで自分勝手なその男は、逆に潔いというか、やっぱりなんかおかしい人だ。
そして、大きくはあらげないものの、できる限り押し殺した声で、男がうなった声が聞こえた。きっと今、短刀を腹に刺したのだろう。そしてわずかに、短刀が動く音がする。と、
「お紅」
と、私を呼ぶ小さな声が聞こえたので、私は体を男の方に向けた。腹部から血がながれながらも、男はなんとかあぐらをかいて座ったまま、私の目を見た。そして、側部に血のついた手を私の頬にあて、ほほえんだ。
「待ってる」
そう言って、男は力尽き、地面に倒れた男の血が地面に広がり、そこは小さな血の池のようになっている。みると、自分の腹を刺した短刀は、ご丁寧にも男の座っていたそばに、拭かれた状態で置かれていた。私はその短刀を手に取った。血の池でまた少し汚れた短刀をそのまま両手に握り、倒れている男のそばで正座して、腹部の前にかまえた。
私がこのまま裏切って自害しなかったら、とは考えなかったのだろうか。それでもこの男は死ぬ気だったかもしれないけど、それでもきっとむなしかったに違いない。でも私は、ちゃんと待ってるあんたのとこに行くから。今生きてるかも分からない、私の“家族”のことも、妓楼の他の遊女のことも、私を愛してるとか言った男のことも、何も知らないまま、私はこの世とお別れを告げようと、その短刀を腹部に刺した。これまでにない痛みを感じる。私も生きていたんだ。このとき初めてそれを感じた。そしてそのまま、私も横に倒れる。目の前には、目をつむって、なんだか安らかな表情で死んでいる男がいる。
あんたなんか愛してないけど、あんたなんかどうだっていいけど、あの世には興味があるから、今からそっちに行くね。あの世に行くまでの道中で、私のこと待ってくれているのかしら。だってあの世に着いたら、あんたともお別れなのよ。後生もずっとあんたと一緒なんか、絶対いやなんだから。そこに愛なんてないんだから。だれもかれも、自分のために生きて、自分のために死ぬのよ。それ以上のことなんか、本当は存在しないんだから。それ以上のことは、望むだけ無駄なんだから。せいぜい楽しもうじゃない。自分だけの人生を。自分だけのために。これからも、ずっと。
そして私もこの世とお別れをした。長かったようで短かった、「お紅」としての人生の幕を閉じた。
そしてそこに残る2つの死体。2つの抜け殻。その状況を見て、人々は何というのだろうか。“愛に行き、愛に死んだ、不幸な恋人の物語”?それとも、後生も、生まれ変わっても、つながり、そして真の愛に生きる、2人の恋愛物語?そうあなたが考えるなら、それでいい。たとえそれが真実と違ったとしても、たとえそれが不幸と呼ばなくても、たとえそれを、愛と呼ばなくても。あなたの人生、あなたのものだから。あなたの主観で物事をみればいいの。だけどそれが真実と違ったと気づいたとき、あなたはどうするの?間違いを認めるか、それとも…。
きっと多くの人は後者を選ぶんだろう。だから現世は暗い。いつまでも晴れない闇に包み込まれて、誰しもそこから抜け出せない。それもこれも、みんながみんな、自分が大切だから。他人なんて、興味がないから。私の言っていることは矛盾してるって?そうかもしれない。だけど、そうやって、矛盾の中で、人間のエゴで、人間の社会で生きてゆく。それが人間だってことは、過去も未来もずっと変わらない。そしてまた人間に生まれ変わった私も、きっとその中で「人間」として生きていくのだろう。人間は生まれ変わっても、社会は生まれ変わらないのだから、その一生で汚れに手を汚す。人間は生きていくために、自分を守るために、自分の歴史を繰り返すのだ。
――――――
昔から自分勝手だって事は気づいてた。だが、時にどうしようもなく自分をコントロールできないことが、昔からあった。
俺が初めて嘘をついたのは、俺が九つの時だった。
俺はガキの頃、仲の良かった、小春という女の子がいた。そいつは女のくせにけんかっ早くて、よく父親に怒られていた。俺の親も、そいつの親とは仲が良かった。両家とも農民で、貧しいながらも毎日幸せだった。ある一部を除いては。
俺らが他の子どもと遊んでいるところに、時たま“武士”家の子どもがやってくる。そいつらが俺は気にくわなかった。それは他の子どもも同じだった。そいつらは俺らの所に来ては、農民の悪口を言っていくのだ。そのたび小春は怒って、そいつらに殴りかかっていた。その子どもは、威勢はいいものの、実際は弱虫のようで、小春にはいつもしてやられていた。
「武士の子どもか何か知らないけど、農民の方が強いんじゃない?」
小春はそんなことをいって、いつも俺らを笑わせていた。だがほんの少し、怖い物知らずの小春が心配でもあった。
そしてその心配は、不運にも的中したのだ。
ある雨の日、両親の手伝いをし終え、小春や他の子を誘っていつものように離れの丘の木のまわりで遊びに誘おうと、小春の家に行った。だが、小春の両親は、小春はもう遊びに出たよと教えてくれた。俺たちが遊ぶのは、その丘がいつもだったから、小春はきっと他の子も誘ってもう丘に行っているんだろうと思った。そして小降りの雨の中、丘にたどり着いた。丘の上には、人影が何人かあった。きっと小春と他の子だろうと、俺は急いで上がろうとした。すると、驚く光景を目の当たりにした。小春であろう人影に走る一本の線。そして小春は、そのまま後ろに倒れた。俺は丘の下で、呆然と立ち尽くしていた。すると、他の子どもは慌てるように騒ぎ、そして、逃げた。一瞬何が起こったのか分からず立ち尽くしていたが、すぐに意識をもどし、俺は急いで丘を駆け上がった。そして、倒れた人影に近づいた。丘のてっぺんにたどり着くと、そこに倒れていたのは、やはり小春だった。そして、小春の体から、血がたくさん流れ出ていた。俺はどうすることもできなかった。
「小春!!小春!!」
俺は小春の名前を叫び、小春をゆすった。でも、反応がなかった。段々強くなる雨のせいで、血がどんどんあふれ出、流されていく。小春は死んでいた。
そして、俺は全てを悟った。さっきの子どもは、いつも遊ぶ農民の子どもではなく、いつも冷やかしに来る“武士”の子供たちであろうことを。その1人が、小春を殺したのだ。その瞬間、俺の脳は怒りと憎しみではじけそうになった。俺は叫んだ。
どうして小春は殺されたのか。どうしてあいつらは小春を殺したのか。どうしてこんなことができるのか。
そして、俺の中に一つの野望が生まれた。
奴らに復讐してやる。
そう決心したその日から、俺の人生は一本になった。
その後、俺は小春の屍をかかえ、農地に戻った。小春の両親は叫んだ。俺の両親は泣いた。その他の、農民の仲間も、子供たちも、激しく振る雨の下、一斉にどん底に突き落とされた。
誰がやったの。
口々に大人たちは俺に聞いた。
「知らない」
俺はそういった。初めて嘘をついた。とても大きな嘘を。こんなこと、許されないと知っていた。小春の両親に対する大きな裏切りともいえた。だが、俺はそうせざるを得なかった。俺の復讐を果たすために。俺がこの手で、やつらの息の根を止めるために。
そしてその後、俺は力を得るために、武士になることを決めた。町の鍛錬場に赴き、武士になるための稽古に励んだ。家は貧しかったものの、両親はなんとか稽古代をだしてくれた。そして稽古を始めたその日から、俺は稽古に行って鍛錬に励み、家に帰っては両親の手伝いと自主的に稽古に励んだ。
周囲の大人たちは、賛否両論だった。親孝行のためだと肯定してくれる人もいれば、小春を殺したのは武士の野郎なのに不謹慎だと言う人もいた。小春の傷口から、それが刀によるものだと言うことがわかっていたからだ。だが、小春の親は違った。俺がしたいことを、そのまま応援してくれていた。もちろん、俺の親も、俺を止めようとはしなかった。その点、俺は恵まれていたんだろう。
月日が流れ俺が15になった年、俺はようやく野望の第一段階を終えた。その年俺はある藩につくことができたのだ。これで我が家も安泰と、両親は喜んでくれた。もちろん、俺の安全を第一に願いながら、両親と他の農民の人たちは俺を快く送り出してくれた。
これから復讐劇が始まる、といっても、正直無謀な挑戦だった。小春を殺した犯人は、どこにいるかも、名前は何かも、今武士なのかも知らなかったからだ。だから、俺は片っ端から、あの頃俺の家の地域のあたりに住んでいて、そういう身なりの人を徹底的に洗い出すしかなかった。本当なれば、一生かかっても実現するか分からないことだった。
だが、天は俺の見方をしてくれたようだ。
俺がこの世界入って六年がたった、俺が21の年、俺はようやく小春殺しの犯人の目星をつけることができた。だが不運にも、その男共というのは、俺らの藩が親睦を深めていた別藩の奴だったのだ。さすがの俺も、この状態で奴らに手をかければ、どうなるかということくらい、分かっていた。だから、やむなく俺は脱藩することにした。正直気が引けた。復讐が俺の野望なのは変わらないが、この世界に入って、この藩に入って、なんとも居心地がよかったのだ。他の仲間も、藩の人も、とてもよくしてくれた。元農民だった俺に、この世界のことを何も知らない俺に、たくさんいろんな事を教えてくれた。そんな人たちと離れるのは、とても気が引けたのだ。
だが、俺はやるしかなかった。他に道はないのだ。あの日からずっと、俺の道は一本しかないのだ。
そう思い立ち、脱藩を決意した一年後、22になる年に、俺は完全に脱藩することとなった。親にも、前々から収入が減ることは、手紙として伝えてあった。そして脱藩したその日、俺は実家に、脱藩したことを伝える手紙を送った。もう、帰ることもないだろうと、そのとき薄々思っていた。それに、復讐のことをいえば、いくら俺の親でも絶対反対する。そして小春の両親にもそのことが伝わり、俺が裏切り者だって事もわかってしまう。復讐のことは、誰にも言うことができなかった。
脱藩したその年。俺は行動を急いだ。数ヶ月後、ついにその機会に巡り会えた。夜桜がきれいな、ある春の夜だった。俺が、奴らが通るとふんでいた道ばたで待ち構えていたとき、やはり奴らは現れた。楽しそうに会話をしながら。俺の気も知らないで。小春のことなんか忘れたとでも言うように。俺たちはすでに顔見知りであったため、俺がわかりやすく道ばたにいるのを見た瞬間、前を歩いていたその男は嬉しそうに俺に声をかけてきた。
「なんだ、元さんじゃないか!どうしたんです、こんな夜に。夜桜見物ですかい?」
全くのんきなもんだ。これから殺されることも知らないで。
「ええ、あまりにきれいだったもので。」
俺は笑って答えた。ばかばかしいと思った。
「…実は、本当は貴殿に話がありまして。」
とりとめのない話をするのも時間の無駄だと思い、俺はやっぱり、本題を切り出すことにした。
「…話、とは?」
男は不思議そうな顔をする。
「もう13年前になりますか、あなたもご存じの私の住む村で、1人の女の子が殺されたんです。」
それを聞いた男らは、さっきとはうってかわって、血の気が引いたような顔を見せた。覚えているのだろうか。
「あれは雨の日でした。ある丘の木下で、村の農民の子どもが、刀で切られて、死んだんです。」
俺がそれをいうと、男共は言葉を失っていた。
「そ、それをどうして我々に…」
ようやく、男共の1人が口を開いた。
「ご存じないんですか。」
俺は聞いた。言葉が詰まる男共。先頭の男は、まっすぐに俺を見ていた。やはり、こいつらで間違いないようだ。すると、その男は一息息を吐いて、観念したように口を開いた。
「どうやら、逃れはできないようだ。」
逃れようとしていたのか。その台詞にさらに怒りを覚える。
「俺たちも、いつまでも黙っているわけには行かないと思った。でも、気づけばここまで来てしまったんだ。」
すると、その男はその場に足を着いた。そして、土下座したのだ。
「だが頼む!!もう少し見逃してくれ!!俺らにはどうしてもこなさなければならない仕事があるんだ!!」
無様だった。武士たるものが、土下座するなんて。それも、己の罪を見逃してくれと言うために。あきれたお侍様だ。すると、他の男共も、次々と膝をつき、頭をついた。俺がほしいのは、こんなものじゃない。謝ったって、許せるはずもない。こみ上げる怒りで、拳に力が入る。
「…認めるんだな。」
俺は言った。
「ああ。あの日のことは良く覚えてる。」
男は言った。
「なんでなんだ。なんで殺した。」
俺は質問を責める。
「…あの頃はなにもかも許されないことをしていたと、今では思う。子どもだからって、許されることではない。子どもの逆上だからって、人を殺していいはずがない。」
男は答えた。あれはいつもの仕返し、とでもいいたいのか。いつも小春が強くて、してやられるから、今度は武器を持ってやってきて、その一本の凶器で力を見せつけようとしたとでもいうのか。そもそもはこいつらが悪いのに。誇りを傷つけられたか何か知らないが、許されないと分かっていて、ここまでのうのうと生きてきたなんて。罪深き人殺しが、いつからか心を入れ替えて改心しましたと言って、自分のしたことの罪を晴らそうともしないで、みんなのために刀を振ってきましたって?そんなこと、許される、はずがない。
殺す。
そう思い立ったら最後、俺は刀を抜いた。その音に気づき、男共は顔をあげる。もはやこれまでかと、引き下がるのかと思いきや、そいつらもとっさに立ち上がって刀を抜いた。
「おまえには謝っても謝りきれないが、俺らもここで死ぬわけには行かないんだ。」
男はかまえながらそういった。
そんなこと、どうだっていい。
どうあがこうと、俺はおまえらを殺す。
ただ、それだけだ。
そして、俺らは斬り合いになった。向こうは5人。俺は1人。俺に勝ち目はない。そう思っていたに違いない。俺だって、無駄に鍛錬してきたわけじゃない。腕だって、藩の仲間にも認められていた。瞬発力だけは誰にも負けなかった。
そして、気づくと5人とも、地面に伏せて血を流して倒れていた。まだ切り足りなかった。
なんで。なんでなんだ。
なんで小春が死んで、おまえらは生きていたんだ。
裕福な暮らしをして、ろくな努力もなしに、ここまできて、
自分たちの罪はひた隠しにして、のうのうと生きやがって。
生きてる価値もない下人が。
生まれてきたことを後悔するぐらい、もう人間には生まれたくないと思うぐらい、
ずたずたにしてやる。
気づくと辺りは血の海だった。五つの死体は、どれほど切られたかわからないくらいになっていた。その顔も、よくみないと誰かわからないくらいだった。見ると、俺自身も返り血が酷かった。このままでは、すぐにつかまってしまう。俺はとっさに、その場から逃げ出した。
桃色の桜の花びらが覆うその道は、一瞬で紅色に染まっていった。
どうして逃げたのか、どうして逃げているのか、それから五年にもわたる逃亡生活をしながら、俺はよくそのことを考えていた。あの場で俺の人生は終わった。一本の、復讐劇という名の俺の人生は、あのとき終わったはずだったんだ。なのに、なぜ逃げ出したりしたんだろう。もう生きてる意味も、価値もないのに。
あれから五年経ったある日、新たに赴いた地で、俺は衝撃を受けた。ふと立ち寄った、夜の町で、ある建物の前にいて誰かと話をしていた、その女性に、俺は目を奪われた。その人は、すごく似ていたんだ。幼くして死んだ小春に。その女性は九つで死んだ小春よりも年は離れていて、それでも十代後半か、もしくは二十代前半だっただろう。でも、何か、小春を思い出させるような、そんな雰囲気が漂っていた。しばらくみていたせいで、その人は俺に気づき、そしてほほえんで会釈をした。俺も慌てて会釈を返す。そしてその人は店の中に入っていった。その後も、衝撃のあまり、俺はその場に立ち尽くしていた。
それからというもの、俺はあの女性のことが忘れられなくなった。小春の母親は村でも際だって美人であり、小春の父親もしっかりした風貌だった。そのため、小春も子どもながら整った容姿だった。小春が大きくなったら、きっとあの女性のような風貌になっていたんだろう。あの人は一体、どんな人なんだろう。話がしたくて、仕方なかった。
すると、そんな俺に天は機会を与えてくれた。ある雨の日。俺は町外れの木の下で雨宿りをしていたときだった。向こうから、誰かが歩いてきた。その音は、下駄のような音であったため、きっと女の人だろうと思った。まさかとおもい、俺はその人影をみていた。そして、その人が近づいてくる度、俺の予想は的中した。一目見てから忘れられなかった、その女性だった。その人は、りんとしていて、まっすぐその道を歩いて行く。その人が俺の前を通り過ぎたときだった。
「おい。」
俺は思わず声をかけてしまった。その人は振り返り、
「何か」
という。
「あんた、妓楼の女だろ?」
初対面の女の人に、なんとも乱暴な言い方をしてしまったと、言ってから後悔した。だが、女の人は変わらずに話す。そして俺はまたもや言ってしまった。
「あんたみたいないい女、一度見たら忘れねぇよ。」
こんなにも恥ずかしいことはないくらい、俺はそのとき淡々とその人にそんなことを言った。だが、その人はやっぱり変わらず、ほほえんで、ありがとう、という。
「これから遊びにいらっしゃらない?」
その人は言った。それもそうか。妓楼の遊女なら、声をかけてくる男はみんな金になるかもしれない大事な一札だ。そして、同時に申し訳なさがこみあげてきた。五年もの逃亡生活で、とっくに金はつきているのに、妓楼の遊女に声をかけるなんて。俺は気が利かなかった。
「あいにく金をもちあわせていないんでな。悪いが、遊びにいけない。」
俺はそう答えるほかなかった。そして足止めしたことを謝り、俺はその人を見送った。金がなくても、どうしても、俺はあの人のことが知りたい。金がないことに申し訳なさを感じつつ、俺は自分の欲求を抑えることができなかった。
それからというもの、俺はその女の人がここを通る度に、声をかけた。そして、少しだけ会話を強いた。彼女は「お紅」というらしい。そして妓楼にきて五年ほど経つという。やはりその風貌などから、まだ二十前後であることは間違いなさそうだ。お紅はいつもほほえんでいた。そして、感じが良かった。短い会話ではあるが、話し上手であることは、良く伝わってきた。そして、なにより、こんな俺のために毎回足を止めてくれるお紅は、優しい人だということも、よく伝わってきた。毎回妓楼に遊びに来ないかと聞くことから、仕事のためだろうことはなんとなくわかっていたが、それでも毎回話してくれる、そんなお紅のことを、俺は次第に好きになっていった。それに、お紅と話すとき、時たまとてもいい顔をするのだ。普段の微笑みとはまた違う、なにかいい表情を。
そしてあの雨の夜、事件は起こった。いつものように道外れで休んでいると、なにやら騒がしい声が聞こえた。俺はすぐさまたちあがり、そっちの方に向かう。と、刀を持った男が何人か見えた。男たちの目線の先で、なにかがうごめくのをみた。そして、女の人の声が聞こえた。その声は、知っていた。俺は全てを悟った瞬間、頭より先に体が動いた。気づけばその男たちを切っていた。そして、最後に刀を振り上げ、近づいてきた男を、男が動くよりもさきに動き、切った。四回か、五回ほど刀を振った後、我に返った。そこに落ちていた傘をひろい、すぐにその女性の方に向かった。
「大丈夫か?!」
俺は傘をもちながら、その人を起こした。やはり、お紅だった。
「あ、ありがとうございます。」
お紅はとっさに乱れた服を直していた。やはり、あの男は….。
許せない。許せない。許せない。
俺は怒りで狂いそうだった。そして気づけば、俺はお紅の首に腕を回して抱きついていた。
「大、丈夫ですか?」
そう声が聞こえて、俺は我に返り、ばっとお紅を離した。恥ずかしくて、顔から火が出そうだった。
「いや、すまん、つい…」
俺は動揺を隠しきれなかった。すると、お紅はふふっと笑った。俺はお紅を見た。初めて笑った。それが新鮮で、俺はなんだか嬉しかった。
「助けてくれてありがとうございました。」
お紅は言った。すると、また恥ずかしさがこみ上げてきて、俺はまた目をそらし、
「当たり前のことをしたまでだよ。」
といった。なんとも上からな物言いで、人殺しが何いきがっているんだと、後から思えばそう思う。でも、そのときは何を言えばいいか分からなくて、そんな言葉が出てきてしまった。
すると、お紅は俺が持っていた傘をとり、立ち上がって、会釈した。そして、その場を去ろうとした。そんな背中を見て、俺はまた、どうしようもない気持ちに襲われた。そして再び、考えずに行動を起こしていた。俺はお紅を後ろから抱きしめていた。
「俺、おまえが好きなんだ。」
そして、そう言っていた。最近あったばかりの、知らない浪士にこんなことをされ、言われて、さすがのお紅も俺のことが嫌いになっただろう。でも、そのときの俺は、我慢ができなかった。だが、お紅はほほえんでいた。どうすればいいのか、分からないのだろう。俺なんか、愛される価値も、誰かを愛する価値もない、人殺しの浮浪者だから。
そんな俺に、いつものごとく、お紅は店に誘った。
ごめんな、いつも金なくて。本当は、おまえのためになるなら、なんだってしたいんだ。
俺みたいな奴が、おまえみたいな人を好くことすら許されないのに。
俺みたいな奴がおまえにこんなことをすることすら許されないのに。
「…今日もお金がないのかしら?」
黙っている俺にお紅はそういった。
「そうじゃないんだ。」
俺は答える。そして、付け加えた。
「俺は…ただおまえと一緒にいたいだけなんだ。ただ隣で、笑っていてほしいだけなんだ。」
そうだ。俺はおまえのそばにいたいだけなんだ。小春に似ているからとか、そういう理由じゃなく、おまえが好きなんだ。おまえを愛してるんだ。お紅がどう思ってるかじゃなくて、俺は…
すると、お紅は店に行く気のない俺の話をまた切り上げようとした。
そうだよな。自分勝手なのは、わかってるんだ。おまえの気持ちも、大事だよな。
「すまん!出過ぎた真似を…」
俺はそういって急いでお紅を離した。
「ありがとう。」
お紅はまたほほえんで、そういった。そして俺に会釈し、帰り道を歩いて行った。俺はただその背中をみていた。
もうお紅に会うのはよそう。
俺はそう決心した。お紅の人生に、俺が足を踏み込む隙間なんて、ないんだから。これ以上お紅を困らせるのも、だめだよな。
雨が降りしきる中、俺はその場に座り込んで、真っ暗な空をただみあげていた。
それから数日後、俺は追われる身となった。このあいだお紅を襲った浪士殺しによるものだった。どうやら、五年前の殺しによる指名手配がこの町にもあり、それで俺の姿を見た誰かがきっと俺を疑ったのだろう。どっちにしろ、逃亡犯だから、追われることにはなった。そしてそれからまた数日後、河原の草むらに身を潜めていたとき、誰かが来る音がした。見つかる。俺はとっさに逃げた。その音はどんどん近づいてくる。必死に逃げたが、足がもつれて俺はこけてしまった。丁度草むらを抜けた辺りだった。終わった。そう悟った。だが、驚くことに、草むらから出てきたのは、なんとお紅だった。
「おま…なんでここに。」
俺は驚きを隠せないままそういった。すると、お紅はほほえんでしゃがみ、
「音がしましたので、猫か何かいるのだと思ったのですが、まさか殿方だったなんて、びっくりです。殿方はここで何をしてらっしゃるのですか?」
といった。猫を追いかけてきたといったお紅が少しかわいく思えたが、それよりもあの夜以来会うので、俺は突然抱きついて告白したことの恥ずかしさをかくしきれないまま、追われていることをいった。
「この間の浪人殺しの件ですか。」
お紅はいった。まあ、知っている話か。俺はうなずく。
「殿方も大変ですね。」
お紅は笑って言った。大変なのは、五年間かわらないがな。そう思いながら、俺は苦笑いする。
すると突然、お紅は俺の腕をつかんだ。
「こっち。」
そう言って、俺を引っ張り、その場から離させた。どこに連れて行くのだろう。まさか、俺を…。だが、その予想はすぐになくなった。お紅は俺を、町外れの植物の多い茂る茂みに連れて来たのだ。お紅は俺を助けてくれた。やっぱり、優しいじゃねぇか。自分の優しさに気づいていないようなお紅を見ながら、俺はそう思った。
そしてそこでしばらく話をしていた。とりとめもない、普通の話を。もうお紅には会わないときめたのに、すぐにまたこうなってしまった。お紅には本当に申し訳なかった。
「今はこうしていても、いつかは見つかって処刑されるんだろうな。」
何かむなしくなってきて、俺はそういった。
「誰かに殺られるなら、いっそのこと自分で腹切った方がいいぜ。」
そして笑ってそういった。殺しをしたという罪はあるが、それでも俺が殺した奴らは俺同様罪深い者だ。そんなやつらを裁いていない奴らに、 “罪もない人たち”を惨殺した罪で殺されるのは、奴らに罪はなかったということになるのだろうから、それも我慢できない。なら、切腹を許されない俺ではあるが、誰にも知られず、自分自信で腹を切りたいと思った。
そしてまた、とんでもないことを考えてしまった。
「なあ、一緒に死んでくれねぇか?」
俺はお紅にそう言っていた。さすがのお紅も、驚いた表情をみせた。お紅のことはもう諦めたはずなのに、他の奴にお紅を汚されることが何より耐えられなかった。それならいっそのこと、一緒に死んでくれた方が…。俺は思うままにお紅に思いをぶちまけていた。恥なんて、話している時はなかった。ただ、お紅といたかった。死んでからも、ずっと一緒に。
散々言った後、いつものごとく、俺は自分の言ったことにおののいた。
「あぁ…わりぃ、俺何言ってんだ。自分の欲求を他人に押しつける何かして….」
俺は恥ずかしさのあまり手に顔をふせた。俺はお紅の人生を、俺の私欲だけのために奪おうとしたんだ。それ自体も、決して許されることではなかった。ここから逃げ出して、すぐにでも切腹したい。
と、お紅の反応は意外なものだった。お紅はそんな俺を見て、ふふっと笑ったのだ。俺は驚いて、お紅をみた。
「馬鹿みたい。」
お紅はいった。それを聞いて、俺もなんだかおかしくなって笑ってしまった。
「だよな!俺ほんとなに言って…」
だが、お紅はさらに、聞き違いを疑うような事をいった。
「いいよ。」
俺は笑うのをやめ、お紅をまっすぐみた。
「あんたと一緒に死んであげる。」
言葉が出なかった。自分で言っておいたものの、理解ができなかった。
「死にたいんでしょ?」
何も言わない俺に、お紅はそういった。それはそうかもしれない。だが、お紅も死ぬと言うなんて…。なぜにそんな答えが出るのか。回らない頭を必死に回し、俺は考えていた。
「あんたが怖いって言うなら、私が最初に死んであげるよ。」
お紅はそういって、俺の腰に差していた短刀をとった。そしてそこに正座し、なんと自分の腹を刺そうとしたのだ。俺は思わずとめにはいった。驚きと恐怖が俺をおそっていた。お紅が死ぬなんて。俺の目の前で死ぬなんて。そんなの、絶対…。
「なんで…」
俺はやっと言葉を発した。俺が言ってることはかなり矛盾している。それはわかっていた。
「なんで、って、あんたがそう言ったんじゃない。」
お紅はそういった。無理はない。
「言ったけど、ほんとにやろうとするなんて…」
「見くびらないでよ。この世に未練なんかないもの、死ぬその一瞬なんか怖くないわ。」
お紅はいった。そんなこと、思っていたのか。まあ、そうだったのかもしれない。俺はお紅のことを、まだ何も知らない。そうだとしても、本当に自害しようとするなんて…。
「…俺のせいか。」
俺は小さく言った。
「何が?」
お紅は聞く。
「俺が死のうなんて言ったから…。おまえに死ぬことを考えさせちまったんだな。」
やってしまったと思った。お紅に本気で死ぬことを考えさせるなんて。お紅の命を奪おうとしたなんて。だが、お紅はいった。
「勘違いしないで。あんたのために死ぬんじゃないんだから。私だって、もうこの世がつまんなくなっただけ。だからあんたと一緒にあの世までいってあげようって、いってるだけじゃない。」
それを聞いて、一瞬驚きを隠せなかった。そしてすぐに、うれしさのあまり、笑いがこみ上げてきた。。
「やっと、本心が聞けた。」
俺はそういった。今お紅は、妓楼の遊女としてでなく、「お紅」として俺と話してくれている。それがなにより嬉しかった。
「ありがとな。」
俺はお礼をいった。そして、お紅の手から短刀をとり、そこで切腹するために、襟をひらき、かまえた。
「…あっち向いててくれないか?」
切腹する瞬間なんか、お紅にみられたくなかった。みせられなかった。だから俺はお紅にそう頼んだ。
「俺が刺したら、もっかいこっち向いて。」
そしてそう付け足した。最後まで、自己中心的なんだな、俺は。最後の最後まで、お紅を見ていたかった。その顔を、目に焼き付けたかった。死んだ後、後生でも、その顔を思い出せるように。
お紅は俺のいうまま、後ろをむいてくれた。その背中をみて、そして、短刀の柄を強く握りしめ、そして、勢いよく腹に刺した。そして、横にひいた。声はできるだけ、押し殺した。お紅に無様な声なんか、聞かせたくなかった。俺はその後同じく自害するかもしれないお紅が使えるように、短刀の血を着ていた小袖でふきとり、俺の横に置いた。
「お紅」
そしてそうお紅の名前を呼んだ。お紅は俺が言ったように、こっちをむいてくれた。その顔は、いつにも増して、きれいにみえた。こんな俺のために、ここまでしてくれるなんて。本当におまえは、どこまでも優しいんだな。こんな姿、みせてごめんな。遠のきそうな意識をなんとか保ちながら、俺はお紅の頬に手を当てた。
「待ってる」
そう言ってしまった。そして、俺は力尽き、その場に倒れた。
ああ、俺の血でおまえを汚してしまったな。
ごめんな、お紅。
おまえに会えて、本当によかったよ。
今度はもっとましな人間になって、おまえに会いに行ってもいいかな。
今度はもっとちゃんと、おまえの話聞くからさ。
今まで本当にありがとう。
そして俺は死んだ。
この上なく、幸せな死に際だった。
人殺しの俺が、こんな死に方するのはお門違いだって思われるかもしれないが、俺は俺の人生を幸せで終えた。
これでよかったんだ。
そう、本当に思う。