【終末ワイン】 アイ・ウォント・ジャスティス (39,000字)
需要もないけど、シリーズ10作目の短編です。
寿命。人の命の長さ。それを人は知る事が無い。知る事が出来ない。知らないからこそ、明日を未来を信じ、生きていく。自分が明日、死ぬという事がわかっていたら? 死ぬ事が決まっていたとしたら、人はどういう行動を取るだろうか。
6月30日 厚生労働省終末管理局
月末の今日、1カ月毎に実行される『終末通知』の葉書を作成するプログラムが起動した。今月は、9001通の通知葉書が作成された。作成された終末通知葉書は、管理局職員により機械的に郵送の手続きが粛々と行われた。
◇
水賀森一哉は自転車を駆って急いでいた。数年前に10万円という大金をはたいて購入したクロスバイクを駆って急いでいた。
水賀森が急いでいるその日の早朝、携帯電話に1通のメールが届いていた。差出人は水賀森の上司からであり、『出勤したら制服に着替える前に私の所に来るように』と、そんな要領を得ないメールが届いていた。メールを開くまでは寝ぼけ眼といった様子であったが、それを見た瞬間に一気に目が覚めると同時に背筋がゾッとした。
水賀森は寝癖もそのままに、床に脱ぎっ放しだった綿の半袖シャツをはおり、慌てふためきよろめきつつもジーンズを履き、部屋を飛び出し自転車に飛び乗った。
現在25歳の水賀森は千葉県のとある警察署に勤める警察官。地域課に籍を置く水賀森は警察署から2キロ程離れた交番勤務が主である。朝から翌同時刻までの24時間勤務後は翌朝まで非番、そして日勤、そしてまた翌朝から24時間勤務といったローテーション勤務で従事している。
水賀森は平の巡査である。直属の上司で言えば巡査部長の係長である。水賀森にメールを送ってきたのは直属の上司である係長ではなく、警部補という職位を持つ課長の西嶋和夫からであった。直接の上司である係長をすっ飛ばし、急を要すると思しきそのメール内容から察するに、水賀森は自分が何か失敗したとしか思えなかったが、何か失敗した記憶も無く、おかしな報告書を書いた記憶も無かっただけに不安だけが募っていく。
警察の独身寮に住む水賀森は、その寮から3キロ程離れた千葉県の都市部に近い警察署へと急いで向かってはいたが、自転車を漕いで進むその道は車の通行量も多く、信号も多く、中々に進めない状況だった。そんな状況にイラつきながらも、水賀森は警察官として信号を守りながらも出来る限り急いで向かう。
ひょっとして交番に於ける自分の勤務態度に市民からクレームが入ったという事だろうか? しかし笑顔を絶やさずに積極的に住民にも声掛けをしていたし、クレームを付けられるような態度を取った記憶も無い。自分では何も思いつかないものの、万が一にもニュース報道されるような失敗や粗相をやらかしていたとしたら、退職を促されてたりするのだろうか。場合によっては免職とかにでもなるのだろうか。どんな懲戒処分が待っているのだろうか。
自転車を漕ぎつつそんな事を考えている内に、水賀森は警察署へと到着した。水賀森は職員専用の駐輪場に自転車を停めると、私服のまま急ぎ西嶋のもとへと向かった。
「課長、おはようございます」
「お、水賀森、来たか。ちょっとそのまま待っててくれ」
制服姿でデスクワーク中の西嶋は座ったままにそう言うと、机の上の固定電話の受話器を取り、どこかへと電話をかけ始めた。固定電話の押したボタンから察するに、内線であろう事を水賀森はすぐに察した。電話の相手は直ぐに出たようで、西嶋は「水賀森が来ました。はい、はい、すぐに向かいます」と言って受話器を置くと、すぐに席を立った。
「じゃあ、水賀森。俺と一緒に来てくれ」
「課長、自分は何かやらかしたのでしょうか?」
「ん? まあ、付いて来れば分かるから」
西嶋はそう言って歩き出し、水賀森は訳が分からないままに西嶋の後ろを付いて行く。フロアには水賀森の直接の上司である係長の姿を含め他の署員もいたが、私服姿で現れたと思ったらすぐに西嶋に連れて行かれる水賀森の背中を、皆が黙って見送った。
西嶋は早足で廊下を歩き、署内の階段を駆け上り、また早足で廊下を歩いて行くと、とある扉の前で止まった。その扉には『署長室』というプレートが貼ってあり、それを見た水賀森は背中に嫌な汗が出始めたのを感じた。
自分は署長の所に来る程の粗相をしたという事だろうか。それ程迄に急を要するヘマをしてしまったのだろうか。
西嶋は扉の前で身なりを整えると、署長室と書かれた目の前のその扉をノックした。するとすぐに署長室の中から「どうぞ」という声が聞こえ、西嶋は「失礼します」と言いながら外開きの扉を開けた。
扉を開けた正面のソファセットを挟んだその奥には、窓を背に、パリッとした制服を着用し、革張りの立派な椅子に凛とした姿勢で腰掛け、横長の重厚な木製の机に目を落とす署長の田神友也の姿があった。キャリアと呼ばれる田神の職位は警視正であり、高卒で警察学校から入った水賀森からすればほぼ辿り着けない地位の人間である。
西嶋はそのまま中へと入り、それに続いて水賀森も入った。西嶋はソファを避けて田神が目を落とす机の前で直立不動の姿勢をとると「署長、水賀森巡査を連れて参りました」と敬礼しながら言った。西嶋の一歩後ろに位置していた水賀沢も、直立不動の姿勢で敬礼した。
「はい。御苦労さま。じゃあ2人共、そこに座って」
田神は机の上の書類から目を離さずに、座ったままの姿勢でソファセットを手で指し示した。西嶋と水賀森の2人は「失礼します」と言いながら、ソファに横並びで腰かけた。
その状態のまま1分程が経過し、田神はひと段落したかのように嘆息すると、勢いよく椅子から立ち上がり、少し疲れた様子を見せつつ水賀森達の向かいのソファへとドサッと腰かけた。
「2人とも朝から申し訳ないね。じゃあ早速で悪いけど私から水賀森巡査に言わなければならない事がある」
笑顔の田神のその言葉に「あの私、何かしでかしましたか?」と、今にも泣きなそうな表情の水賀森が聞いた。
「いや。そういう話では無いんだよ。正直言いづらい話ではあるんだが、言わなければならないんだ」
「……」
「まだ水賀森巡査の元には届いていないと思うんだけどね。実はここ数日中に、水賀森巡査宛の『終末通知』の葉書が届く事になっている」
「……は?」
「うん。いきなりこんな事を言われてもピンと来ないだろうと思う。でも正式に本部から廻って来た話なので本当の話なんだ。厚生労働省から警察庁、各都道府県の警察本部へと終末通知の件はデータとして来る事になっている。そしてその中に警察官が居た場合には、その人が籍を置く警察署の署長がその人物に直接口頭で伝える事になっているんだ」
「……はあ。そうなんですか」
水賀森は田神の話がピンと来ない。何かしでかして怒られるのかと思っていたら、署長である田神から自分が死ぬ話を聞かされている。その落差もあって状況の理解が追いつかない。
「でね、水賀森巡査の直接の上司である係長や課長で無く、署長の私が話すという事にも意味があるんだ。水賀森巡査は警察官として派出所で頑張って貰っているよね。で、拳銃も携帯している訳だが今日からはそれは許可出来ない事になる。同時に派出所での仕事はもう終わりとなる。
もし水賀森巡査がまだ警察官として地域の為に働いてくれるという事で有れば、内勤に異動して頑張って貰う事になる。こういった措置は警察庁で決められている措置でね、全国の警察官は同じ措置が取られる。
拳銃は勿論携帯禁止、警察車両の運転禁止。交通課の白バイなんかも含めてね。まあ車両と言っても自転車は除かれるけどね。どうだろう、理解出来たかな?」
田神は放心状態にも見える水賀森の目をじっと見つめた。そしてその状態のまま1分程の沈黙が流れた。
「あ、あの署長……質問しても宜しいでしょうか?」
「ああ、何でも聞いていいよ」
「なぜ派出所で仕事してはいけないんでしょうか?」
「うん。当然の質問だね。決して水賀森巡査の勤務態度とか、そういう理由では無い事は分かって欲しいからね。
他の県警の話なんだけど、終末通知の制度が始まった直後に1人の警察官が終末通知の対象になってね。その警察官も水賀森巡査同様に拳銃を携行している職務についていたわけなんだが、あろう事かその拳銃を使って殺人を犯してしまったんだ。その後その拳銃を使って自殺してしまった。この件は終末通知が理由という事では報道されずに、衝動的な殺人、自殺として報道された。
その警察官が殺害した人物というのが詐欺を働いた人物でね、多くの高齢者から多額のお金をだまし取ったという事件を起こしたんだけど、だまし取ったお金の行方は不明のままで、その人物も返済出来る能力は無いという事で返済不能だった。結果、だまし取られた高齢者の多くは泣き寝入りという事になって、何人かの自殺者まで出した。
殺害されたその人物は、数年間の懲役を経て社会へと戻ってきた訳だけど仕事はしなかった。それなのに、どこから出ているのか出所不明のお金で贅沢な暮しをしていたんだ。民事では賠償命令が出てもその人は口座にお金がある訳でもない。それどころか生活保護を申請してね、まあ当然、仕事をしていないから無収入という事で受理されてね。出所不明のお金と生活保護のお金で悠々自適に暮らしているという人物だったんだ。それを知っていた件の警察官は『最後に自分の正義を』と言う事でその人物を警察の銃で殺害した。そしてその責任をと言う事で自殺した。事件後にその警察官のロッカーの中から、そう書かれた遺書が見つかったんだ。
今後そんな事件が起きてしまっては大変だという事で、警察庁は47都道府県の各警察本部に向けて、拳銃は勿論、車両の運転も禁止し、拳銃や車両を扱う職務に就いていたならば即時異動するようにと発令したという訳だ。
被害者からすれば加害者が悠々自適に生きている事に不満はあるけど、民事の話になっていたりすれば我々警察に出来る事はない。そういう不満を持つ警察官も多いからね。『最後に正義の鉄槌を』と考える事も理解出来ないとは言わないけれど、それはただの犯罪だからね? 我々としても、こういう措置を取る事しか出来ないんだ。水賀森巡査、理解して貰えただろうか?」
田神の話を聞き終わり、西嶋と水賀森は署長室を後にした。
水賀森は田神に対して何らの反論等もしなかった。水賀森としては職務を全うしたい、殺人などといった違法な行為等は自分は絶対に犯さないと、故に交番勤務を継続させて欲しいという言葉が喉まで出かかっていたが、それを口にする事は出来なかった。それはただの感情論でしかなく、田神が言っていた拳銃を持つ者や車両を運転する者を危険視する話を覆せる論理は一切浮かばなかった。
「水賀森、今日はどうする? このまま家に帰るか? この後ずっと有給休暇扱いで休む事も出来るし即時退職する事も出来るぞ? すぐに退職金も振り込まれるらしいしな。どうする? つうかお前は今、独身寮に住んでるんだっけ? だったら実家に帰った方がいいだろうな。最後に親孝行するでもいいし、旅行するでもいいしな」
西嶋は水賀森に特段気を遣うでも無く、優しく語りかけるでも無く、日常会話をするかの様に言った。水賀森は普段と変わらぬ西嶋のその言い様に何に思うでもなく別の事を考えていた。
水賀森がこのまま仕事に戻ったとしても内勤の事務作業をするだけとなる。その内勤へ異動という話と終末通知が届くという2つの話を聞いたせいで、ショックというよりは仕事に対するモチベーションが下がっていた。
水賀森は一歩前を歩く西嶋の背中に向かって「じゃあ今日はこのまま帰らせて頂きます」と呟くように言うと、「おう、気を付けて帰れよ」と、西嶋は振り返る事無くそのまま地域課へと戻って行った。
地域課へ戻った西嶋は何食わぬ顔で自席に座った。地域課の他の署員達は水賀森がどうかしたのかを西嶋に聞きたかったが、椅子に座った途端に机に目を落とした西嶋の雰囲気を察し、誰も何も聞かなかった。
西嶋は水賀森の事を聞きたいという署員達の雰囲気は察してはいたが、水賀森は罪を犯した訳でもなく話す必要は無いと判断した。いくら同僚といえども、そんな個人的な話をペラペラと話す必要は無く、自身が黙々と目の前の仕事に取り組む姿を見せる事で「水賀森の事は聞くなよ」と、態度で示した。
水賀森は地域課のフロアを素通りしてそのまま駐輪場へと向かい、自身の自転車に跨るとそのまま警察署を後にした。
朝に警察署へ来た時とは違い、よろつかない程度の速度を維持するようにペダルを漕ぐ。信号待ちで停まる度に俯き溜息をつき、青信号に変わると面倒臭そうにペダルに力を入れる。自転車とはいえそんな様子で走らせていたせいもあり、独身寮迄の3キロ弱の道程に40分もかかった。
幅4メートルといった道路に面した敷地に入ってすぐ、10台程の自転車が停められそうな駐輪場。その少し奥にある3階建ての長方形の無骨なその建物には、階毎に4部屋の計12部屋が配されていた。玄関も無く、建物の中央に配されたコンクリート打ちっ放しの外階段で各部屋と繋がる独身寮。
警察の独身寮とはいえ警備がされている等の特別な物でなく、古い公営アパート同様の建物であり、安く借りられると言うだけであった。場所によっては玄関もある寮も存在するが、水賀森が住むそれは寮とは名ばかりのアパートそのものであった。
それでも家賃が相当安いという魅力があった。とはいえ、東京の極一部に於いては、警察署の上階に独身寮が設置されている等の場所がある事を考えれば、警察署から3キロも離れた不便な場所とも言えた。
独身寮へ戻ってきた水賀森が駐輪場に自転車を停めると、息をする度に溜息を吐くように、歩くのが面倒だとでも言いたげに、建物中央に位置する外階段を昇って2階の自分の部屋へと向かった。
自分の部屋の前まで辿りつき、そこで初めてドアの鍵を閉めた記憶が無い事に気付いた。案の定、鍵の閉まっていないドアを開けると、おもむろに部屋の中へと入って行った。
床に置いた32インチの薄型テレビ、小さな机と「昇任試験問題集」と書かれた対策本やライトノベル数冊が入った小さい本棚。水賀森は素っ気無いその部屋の中へ入るなり敷きっ放しの布団、いわゆる万年床へとうつ伏せに倒れる様にして寝転んだ。
何で俺は警察官になったんだっけ?
小さい頃に見ていたテレビドラマの中、自宅と交番が一緒になったような田舎の派出所で働いている警察官という姿に憧れた。そういう働き方に何故か憧れた。年を重ねる毎にそういった田舎の派出所での勤務に憧れる事は無くなっていったが、警察官になりたいという思いは続いていた。
かといって勉強が出来る訳でも無いので警察官僚という道は早々に諦めた。そもそも警察幹部に憧れている訳ではなかった。あくまでも現場で働く警察官になりたかった。何かを直接護るという事に憧れた。
水賀森は高校3年生の時に地元県警の警察官採用試験に合格した。その後2年弱に渡り、警察学校での勉強と体術の習得、そして警察署での実地補習といった生活を送った。
その後、今の警察署の地域課に配属されると派出所での勤務が主となった。幸か不幸か重大な事件に遭遇する事もなかったが、街の治安を維持しているという自負はあった。
将来的には仕事をキッチリとこなしつつも昇進試験も頑張り、やがては警部補まで昇進し円満退職という将来を漠然と描いていた。その漠然とした将来は画餅に帰した訳ではあるが、いくら近々に死んでしまうからといって不貞腐れる気はさらさら無く、最後の日まで警察官として現場で働いていたいとは思うものの、署長である田神からは「まだ警察官として仕事をするならば内勤へ異動」と言われた。
自分が思う警察官としての働く場所は既に無く、すべき事も無くなった。即時退職しても最後の日まで独身寮に居ても良いとも言われていたが、何もしない自分の居場所は何処にもない。
布団にうつ伏せに寝転がり、うつらうつらとそんな事を考えている内に、水賀森は寝てしまった。
水賀森がふと目を覚ますと部屋の中は真っ暗だった。水賀森は服を着たまま布団で寝ていた。寝返るように窓の方を向き外の様子を伺うと、外は暗く時計を見るまでも無く、既に夜なのだろうとうつらうつらしながら想像し、水賀森は再び目を閉じた。
次に水賀森が目を覚ますと部屋の中は明るかった。昨日は昼間に寝始め一旦は目を覚ましたものの再び寝てしまった。そして日が変わり朝を迎えていた。
いつ以来だろうか。こんなに長い時間寝ていたのは。
水賀森は警察官という事もあってか、自分を律するという意味で非番であっても出来るだけ規則正しい生活を送る事を心がけていた。例え非番だとしても職務の性質上、緊急招集される事もある。その為、すぐに駆けつけられないような場所へ行くのであれば緊急連絡先等を記載しての申請をする必要もあった。そういった面倒な事を嫌う意味もあって、非番の日だからといって何処かへ行くという事も無く、部屋で一日中テレビを見ているという事も多かったが、それでも時間については規則正しい生活を心がけていた。故に24時間近くも睡眠を取ったという今の状況に少なからず驚いた。
水賀森は嘆息し、気だるそうに布団から起き上がるとバスルームへと向かった。
トイレと狭い浴室、そして洗面台が一体のユニット式バスルーム。洗面台の鏡には丸2日剃っていない髭がはっきりと見て取れる、疲れ果てた表情の水賀森の顔が映っていた。
水賀森は髭を剃る事も無く、歯磨きと洗顔だけを済ます。鏡にもはっきりと映る寝癖も付いていたが直さなかった。
歯磨きをしている最中に時折胃が締め付けられた感覚を覚えた事で、一昨日の晩から何も食べていない事に気付いた。と同時に空腹感を感じた。とはいえ食欲がある訳では無かった。
近々に死を迎える事は確定している。いっそその日まで何も食べずに部屋で寝ているかという考えが水賀森の頭を過った。だがそんな自分の直視出来ない最後を想像するに、そんな最後は流石に無いなと冷静に判断し、冷蔵庫にある物でも適当に食べようと思ったものの、自炊を全くしない水賀森の部屋の冷蔵庫の中は勿論の事、部屋の中には一切の買い置きの食品が無い事に気付いた。
水賀森は洗顔を済ました後、近くのコンビニに買い出しに行く事にした。
水賀森は寝ていた時の服のままで外階段の下まで降りてくると、階段脇の壁に設置されている個人用の郵便ポストに目がいった。そのポストにはいつ投函されるのかまでは聞かされていないが、近々に終末通知の葉書が投函されるはずであった。
虚ろな目をした水賀森が自分の郵便ポストを開けたが中身は空であった。水賀森はポストが空であった事に「は~」と、安堵したかのように短い息を吐いた。安堵したとはいえ話が嘘だとは思っていない。その話を水賀森に伝えたのが署長の田神であった事からも、葉書が近々に投函されるであろう事は疑う余地は無かった。
水賀森は目の前の駐輪場に置かれた自分の自転車に跨り、自転車で約5分といった距離にあるコンビニへと向かった。その道中、時折ふらつきそうな感覚を覚えた。それは空腹による影響なのかなと、ぼんやりと考えながらも水賀森はペダルを漕ぎ続けた。
コンビニに到着した水賀森は食品棚を前に悩んでいた。パンや弁当等、何を見てもそれを食べたいという食欲は一向に湧かず、食べるというよりは流し込めるような食べ物をという事で、ヨーグルトとプリンを数個づつと数本のペットボトル入りのお茶、それ以外に買い置き用としてカップラーメン3個を購入する事にした。
水賀森がレジへと向かうと、レジに立つコンビニの女性店員の目には嫌悪感が漂っていた。クッキリと皺の残るシャツに加え、寝癖と2日分の髭を蓄えた水賀森のその容姿を前に、女性店員の目には水賀森が現役の警察官とは映らなかった。
以前の水賀森であれば、コンビニに行くにしてもそれなりに身なりを整えてから外出していたが、今の水賀森は女性店員のそんな視線等は一切意に介さず、コンビニを後に店先に停めてあった自転車に跨り、ヨーグルト等が入ったコンビニのビニール袋を手首にぶらさげ、独身寮への帰路についた。
独身寮へと戻ってきた水賀森とすれ違うように、郵便配達の赤いバイクが独身寮から去って行った。水賀森はすれ違う郵便配達のバイクを尻目に駐輪場へ自転車を停めると、手首に吊る下げていたコンビニ袋を片手に持ち直し、おもむろに外階段へと向かった。
水賀森は再び外階段脇の郵便ポストの中を確認した。先程は何も入っていなかったポストの中には1枚の葉書が入っていた。
水賀森が手にしたその葉書の宛名には『水賀森一哉様』と記され、その左横には目を引く赤い文字で『終末通知』。
「ま、分かっていた事だけどね。は~あ」
水賀森は諦めの笑顔を見せつつ溜息をついた。
部屋へと戻ってきた水賀森は、圧着ハガキと呼ばれる2つ折りの終末通知の葉書を開いた。
『あなたの終末は 20XX年 8月 1日 です』
見開いた葉書の中、水賀森の目に飛び込んで来たのは大きな文字で記載されたそんな文言で、今日が7月1日なので水賀森の終末日、水賀森の命が消える日まで丁度1カ月を意味する日付が記載されていた。
「は~。残り1カ月かよ……。ほんと、どーすっかなー」
水賀森は終末通知の件を田神から聞いていた為に少しは気が楽ではあったものの、改めて残り1カ月しか生きられないと突き付けられた事で少し心に来る物があった。水賀森は葉書を床に放り投げ、万年床に仰向けに倒れるように横になると、ぼんやりと天井を見つめた。
水賀森はふと、高校時代の友人から飲み会の誘いのメールが来ていた事を思い出した。飲み会と言っても高校時代によく連れだって遊んだ仲の良い3人組だけでの飲み会をという話で、夜勤もあったり、事件があれば非番であっても駆り出される仕事でもあった為に返信すらしていなかった。
水賀森は携帯電話を手に取ると、その誘いのメールに返信した。
『ちょっと急に休みが取れる事になったので飲み会に行けそうだけど、いつにする?』
水賀森は友人からの飲み会の誘いのメールにそんな短い返信した。そしてそれに対する返信メールが直ぐに返ってきた。
『うちら2人は平日の19時過ぎなら大体空いてるから時間は水賀森に合わせるよ』
その返信メールに対し『じゃあ今夜○○駅に19時でよろしく』と水賀森は返信した。
夕刻を過ぎ、水賀森は飲み会に行く準備を始めた。結局、コンビニで購入したヨーグルトやプリンは口にせず、全て冷蔵庫へとしまった。
洗面所で寝癖を整え2日分の髭を剃り、洗濯済みの水色の綿で出来た半袖シャツを着て、財布と携帯電話、そして実家玄関のカギ、自転車の鍵、独身寮の鍵の3つが付いた何の装飾も施されていない銀色のカラビナを手に持ち部屋を出た。
部屋の外、カラビナに付いた鍵の中から1つの鍵をドアノブの鍵穴へと差し込んだ。ガチャと鍵の閉まる音を確認し、カラビナをジーンズのベルトホールへ着けると、水賀森は独身寮を後にした。
独身寮から最寄りの駅へまでは徒歩で向かい、そこから電車2本を乗り継いでの凡そ20分。目的のその駅は水賀森の実家の最寄駅でもあり、同時に友人が住んでいる最寄駅でもあるので、その駅近くのチェーン系の居酒屋で飲む事にした。
水賀森は、待ち合わせ時刻の19時丁度に駅へと到着し、駅前のロータリーで友人の姿を探した。
そこへ「おう! 水賀森。久しぶりじゃん」と、肉付きの良い体躯に、ピッチリとしたカーキ色のTシャツにベージュの短パンという出で立ちの上川地文也の姿があった。上川地は水賀森と同じく高卒で就職し、今は溶接工として実家近くの鉄工所で働いていた。
「公務員としては、もう少し早く来るべきじゃないのかな?」と、上川地の隣にはネクタイを緩めた清潔感漂うスーツ姿の神錦純一が立ち、笑みを浮かべながら冗談っぽく言った。その言葉遣いは仲の良い友人同士であっても丁寧だった。神錦は大卒で頭も良く、今は一部上場企業のグループ会社のサラリーマンとして実家から通っていた。
水賀森はそんな2人に「時間ぴったりだろうが。とっとと居酒屋に行こうぜ」と久しぶりに会った友人に笑顔で答えた。
駅前のロータリーから歩いて直ぐの居酒屋に到着した3人は、店に入ってすぐ4人席へと案内された。席について早々3人は生ビールを頼み、1分と経たずに運ばれてきたビールジョッキで乾杯した。店は満席では無いものの、既に出来上がっている輩もちらほら見られ、程よい感じの賑わいを見せていた。水賀森は空きっ腹に流し込む生ビールに少し胃が締め付けられる感覚を覚えた。
「つうか水賀森よう、よく休みなんか取れたな。この前もこの辺で窃盗事件か何かあっただろ? 忙しくねーの?」
「ああ。刑事課の連中は頑張ってるよ。つうか警察官だって休みぐらいあるに決まってんだろ? ったく警察に対して一般人は厳しすぎるだろ」
「誰が一般人だよっ!」
「お前だよっ!」
「まあまあ、水賀森も上川地も何の話してんだよ。久しぶりなんだから他の話をしようよ」
「つうかよぉ、水賀森が警察官になったなんて不思議な感じだな。公務員ってやつだろ?」
「ああ。地方公務員ってやつだよ」
「公務員って退職金がすげーんだろ?」
「何年先の話だよ。それに昇進しないとそう多くは貰える訳でも無いみたいだしな」
「今お前は警部とかそんな感じなの?」
「いやいや、ぺーぺーの巡査だよ。一応、巡査部長になる為の勉強はしているけどな」
水賀森は残り1カ月しか生きられず昇進する事も無いが、ふと「殉職でもすれば2階級特進で警部補にはなれるのかな」と頭を過った。
「巡査の次で部長になれんのかよ?」
「まあ世間で言うところの部長とは全然違うからな。巡査部長ってのは世間で言う主任みたいなイメージかな?」
「わかりづれーな。なら主任でいいじゃねーかよ」
「知らねーよ。そんなの警察庁で決めてるんだろうしな。巡査、巡査部長、警部補、警部、警視、警視正、警視長、警視監の順で、一番上が警視総監ってやつだな。まあベテランの巡査だと名誉職位として巡査長っていうのがあるけど」
「じゃあ水賀森はまずは主任を目指すって所か。どこまで昇進できそうな感じ? 警視総監とか目指してるの?」
「いやいや、警視総監なんてキャリアで無いと不可能だし。俺は大卒でもキャリアでも無く、高卒の一般からだしな。警部補になれれば立派な物らしいけどね」
水賀森が巡査部長になる為の勉強をしていたのは本当ではあるが、全ては無駄になった。上川地と神錦の2人に終末通知の話をするつもりは無く、今はただ仲の良い友人と酒を酌み交わしたいと、それだけを思っていた。
「水賀森よう、話は変わるけどよ。まー、お前が悪い訳じゃねーけど、警察官と話せる機会なんて滅多にねーから聞くんだけどよー」
「ん? 何だよ上川地。変な質問だったら答えられねーぞ」
「この前ニュースで見たんだけどよ、どう考えても犯人ってやつが証拠不十分とかで無罪になったみたいな話、知ってるだろ?」
「ん? そんなニュースあったか?」
「ああ、隣の県の婦女暴行の話じゃないの? 確か一昨日位に無罪になったってニュースが流れてたね」
神錦に言われて水賀森も思い出した。それは隣の県警の事件で、数十件の婦女暴行の容疑をかけられて裁判になったが物的証拠が無いという理由で無罪となった事件だった。最初の暴行事件発生から2年近くに及んで、ようやく逮捕立件に至ったという事件だったが無罪となった。
「俺の所轄の話じゃないし、そもそも他の県警の事件だからな」
「いや、そんな事言ってんじゃなくてよ。なんであれが無罪なんだよ。それが警察のやり方なのかよ? 市民を守ってねーじゃんかよ? 正義の味方じゃねーのかよ?」
「裁判は俺達の仕事じゃねーよ。それに正義の味方って訳でもねーよ。そもそも法治国家なんだから法に基づいて捜査して、法の下での裁判で無罪になったんだから仕方無いだろ?」
「ちげーよ! お前ら警察はよくそんなんで正義面出来るなって話だよ」
「正義面なんかしてねーし、正義の味方って訳でもねーんだよ」
「まあまあ、水賀森も上川地も抑えなよ」
神錦は高校時代から水賀森と上川地を諌める役をしており、それは今でも続いていた。
「上川地の言いたい事も分かるけど証拠も無いのに犯人にしてしまったら、それこそ司法の崩壊だよ。魔女裁判にもなりかねない」
「そうかも知れねーけどよ……」
上川地も神錦に言われると素直に納得した。水賀森はそんな上川地にイラついた。
「それに警察は市民を守る、というのは正確ではないと思うな」
神錦のその言葉に「ん? どういう事だ?」と怪訝な表情で水賀森が聞いた。
「警察は法に基づいて街の治安を維持する、が正しい言い方と思っている。市民を守るという訳では無くて、秩序を維持するという事だね。まあ結果的に市民を守っていると言えるかもしれないが、いざとなれば市民と対峙する事もあるって事さ。まあそれは極端な場合だけどね」
神錦はデモ等で強制排除される市民の事を言っているのだろうと水賀森は思った。その事で議論する気は無かった。秩序を維持するという役目を負っているというのはその通りであり、時には市民と対峙する事もあるだろうと理解していた。
「話を元に戻すけど、僕も上川地と同じように思う所が無い訳では無いよ? 警察官である水賀森に言うのはなんだけどさ、今の裁判の仕組みってのは実際どうなんだろうね? 裁判ってポーカーみたいな所あるじゃない?」
「ポーカー? なんだそりゃ?」
「物的証拠、揺るがない証拠、防犯カメラの映像や指紋のついた凶器や持ち物といった物証が無いと裁判で逃げられる。殺人や傷害はその意思がないと成り立たない。被告は弁護士と相談しながら戦略を組み立てて物的証拠が無いなら無罪を主張する。仮に証拠があったとしても殺人や傷害の容疑だとしたら、その意思は無かったと過失を主張する。その主張も危うそうだったら精神疾患を主張するっていうパターンじゃない? 検察側は防犯カメラや凶器や犯人の持ち物というカード、弁護側は、証拠無しのカード、過失のカード、精神疾患のカードでポーカーをしている印象が僕にはあるよ。水賀森はどう思う?」
神錦は俗に言う癒し系の声で冷静に質問してきた。「きっと会社では女にモテんだろうな」と水賀森は思った。
「お前らが言いたい事は分からなくも無いけど、仮にも警察官の俺が裁判をポーカーなんて言える訳無いだろ?」
「まあ、そうだね。良い質問じゃ無かったね、ゴメンゴメン」
「いや俺は神錦の言いたい事は分かるぞ。俺もそんな風に思うぞ。最初は自白したのに裁判になったら全てひっくり返すってのもあるしよ。あれ何なんだよ。そんなの許されるのかよ!」
上川地は憤懣やるかたなしという表情で水賀森に食い下がる。
「俺に言ったって仕方ないだろ? それに被告が自白した後に弁護士と話しあっての戦略でもあるだろうし。被告は裁判で有罪が確定するまでは容疑者であって犯人では無いんだからな。『推定無罪』って知ってるか? それに弁護士の仕事ってのは真実はどうあれ、被告を如何にして有利にするかっていうのが仕事な訳だしよ」
水賀森は話の都合上、被告側に立っているような気がした。自分はどちらかと言えば検察側の人間であるはずなのに、上川地と神錦との話の中では被告側に立っていた。かといって感情的に話す上川地に合わすのは嫌だった。
「それが正義なのかって話だろ? 裁判ってのは『真実』って奴を突き止める場所じゃねーのかよ?」
「だから仕方ないだろ? 被告には弁護士を付けられるって決まっているんだし、弁護士は冤罪を防ぐ為にも必要なんだよ。それに弁護士がいなかったら、それこそ魔女裁判になっちまうだろうが」
「犯人が嘘付いてんの見え見えだろうが」
「だから有罪が確定するまではまだ犯人じゃ無いんだっての。それに被告側が言っている事が嘘だって事を覆らない証拠や看破されない論理的な説明で突破しなけりゃ有罪になんて出来ないんだよ!」
「いや、あんな奴は死刑だろっ!」
「……お前さ、魔女裁判の傍観者みたいな事言ってるぞ? だいたいそう簡単に死刑になんて出来る訳ねーだろ? 死刑そのものが世界から人権無視だって言われてる位なんだぞ? それに婦女暴行も酷い犯罪だけれども死刑になるような求刑にも判決にもならねーよ。どんなに重くても10年と少しの懲役が限界じゃねーのかな。無期懲役まではいかないだろうな」
「何でだよっ! 泥棒したら手を切断しちまうって国もあるって聞いたぞっ! なのになんでそんなに軽いんだよっ!」
「いや、そういう国というか地域もあるようだけど、そういう国では往々にして男尊女卑で婦女暴行なんてのは女の側に非があるって判決になるパターンが多いんだよ。つうかそれ、日本の話じゃねーだろうがよ。自分に都合のいい世界の話だけすんじゃねーよ!」
「だいたい無期懲役って何なんだよ? 1日で出てくる事も出来るって事だろ? 全然重くねーじゃねーかよっ」
「ったく、上川地は相変わらず話がコロコロと……。まあ無期って言う位だからな。1日だけの収監でも無期と言えば無期だし、数十年でも無期ではあるけどな」
水賀森も無期懲役については上川地と同じように思ってはいた。無期懲役という不定期刑は、殺人を犯した人間に適用された場合には30年程収監されている事も実際には珍しくはなく、厳しい刑である事も間違いでは無いが、1日だけの収監でも無期である事は間違いなく、模範囚であれば早く出所する事も出来るのも事実であり言葉の印象として軽く聞こえた。
「まあ、そうだね。それが日本のシステムだしね。しょうがない面もあるよね。裁判ってのは真実を暴くというよりは、検察や弁護側が持ち寄った証拠を基に『真実』という言葉で確定させる場所って言う方が正しいのかも知れないね」
「神錦は相変わらず難しい事を言うというか、大人だなあ」
水賀森は感心するように神錦を見つめた。
「ったく、自白剤とか使えねーのかよ。そーすりゃ一発だろうが」
「上川地はアホだろ? んな事出来る訳ねーだろうが。どこの国の話してんだよ。完全に人権無視じゃねーか」
「俺だってニュースとか見るんだぜ? けどなんなんだよ。『防犯カメラに犯罪の瞬間が映っていました』ってよ。防犯になってねーじゃんかよ! それ監視カメラだろ!」
「お前は色々と話を混ぜんじゃねーよ! 話がとっちらかってんだよ!」
「ったく、どうでもいい場所の交通違反の取締ばっかり一生懸命にやりやがってよ。隠れてぼけっと取締りしてる暇があるなら、もっと証拠ってやつをみんなで探せばいいだろうがよ。そんなんだから嫌われるんじゃねーか?」
「だーかーらー、色々と話を混ぜるなってんだよっ! そんなの俺に言っても仕方ねーだろうが」
感情で話し続ける上川地に対して水賀森は呆れつつ苛立っていた。とはいえ、自白剤とまでは言わないにしても、『嘘発見器』くらいは日常でもっと簡単に使う事はあっても良いんじゃないだろうかとは思っていた。だがここでそれを言うと上川地がヒートアップしそうなので言わないでおいた。そもそも嘘発見器という機械自体を見た事も無く、テレビドラマで見た事がある程度の知識であり、どこまで信用できる物なのか全く知らない。
「じゃー誰に言えば良いんだよ。国会議員ってやつか?」
「話がバラバラだぞ? だいたい上川地は先週の衆議院選挙はちゃんと投票したのか?」
「ああ? あー、そういえば先週選挙か何かやってたな。けど行ってないな」
「じゃあ、お前には社会がどうこう、正義がどうのと言う資格はねーよ」
「はあ? 何でだよっ! 選挙に行かねーからって資格がねーってのはどういう事だよっ! 俺は自分の意志で行かなかったんだよ! 投票してぇ奴が居なかったんだよ! だから行かなかったんだよ! 誰にも投票しませんっていう意思表示だろうがよ!」
「アホかお前は。投票しないっていうのは白紙投票と同じなんだよ。何がどう決まろうとも文句言いませんっていう白紙の委任状みたいなもんなんだよ」
「何でだよっ! 投票してぇ奴が居ないんだから仕方ないだろうが! それに俺が行こうが行くまいが結果に影響しねーよ!」
「何かを変えたいなら変えるという人に投票する。そういう人がいない、けれど何かを変えたいと言うなら自分が立候補する。若しくは有志を募り、その中の誰かを推薦するってのが民主主義の議員制度って物なんだよ。お前みたいに投票しないってのは意志じゃなくて全面委任なんだよ。それに自分が行かなくても影響無いなんて考え傲慢すぎるだろが。逆にお前の1票で結果がコロコロ変わられたらそれこそ堪んねーよ。お前はどこの王様だっての」
「はあ? 全然わかんねーよっ! だいたい何で正義の話で選挙が出てくるんだよっ!」
「お前が自白剤使いたいとか議員とか言い出したんだろうが。何とかしてお前の地区から選出されている議員に頼み込めば良いだろうが。自白剤を合法にして下さいってな。お前の話に議員が納得してくれれば関係省庁に働きかけてくれて法案が出てくるかもしれないぜ?」
水賀森は心の中で「そんな法案出てくるわけねーだろうが」と思いながら真顔で言った。
「ほー。そういう物なのか」
「お前の地区から選出された議員だって、きっと勉強会みたいな感じで応援してくれる人達と話し合う機会は設けていると思うぞ? まあ、その人の後援会に入らないと話す機会は無い可能性もあるけどな。そういう場でもって議員や他の人達と話し合い、そして自分達の代表である議員を通じて行政を動かす、行政に意見を言う、立法までこぎつけるってのがスジってもんじゃねーかな? つうか国会議員なら地元にはほとんど居ないだろうな。それにお前にみたいに『選挙に行きません』なんて言う奴、話も聞いてくれねーかもな」
水賀森は心の中で「お前と話が噛み合う議員なんていねーよ」と思いながらも真顔で言ったが、つい口元が緩んだ。
「おい水賀森、何笑ってやがんだよ? 全部嘘なんじゃねーだろうな?」
「まあまあ、水賀森も上川地も落ち着きなよ。流石に水賀森の言う全面委任っていうのは言い過ぎな気もするな。選挙ではある程度の投票数が無いと無効になるしね。みんなが選挙に行かなければ、その選挙は委任どころか無効だよ。みんなが白紙をだしても同じだとは思うけどね。ちなみに僕はちゃんと選挙には行ったよ。残念ながら僕が投票した人は落選してしまったけどね」
神錦の言葉で水賀森も上川地も少し冷静になった。
「じゃあ、上川地。おまえの言う『正義』ってのは何なんだよ」
「決まってるだろ? 悪を成敗するって事だ」
「はあ? ったく、お前に聞いた俺がアホだったな。神錦はどう思う?」
「なんだとっ! 俺の意見も聞けってんだよっ!」
上川地は怒鳴ったが水賀森は無視した。
「そうだね。『正義』ってのは実に曖昧な言葉だよね。その人の立場だったり、属する組織だったり、時代だったりで簡単に正反対になったりする物という認識だね。そして『悪』と呼んでいる物が主導権を握るとそれらは『正義』に変わってしまうからね。水賀森が正義だと信じてやっている事も、立場や時代が変われば悪と呼ばれる可能性もある訳だしね。結局は、その時代と状況に応じて『正義』というのは変遷していくんだろうね。100年後、もしかしたら男尊女卑ならぬ女尊男卑が正義という事になって、女性が男性に対しては何をしても無罪なんて事がまかり通ってるなんて可能性も無くは無いよね。あはは」
「なるほど……。上川地の意見を無視し、神錦に聞いたのは正解だったという事だな」
「はあ? 水賀森っ! 悪は悪だろうがよっ!」
「まあまあ、水賀森だって現場で働く警察官として色々と思う所はあると思うし、一所懸命に頑張って捕まえた犯人が証拠不十分とかで無罪になったなんて事になれば、警察は不満に思うだろうしね。とはいえ僕も色々と思う所はあるよ。それを巡査である水賀森に言うのも酷な話だろうとは思うけど、最初に上川地が言ったように、現役の警察官とこうして話せる機会なんてそうそう無いからね。役得ならぬ役損って事で水賀森も納得してよ」
水賀森は神錦が相変わらず中立にうまく立ち回っているなと感心した。高校の時もこんな感じだった気はするがそれに磨きがかかった気がした。大卒ともなると理論的に双方の意見を纏めるのが上手くなるようだと改めて感心した。
神錦のその言葉を最後に、居酒屋という取調室での現役警察官への尋問がひとまず終わり、上川地が結婚するかもしれない、神錦が転職するかもしれないという平穏な会話に戻り、3時間程続いた3人の飲み会は夜10時を以って終了を迎えた。
「そんじゃあ、そろそろ帰るかあ」
「ああ。結構飲んだなあ」
「そうだね。久しぶりに結構飲んだよ」
3人はそうして居酒屋を後にした。勘定は割り勘としたが、そこに水賀森という公務員がいたからという理由では無く、友人同士、お互いに対等という事での割り勘であった。
居酒屋を後にした3人はその場で解散した。神錦も上川地も明日は普通に仕事であり、神錦は2キロ程の距離にある家へとタクシーで帰宅した。上川地は飲み会だと分かっていたのに自転車で来ていた。水賀森からすれば飲酒運転として見咎め諌める立場ではあったが、黙認する形でそのまま何も言わずに見送った。
水賀森は駅から2キロ程の場所にある実家に泊まる事にして、1人徒歩で向かう事にした。
22時を過ぎ、駅から離れる程に少なくなる街灯の下、水賀森は薄暗い住宅街を1人ゆっくりと歩く。
時折、何気なく空を見上げる。その日は雲ひとつ無い夜で綺麗な星空が見えてはいたが、酔いも手伝い視界のボヤけた水賀森の目には全く映らず、何を考えるでも無くのんびりと歩き通し、ようやく実家の前に到着した。
水賀森はジーンズのベルトホールに付けてあったカラビナを外し、そのカラビナに付けてある3つの鍵の内の1つ掴むと、実家玄関の引き戸の中央に位置する鍵穴へと差し込み捻った。
「ただいまあ」
「あら? こんな時間に急に帰って来るなんてどうしたの? 何かあったの?」
ガラガラっと引き戸の玄関を開けた先にはパジャマ姿の母親がいた。既に23時近い時間であり、水賀森の母親は2階の寝室へ向かおうとしていた所だった。
「いや、上川地達と駅前で飲んでね。なんで今日は家に泊まろうと思っただけだよ」
「そうなの? なら家に電話位入れてから帰ってきなさいよ」
「どうせ風呂入って寝るだけだしね」
「そう? なら、お風呂まだ暖かいから早く入っちゃいなさい」
水賀沢が母親と会話するのは2,3か月ぶりの事だった。とはいえ何か話す事がある訳でもなく、そのまま風呂場へと向かった。独身寮では掃除するのが面倒という理由でもっぱらシャワーを浴びるのみであり、水賀沢が湯船に浸かるのは実家に戻って来た時くらいであった。
水賀沢は服を脱ぎ棄て浴室へと入り、シャワーで簡単に体を洗い流すとゆっくりと湯船に浸かった。久しぶりに浸かる湯船に「う゛あ゛~」と、舌鼓ならぬ唸り声をあげた。
汗が流れ始める程に湯に浸かってから体を洗い、再び湯船に浸かる。掃除が面倒という理由で寮では入らないが、やはり風呂はいいなと目を瞑りながら天井を仰いだ。
30分程の時間、風呂という憩いの時間を過ごした後に風呂からあがると、脱衣場にはバスタオルと下着、それとパジャマが用意されていた。それは水賀沢が風呂に入っている間に母親が用意した物で、水賀沢はバスタオルで大雑把に頭と体を拭くと、そのバスタオルを首に掛け、汗も止まらぬままに下着を履き、パジャマの下だけを履いて茶の間へと向かった。
水賀森の実家は築40年を超える古い木造2階建て。1階には台所を奥に畳の敷かれた6畳2間を繋げた茶の間があった。茶の間の真ん中には1.5メートル四方の四角く低いテーブルが置かれ、そのテーブルを前にパジャマ姿で寛ぐ父親の姿があった。
現在52歳の父親は缶ビールを飲みながらテレビに映るニュース番組を見ていた。自宅最寄駅の近くにあるスーパーに勤め、仕入れ担当の社員として既に数十年に渡って働き続けている。その父親の短く刈られたその髪には白髪が目立ち始めていた。
水賀森が父親の対面の畳へ座った直後、母親が冷蔵庫からキンキンに冷えた500mlの缶ビールを取り出し、「はい、風呂上りの一杯」と、笑顔と共にテーブルの上、水賀森の目の前に置いた。
父親も母親も水賀森が子供の頃から警察官に憧れていた事を知っていた。地元の警察官採用試験に合格したという報告を受けて2人ともに喜んだ。とはいえ、危険な事件に出くわす可能性のある職業でもあり、母親としては心からは喜べなかったが、父親は危険な事件に遭遇する可能性がある事を知った上での息子の判断として尊重し喜んだ。
水賀森が正式に警察官として働き出して暫くの間、母親は事件が報道される度に、息子が籍を置く警察署が関係する事件かどうかを心配する毎日であった。とはいえ、そう頻繁に大きな事件が発生する訳も無く、そんな状態も数年が経過すれば慣れてくるもので、今ではそれ程心配はしていなかった。実際、窃盗等の事件を稀に耳にはするものの、大きな事件は殆ど無かった。
水賀森は目の前に置かれた缶ビールを手に取り、プルトップを開けるとすぐさま口をつけた。
「プハーッ」という声と共に強く目を瞑り、やはり風呂上がりのビールは格別だなと、ビールを常温で飲むという欧米人はこの風呂上がりの冷えたビールの味を知らないなんて勿体無いなと、水賀森は1人ほくそ笑んだ。
「仕事の方はどうなの? 体調管理はしてる? 偏食とかしてない? 近いんだから家に帰ってくればいいのに」
母親が父親と水賀森の間に腰を下ろしながら質問してきた。実家に帰った時のテンプレートの質問であり、「ああ。大丈夫だよ。野菜とかも結構食べてるし」と、水賀森もテンプレートで答えた。
そこへ「そんなに飲んで大丈夫なのか? 明日は仕事じゃないのか?」と、テレビに視線を向けたまま父親が聞いてきた。
「ああ。明日も休みだよ。まあ警察官と言っても休日は必要だしね。最近は過労で色々と問題になっているから、有事でないなら警察としてもそれなりに気を使う時代なんだよ」
水賀森は笑みを浮かべながら嘘を付いた。今、目の前にいる両親に対して終末通知の件を話すつもりはなかった。話すべき事なのだろうがどうやって話をすれば良いのか分からなかった。
「最近ニュースでよく見るけど、お前の所の警察署では不祥事とかの問題は大丈夫なのか?」
「少なくとも俺の課では不祥事みたいな事は、見た事も聞いた事も無いね」
あと1か月で私は死にます。そんな事を口にするのは勇気がいるなと、そんな言葉を息子から聞いた両親はどう思うのだろうなと思いつつ、水賀森は缶ビールの残りを一気に飲み干した。
「じゃあ、そろそろ寝るよ。おやすみ」
時刻は午前0時になろうとしていた。水賀森は玄関付近から2階へと伸びる階段を上がった。
階段を上がりきったすぐ横には襖があった。その更に奥にも襖があった。手前の襖を開ければ両親が寝室として使用している部屋であり、奥の襖が水賀森の部屋だった。
水賀森は奥へと向かい襖を開けた。カーテンが無く、月明かりが差し込む6畳一間のその部屋の中は、母親の手により綺麗に掃除してあり、畳の上に直接置かれたベッドも綺麗に整えられていた。
水賀森は手に持っていたパジャマの上を着ると、充分に髪も乾かないままにベッドへ潜り込み、天井を見つめながら居酒屋での上川地と神錦との会話を思い出していた。
『正義の味方じゃねーのかよ?』
上川地が真顔で口にした正義というその言葉。子供の頃を思い出すに、それはヒーローをイメージする物であり、悪を裁く、挫く、駆逐するというイメージだっただろうか。警察に対しても正義というイメージを持っていたと思うが、実際に自分が警察という職業に就いてみると、子供の頃に思い描いていた正義という物とはだいぶイメージが異なる。
今「正義」と言うと何だろうか? 子供の頃に思っていた正義を実行するとただの暴力だったり、場合によってはテロと呼ばれかねない。
『勝った物に正義が宿る』。そんな言葉をどこかで聞いたか見た気がする。
『勝てば官軍、負ければ賊軍』。そんな言葉も聞いた気がする。
ドラマ等では正義のヒーロー扱いの坂本竜馬。もしも薩長による倒幕が失敗していたら、どうなっていたのだろうか。
「薩長による倒幕」を現代の言葉に言いかえれば「徳川軍事政権」に対する「薩摩長州連合軍による軍事クーデター」となるだろう。結果的に薩長が勝ったから良いものの、負けていれば薩長はただの反政府軍であり、坂本竜馬は反政府軍を支援した大罪人であり、テロリストを支援した人物なんて呼ばれていた可能性もあるだろう。
現代に於ける裁判というシステムであっても『勝った方が正義』と言えなくも無いのだろう。
上川地の言いたい事は理解は出来る。しかし罪を重くしすぎると、罪を犯した者は2度と再出発が出来なくなる可能性がある。現在の状況でも再出発できずに再犯する者も数多い。感情だけで言えばそれで良いと思う時が無いとは言わないが、罪を償うと同時に更生し、社会に復帰するというのが正しいのだと教わってもいるし思ってもいる。
正直、罪を償うというのはどういう事なのかがピンと来ない。刑務所で懲役を終えれば罪を償ったという事なのだろうか。そこに被害者がいれば民事訴訟を経ての金銭的保障をすれば罪を償ったという事なのだろうか。だがそれでは被害者全てが亡くなっていたら罪を償う事は出来なくなってしまうから、やはり懲役と言う行政罰を受けた事で罪を償ったという事になるのだろうか。それでもピンと来ない。
裁判では反省をしていると口にし、懲役を経て社会復帰したとしても、すぐに再犯をする者が後を絶たないのも事実。とはいえこんな問題、一介の警察官である自分が考えるべき事では無いのだろう。社会全体で対応しなければ出来ない事なのだろう。
しかし、万が一にも『罪を犯したら社会から永久退場』なんて制度にしたら、いわゆる戦前の日本のようになってしまう気がする。ゆくゆくは国民総監視社会になる事も想像出来るし、それこそ警察の暴走に繋がりかねない。日本人観には合わないのかもしれないが、再出発させる前提の今はきっと正しい。
一方で再出発に向けた社会基盤が整っていない印象が無い訳ではない。基盤と言うより国民性なのかもしれない。とはいえ自分が知らないだけかもしれないが。
再出発を促す意味で、市民国民に対して『犯罪歴のある人物を社会復帰の為に積極的に雇うように』などと強制させる事も出来ないだろう。そもそも自分達日本人は保守的な国民性もあり、犯した罪にもよるとは思うが「犯罪者に近寄るのは怖い」と思うのは同じ日本人として当然だとも思う。
「警察はただ捕まえるだけで、後は何もしない」なんて言われる事もある。が、それ以上出来ないのだから仕方ないだろと、歯痒い思いをする時もある。
被害者は裁判において検察の攻撃材料でしかないというイメージが無くも無い。被害者は民事裁判で賠償請求する事しか出来ない。そして警察が民事裁判に介入する事は出来ない。
加害者に対して弁護士が付くのだから仕方無いが、被害者側の方が置いて行かれる、若しくは味方が居ないように映る事もある。
警察が出来るのは事件を捜査し、法を犯した人物を探し拘束する事だけ。その先は検察の仕事だ。気持としては民事も支援してあげたい気持ちはあるが、それは公私混同、若しくは越権というものだろう。
裁判においては証拠が無いと駄目かもしれない。弁護士の力量という事もあるのかもしれない。今が正しいとは言えないのかもしれない。
それでも冤罪を生むよりは良いんじゃないだろうか。今の法律で抜けている所があったとしてもそれは許容すべき物なんじゃないだろうか。
改めて考えると、自分は何故、警察官になったのだろう。
水賀森はベッドの上、天井を見つめながらそんな事を考えていたが、睡魔が襲ってきた事で考えるのを止め、ゆっくりと目を閉じた。
翌朝、水賀森は自然と目が覚めると同時に、枕元に置かれていた携帯電話を手探りで手に取った。画面上に表示された時刻を見たと同時に、携帯電話にメールが届いていた事に気付いた。
『水賀森、様子はどんなんだ? 終末ケアセンターって所には行ったか? カウンセリングみたいな事を受ける施設らしいが行ったか? こんな話するものなんだけど、こういう事を指導するのも上司の役目なんだわ。とりあえず一報くれ』
メールの差出人は地域課の課長である西嶋からであった。
「終末ケアセンター? ああ、そういや終末通知の葉書にそんな事が書いてあったような気がするな。あ、葉書は独身寮に置きっ放しだった。しゃ~ない、戻るか」
水賀森はふと襖のあたりに目が行った。そこには昨日風呂場で脱ぎっ放しだったはずのシャツとジーンズが、いつの間にか畳んだ状態で襖のそばに置かれていた。下着類は母親の手により早朝に洗濯され、既に物干し台に干されていた。
水賀森はおもむろにベッドから這い出し、軽い二日酔いを覚えながらも下の階へと降りると、台所にも茶の間にも、父親と母親の姿は無かった。そして茶の間のテーブルにはラップに包まれたおにぎりが2つ置いてあり、その横には1枚のメモ用紙が置いてあった。
『おにぎり食べて下さい。それとお父さんもお母さんも外出しているので、帰る時には鍵を閉めてください。じゃあ、これからも体に気を付けて頑張ってね』
母親からのそんなメッセージ。時刻は既に11時を過ぎ、父親は仕事、母親もパートに出かけて家の中には水賀森1人だけであった。
水賀森は洗面所へと向かい、洗顔をし終えると台所へと向かった。台所の冷蔵庫に入っている2リットルのお茶のペットボトルを取り出し、流し台に置かれていた適当なコップにお茶を注ぎ、それを持って茶の間へと移動した。
テーブルの上のおにぎりを手に取りラップを剥がし、頬張りながらお茶で流し込む。茶の間のテレビは点けず、何を思うでもなく、窓の外を眺めながらおにぎりを黙々と食べ続けた。
おにぎり2個を食べ終え、コップを流し台に、ラップをゴミ箱に入れるとそのまま2階の自分の部屋へと戻り、タンスから靴下を取り出し足に履き、畳まれたシャツとジーンズを着ると1階へと降りて行った。そしてそのまま玄関口を出て、ジーンズのベルトホールに着けられていたカラビナを外し、その中の1つの鍵を掴んで玄関の鍵穴へと差し込んだ。
鍵が閉まったのを確認すると、そのまま駅へと向かって歩き出し、一路独身寮へと向かった。
水賀森は2時間程の時間をかけて、独身寮の自分の部屋に置いてあった終末通知の葉書を手に持って、再び電車に乗って実家最寄駅へと戻ってきた。
そして水賀森が駅を出た直後、自分の目の前を自転車で通り過ぎようとしていた1人の制服警官の姿が目に留まった。
「あれ? 君嶋じゃん。パトロール中か?」
君嶋は水賀森の前を通り過ぎてすぐ自転車のブレーキをかけ停車した。そして自転車に乗ったまま後ろを振り返った。
「なんだ、水賀森じゃん。誰かと思ったよ。私服って事は非番か?」
君嶋和一。水賀森が声をかけた制服警官は、水賀森と警察学校で一緒だった同期の巡査だった。振り向いた時には厳つい表情をしていたが、声を掛けてきたのが同期の水賀森だという事に気付くと、一気に表情が和らいだ。
「まあな。お前、この管轄だったんだ」
「おう。で、お前はここで何してんだ?」
「ここ、俺の実家の近くなんだよ」
「へー、そうだったのか。あ、そういえば水賀森。こんな奴見なかったか?」
そう言って君嶋は、胸ポケットから一枚の写真を取り出し水賀森に見せた。写真には運転免許証の顔写真を思わす、水色を背景とした30歳位に見える男性が映っていた。整えられた顎鬚、ショートに刈られた髪は明るい茶色に染まり、黒ぶちの丸い眼鏡をかけた、一見ファッションに気を遣っていそうな男性の顔写真。
「いや、見た事ないな。こいつ誰?」
「矢多村真一。以前に隣の県で婦女暴行で挙げられた奴なんだが、この前裁判で無罪放免になった奴でよ。どうやらうちの管内に来てるらしくてな。まあ何するって訳でもねーけど、所在確認っていうかな、一応警戒してんだわ」
「おお、その話か。そいつこの辺に来てんのかよ?」
「まあ、確度も分かんねー情報だけどな。とりあえずうちの署でも警戒だけはしとこうって事で、こうして見廻っているって訳よ」
「へー、そうか。お疲れさん。じゃあこの街の事は頼むぜ、お巡りさん」
「おうよ。じゃーそろそろ行くわ。今度、非番の日が合いそうなら、飲みにでも行こうや」
そう言って君嶋は、自転車を漕いで水賀森の前から去っていった。
水賀森は駅から2キロ程の場所にある終末ケアセンターまでの道のりを歩いていた。水賀森もこの町に長年住んでいたのでその場所自体は知っていたが、その場所にある建物が『終末ケアセンター』という名前の建物だと言う事は、今回その場所を調べるにあたって初めて知った。
ゆっくり歩いて40分程。今、水賀森の目の前には、もう少し古びていれば史跡といえそうな石造りを思わす3階建ての大きい建物が建っていた。一見、西洋の神殿を思い起こさせるような石柱が建物の周囲をぐるりと囲み、その頭上を屋根瓦で覆うといった和洋折衷の建物。
道路に面した玄関は、低めの段差と奥行きの長い5段の階段を上った先にあり、水賀森はその階段を1歩1歩ゆっくりと上った。そして全面ガラスの玄関口までやってくると、両引き戸の自動ドアがゆっくりと開き始めた。
音も無くスーッと開かれた自動ドアを通って中へと入ると、そこから10メートルほど離れた正面の上部に「受付」と書かれたブースが水賀森の目に留まった。
横幅約5メートルといった素っ気無いそのブースには、制服と思しき明るいグレーのブラウスに濃いグレーのリボンタイといった装いの2人の女性が座っていた。
2人の女性は玄関口の水賀森に気付くと、座ったままの姿勢で水賀森に向かって軽く頭を下げた。それを見た水賀森もすぐに軽く頭を下げ、2人の女性が座る受付へとまっすぐに向かった。
受付の前までやってきた水賀森に対し、2人の女性は「いらっしゃいませ」等と声をかけるでもなく、ほんの少し口角をあげた表情で以って水賀森を迎えた。
「あの……終末通知の葉書をもらったので、こちらに来たのですが」
水賀森は、ずっと手に持ちっ放しだった為にいつの間にか丸めてしまった終末通知の葉書を軽く均し、受付の女性に見せた。
「少々お待ち下さい。担当をすぐに呼びます」
受付に座る女性はそう言ってどこかに電話をかけ始めた。水賀森は終末通知の葉書を2つに折り、ジーンズの後ろポケットにしまうと、終末ケアセンターの建物内を手持無沙汰にぼんやりと眺め始めた。
水賀森が受付付近で待つ事数分。コツ、コツと、ゆっくりとした足音が響くと共に、その足音は徐々に近づき、水賀森の1メートル手前まで来て止まると、恭しく頭を下げた。
「初めまして。私、井上正継と申します。どうぞ宜しくお願い致します」
整えられたショートヘアに銀縁眼鏡、濃いグレーのスーツとそれより薄いグレーのネクタイを着用し、スーツの上からでもすっきりとした体躯が見て取れる、水賀森よりも少し年上と思しきその男性は、手に持っていた名刺を両手で差出した。
井上は終末通知の件で来た人を担当する終末ケアセンターの職員である事、職務としてはカウンセラーのような立場であると水賀森に説明した。
簡単な自己紹介を言えた井上は「では、こちらへどうぞ」と、水賀森を先導するように受付横の廊下を歩き始め、水賀森もそれに続いた。
そして水賀森は、部屋に入った正面が広大な庭を望む全面透明ガラス、残り3面の入口扉を含む壁全面が曇りガラスという、秘匿性も遮音性も感じない10畳程の広さの中に、銀色に鈍く輝くステンレスで出来た長方形のテーブルと、そのテーブルを挟んで3つづつの計6つのステンレス製の椅子が置いてあるという、質素で簡素な打合せルームへと案内された。
部屋に入った直後、水賀森は正面の大きいガラス越しの庭に目を留めた。ガラス越しの向こう側には、綺麗に整備された一面芝生の庭が広がり、3階にも届きそうな高い木が奥も見通せない程に沢山生えていた。そして一面芝生の地面には、多くのベンチとイスがテーブルとセットで置いてあった。
ぼんやりと庭に目を取られていた水賀森に「そちらにお座りください」と、井上が声を掛けつつ向かいの椅子を手で指し示すと、水賀森はそれに従い井上の向かいの椅子へと腰掛け、それを見届けた井上も椅子に腰かけた。
「では最初に顔写真付きの身分証明書となる物と、終末通知の葉書をご確認させて頂いて宜しいでしょうか? 万が一にも別人の方と言う事が無いように、確認が必須となっておりますので」
井上の言葉に水賀森は、ジーンズの後ろポケットから終末通知と財布を取り出し、財布の中から免許証を取り出すと、テーブルの上、井上の目の前へと差し出した。
差し出された終末通知の葉書と免許証を前に、井上が「拝見させて頂きます」と一言いって手に取り目視で確認すると、持参していたタブレット端末のカメラで、終末通知の葉書の見開いたページの中に記載されているバーコードを読み取った。
「確認致しました。有難う御座います。それではこちらの施設他について説明させて頂きます」
井上は笑顔でそう言って、終末通知の葉書と免許証を水賀森に返すと、タブレット端末を水賀森に見えるように傾けた。そのダブレットの画面上にはグラフデータが表示されていた。
「この終末通知を受け取った方の中で、実に2割近くが悲観して飛び降り等の自殺をしてしまうようです。1割位の方は自暴自棄になり事件を起こすという事例もあるようです。又1割近くの方はこの葉書が届かないか見ていないかのようです。
それ以外の方の多くが、とりあえず終末ケアセンターにお越し頂いて、私達職員とお話させて頂いております。お話をさせて頂いた内訳では、40代位までの方で奥様や小さいお子様がいらっしゃる方は、終末日近くまでご夫婦で過ごし、直近にこちらの施設にきて安楽死を望まれる方が多いですね。ご高齢のご夫婦の方ですと、ご自宅で最期を迎えたいと仰る方が多いですね。
単身者の男性の場合、年齢関係無く、早急に安楽死を選択する方が多いですね。女性の場合ですと、ぎりぎりまで旅行や食事等を経験した後に安楽死をするという傾向でしょうか。それ以外で言えば、経済的に厳しい方は早めに安楽死なさる傾向にありますかね」
水賀森は井上の滑舌の良い淡々とした説明を黙って聞いていた。
「終末通知が発行された段階で、クレジットカード等の信用取引は出来なくなっておりますのでご注意ください。今後は現金取引のみとなります。口座引き落としのカードでしたらご利用なれます」
「うーん。それほど買い物もしていないから、その辺は大丈夫かな。どちらかといえば現金派ですし。それで安楽死についてなんですが、安楽死とはどのような方法なんでしょうか?」
「一言で言ってしまえば、服毒になります」
水賀森は、警察官である自分に対して『毒』というワードを真顔で口にした井上を、怪訝な表情で黙って見つめた。
「あっ、毒を服用すると言ってもマンガみたいなドクロマークのついた瓶の毒を飲んで苦しみもがいて亡くなるという事ではありませんよ。苦しんでしまうようでは安楽死とは言えませんからね。では少々お待ち頂けますか?」
井上はそう言って席を立ち、1人部屋を出ていくと建物の奥の方に消えていった。
数分後、片手でも持てそうな程の大きさの木箱を手に、井上が打合せルームへと戻って来た。井上は木箱をテーブルの上に置きつつ椅子に座ると、水賀森に対して木箱の中が見えるよう傾け「こちらは終末ワインと呼ばれる物です」と言って見せた。
井上が持って来た木箱は高級そうではあるものの、使い古された感じの残る長さ30センチ程の蓋の無い木箱。その箱の中には、中身が入っていない事が傍目で分かる、薄茶色で細長い凝った意匠のある瓶が、青いサテン生地のクッションの中で横になって入れられていた。
「ワイン? ですか?」
「はい、こちらが安楽死の為の飲料です。終末通知を受け取った方が、自ら終末を迎える為に用意された劇薬です。厳重に管理が必要なため、終末ケアセンターでしか提供が出来ません。承諾書に水賀森様の自筆による署名を頂いた後、当ケアセンター内、且つ職員立会いの下で服用頂けます。といってもこれ自体はサンプルですけどね。本物は本番に時に提供させて頂きます」
「毒なんですよね? 違法ではないんですよね?」
「勿論合法です。劇薬として厳重な管理を要する物ではありますがね。厚生労働省が認めている正式な安楽死専用の飲料です。で、話を戻しますが、こちらを服用直後、強烈な睡魔が襲ってきます。そのまま眠りにおち、徐々に呼吸数が落ち、長くても30分以内に呼吸が完全停止します。こちらを飲まれた方のほとんどが、良いお顔で亡くなっていかれました。ただ解毒剤も無く、即効性がある物ですので、服用後は後戻りは出来ませんけどね」
「なるほど。その毒が合法であるという事は分かりました」
水賀森のその言葉に「……あ、警察の方なんですね。道理で違法合法って気にする訳ですね」と、タブレット端末に目を落としつつ井上が言った。
「ん? どうして私が警察の人間って分かるんですか? 私言いましたっけ?」
「いえ、終末通知の葉書の中の下の方にバーコードがありますよね? 先程そのバーコードを私が持っているタブレットで読み取らせて頂いたのですが、そうすると厚生省の特別なホームページが開かれるんですよ。そのページには大まかな個人情報が表示されましてね。公務員の方ですと職務まで分かるようになっています」
「へー。凄いですね。公務員以外は分からないんですか?」
「そうですね。公務員以外の方となるとフリーターとかの職業の方もいらっしゃいますし、追いきれないという事でしょう。まあフリーターも職業の1つと言えなくもないですけどね」
「なるほどね。職業まで追いかけるのは我々の仕事ですね」
「はは。そういう事になりますね」
「では、今から失礼な事をお聞きしますが、これも私共の仕事という事でご承知して頂きたいのですが」
「どうぞ。構いませんよ」
「変な事は、お考えになっていませんよね?」
「変な事?」
「ええ。私が担当した方では無いのですが、以前に終末通知を受け取った警察官の方で、とある凶行に及んだという事件がありました」
水賀森はすぐにピンと来た。井上の話に出てくるその警察官というのは、先日署長の田神が話していた人物と同じ人物の話であろうと。
「その警察官の方は証拠不十分で無罪となった人物を拳銃で射殺し、その直後に拳銃で自殺してしまいました」
「ああ、その話なら聞いた事がありますよ。私がそうなると?」
「いえ、そうは申しません。警察にお勤めの方の場合には、その質問を問うのも私達の仕事とご理解ください。そして生きている間には法律が邪魔して出来なかった『正義』なる物を、死を目前に後押しされるかの様に、『最後に正義を実行してから死にたい』と、そう考える方が多かれ少なかれいらっしゃる様です。職業的にそういった考えを持つというのは理解出来ないとは申しませんが、短絡的且つ身勝手な行為と言わざるを得ないですよね。なので、そういった事をお考えにはなっておりませんよね? 残されるご家族や親族の事も考えていますかと、そういった質問をさせて頂くようにしております」
「う~ん。まあ、確かにその警察官の気持ちも分からなくはないですけど流石に射殺ってのはねぇ。ただの殺人だからなあ。それに今は終末通知が発行された段階で、拳銃の携行は出来なくなっているらしいですしね。現に私も拳銃の携行は不許可、車両の運転禁止と上司に言われましたからね、心配は無いでしょう。まあ、包丁とかナイフなら容易に入手可能だから凶行に及ぶ事も可能ですが、そこまでしての正義ってのは、正直考えづらいなあ」
「そうですか。いや、失礼な質問でした。お詫びいたします」
「いえいえ。結構ですよ、そんなの」
その後水賀森は、当然匿名ではあるものの、自分以外の終末通知を受け取った人達の話を井上から聞かされた。というより一方的に井上が話し続けた。
「何か質問等あれば何でも聞いてください」と、ひとしきり話を終えた井上が笑顔で言ったその言葉に、「いえ、もう大丈夫です。今日はこれで帰ります」と言いつつ、水賀森は席を立った。
水賀森が席を立ったと同時に井上も席を立つと、すぐさま打合せルームのドアへと駆け寄り、水賀森の方を向いて「どうぞ」と言いつつドアを開けた。
水賀森は軽く頭を下げつつ部屋を出ると、そのまま玄関口へと向かった。井上は水賀森の後を追うようにして玄関口の外まで付いて行った。
「それでは水賀森様。私はこれにて失礼いたします。尚、こちらで行う安楽死に於きましては、終末を迎えるにあたっての一つの選択肢でしかありませんので、より最善の最後を選択の上、ゆるりとお過ごしください」
玄関口を背に井上は笑顔でそう言いつつ頭を下げ、水賀森を見送った。
終末ケアセンターを後にした水賀森は徒歩で駅へと戻り、電車に乗って独身寮への帰路についた。
何の気なしに車窓を眺めていた水賀森は、「そういえば、課長に一報入れておかないとな」と、電車の中から携帯電話からメールを送信した。
『お疲れ様です水賀森です。終末ケアセンターって所に行ってきました。それと申し訳ないですが内勤に異動する気はありませんので退職する事にします。今日明日にでも私物整理の為に署に顔出します』
最後まで現場で働きたいと思っていた水賀森は、内勤への異動を固辞した。
電車2本を乗り継いでの凡そ20分。独身寮の最寄駅へと降り立ち、そこから更に10分程歩いて独身寮へ到着した。自分の部屋に戻ってきた水賀森は、部屋の端に敷かれた万年床にペタンと胡坐を組んで座り込むと、長めの溜息をついた。
改めて部屋を見渡せば、衣類以外にさほど私物がある訳でも無く、部屋の片づけといっても短時間で終わり、段ボール箱さえあれば直ぐにでも引っ越しが出来そうに思えた。水賀森は目を瞑り溜息をつきつつ項垂れた。
数分の間、何を考えるでもなく項垂れた姿勢のままだったが、おもむろに姿勢を正しつつ顔を上げ、目を開いて溜息を吐き、「よしっ」という独り言と共に立ち上がり部屋の片づけを始めたが、案の定、部屋の片づけは20分程の短い時間で終了した。
警察の独身寮と言う事もありそれなりに整理整頓はしていた。段ボール箱さえあればすぐにでも引っ越せる状態にまで片付いてしまった。
水賀森は両親に終末通知の件を話してはいない。引っ越せる状態にまでなったとはいえ、実家に戻れば警察を辞めた事や、なぜ辞めたかを話さざるを得ない。
それを内緒にしたままでの言い訳を必死に考えるものの全く思いつかず、やはり終末日までは寮に留まろうかと考え始めていた。
思った以上に部屋の片づけが早く終わり、良い言い訳も思いつかず、他には何もする事も無く、したい事もなく、手持無沙汰となった水賀森は、署内の私物整理をする為に警察署へ向かう事にした。
自転車で警察署へと向かう道中、急な便意を催した水賀森は「緊急事態だ!」と自分に言い聞かせながら、車やバイクであれば即座に捕まるであろう各種道交法違反を繰り返しつつ、「どうか警察に見つかりませんように」と心の中で叫びながら必死でペダルを漕ぎ続けた。
道交法違反の甲斐あって、今迄の最速記録とも言える時間で警察署へと辿り着き、駐輪場に投げ入れるが如く自転車を停めると、一路署内のトイレへと駆け込んだ。
「ふー。危なかった。ほんと緊急事態だったぜ」
冷静に考えればここに来るまでの道中にも、公衆トイレの設置してある公園もあったが、完全に冷静さを失っていた為に気付かなかった。
心から安堵し、先程までは青かった水賀森の顔にも血色が戻り始め、用を足し終え便器から立ち上がると、トイレのドア上部に据え付けられているフックに、脇の下に銃を吊るすショルダーホルスターが掛けてあるのが目に入った。そのショルダーホルスターには拳銃が収まっている事が一目で分かった。
水賀森は恐る恐るホルスターを手に取った。ずしりと重いホルスターには紛れもなく実銃が入っていた。
水賀森はホルスターから回転式の拳銃を抜き出すと、弾倉を確認した。弾倉には実弾が5発が込められていた。制服警官の水賀森が銃を携行する際には腰のベルトにホルスターを装着するが、私服警官が銃を携行する際にはショルダーホルスターを使用する為、これは刑事課の誰かが忘れたのだろうと水賀森はすぐに分かったと同時に、「これは不祥事として報道されるレベルの失態だなあ」と、少し残念な表情を浮かべた。
ここにこのまま置いておけば銃を忘れた人物が取りに来る可能性はあるものの、それをそのまま放って置く訳にも行かず、水賀森は自分が上司に届けるかと思いつつ、拳銃をホルスターに収めた。
瞬間、『正義』という言葉が水賀森の頭に強烈に過った。
水賀森は再びホルスターから拳銃を抜き出すと、シャツを捲りあげ拳銃をジーンズとお腹の間に差し込んだ。
拳銃という鋼鉄の冷たさに一瞬怯みながらも、そろそろとトイレのドアを開け、周囲の様子を窺いつつトイレを後にすると、そのまま不審がられぬように警察署の外へ出て、駐輪場に置いてある自分の自転車に跨るとすぐに警察署を後にした。
水賀森は独身寮へは戻らず、警察署の最寄り駅へと向かってペダルを漕いだ。
警察署の最寄り駅の駅前には「駐輪禁止」と大きく書かれた赤い三角コーンが多数置かれていたが、それには一切目もくれずに堂々と駅前に自転車を止めると、そのまま駅の中へと入り、切符を購入し改札を抜け、プラットホームへと駆け上がった。そしてすぐにホームに滑り込んできた電車に乗って、一路実家最寄りの駅へと向かった。
電車2本を乗り継いでの凡そ30分。水賀森は再び実家最寄りの駅へと到着すると、駅前のロータリーを中心に周囲に目を配りながら歩き始めた。
水賀森は人を探していた。同期の警察官である君嶋に教えられた「矢多村真一」。その人物がこの周辺にいるかもしれないという情報と、その時に見せられた顔写真を思い出しながら歩いていた。
水賀森の頭の中には居酒屋に於ける上川地との話が残っていた。銃を手にした事で、自分が警察官である事を改めて思いだした。悪を成敗する事こそ警察の役目と改めて思った。そしてそれを実行するのは今だと判断した。
矢田村真一は『悪』である。法で裁く事が出来ない『悪』である。
もしも、婦女暴行犯の矢多村真一を見つけたならば、そいつを射殺する。
もしも、見つけられなければ素直に拳銃を盗んだ事を上司に白状しよう。
自分が偶然にも拳銃を手に入れたという事はそういう運命なのだろうと。
トイレに拳銃が置かれていたのは、あくまでも拳銃を所持していた人の単なるミスであっただけではあるが、水賀森はそう判断し、そう決断した。
矢多村を探し歩いている最中、ふと携帯電話の着信音が鳴った。水賀森は瞬時に署内の誰かからの電話だと思った。すでに自分が拳銃を盗んだ事がばれたのだと思った。それと同時に心臓の鼓動が速くなったのを感じた。
水賀森は諦めた様子でジーンズの前ポケットから携帯電話を取り出し、画面上に表示されている発信者名を見やった。すると、発信者名には『神錦純一』と表示されていた。
「もしもし、水賀森? いま電話大丈夫?」
「ああ、大丈夫だよ。電話して来るなんて何かあったのか?」
水賀森は、「まさか自分が拳銃を盗んだ事を神錦が知る由もないはずだ」と思ったが、心臓の鼓動がどんどんと早くなっていくのを感じていた。
「いや、そうじゃないんだけどね。ほら、昨日飲み会で上川地が結婚するかもしれないっていう話があったでしょ? で、その結婚相手を僕達に見せておきたいって上川地から連絡があってね。それで水賀森が空いている日を聞いておこうかなって思ってさ。僕はこれから海外出張に行くんだけど、その前にちょっと聞いておこうかなと思って電話させて貰ったんだけど、どうかな? 上川地の相手を見たくない?」
拍子抜けするほどの用件に、水賀森はホッとしたと同時に、どっと疲れが出たように感じ、早くなった鼓動は一気に落ち着いた。
「あ、ああ。そう言う話か。そうだな、確かに見たいな。あのアホと結婚する勇気のある女を」
「酷い事言うなあ、ははは。で、来週以降なら僕は大丈夫なんだけど、水賀森は大丈夫そうかな?」
「うーん、ちょっと忙しくなるかもしれないから、今直ぐには分からないな」
「ああ、そうだよね。ゴメンゴメン。とりあえずそういう話があるからって事で覚えておいてよ。用件はそれだけ、それじゃね」
「あ、ちょっと待った。神錦さ、ちょっと聞いていいか?」
「ん? いいよ」
「電話で話す事でも無いんだけど、この前の正義って話でさ」
「ああ、したね。そんな話。何? 上川地に言われた事でも気にしてんの? 気にする事でもないでしょ? 上川地の言う事は短絡的だしね。ははは」
「いや、気にしているって訳じゃないんだけどな」
「じゃあ、どうしたの? それとも僕に対しての反論? それなら電話で無くてまた飲みにでも行こうよ。付き合うよ?」
「うん。それもいいんだが、例え話として聞きたい」
「例え話? まあ聞くだけ聞くよ」
「今、お前の手に拳銃がある。そして目の前には犯罪者がいる。凶悪な奴で、用意周到で、証拠が一切無い為に法では裁く事が出来ないやつだ。お前はそいつに向かって拳銃の引き金を引くか?」
「随分と乱暴な話だね。でも法の基では犯罪者では無いという事でしょ? なら撃つ理由はないよね。撃ったらそれこそ犯罪でしょ? 法治国家なんだから、法に基づいて裁かないと無法地帯になってしまうよね? 感情で殺人を犯しているだけに過ぎないと思うよ。仮に法に穴があったとしても、それは法が悪いだけであって、その穴を塞ぐ事が大事なんじゃないかな。法で裁けないから自分が裁くってのは、一見正義に見えるかも知れないけどそれはテロだよね?」
「テロか……。まあ、そうだよな」
「どうしたの? やっぱり上川地の言葉に感化されちゃったとか? 水賀森は現役の警察官なんだから、上川地みたいな意見に感化されるのは良くないと思うよ?」
「いや、上川地の言葉になんて感化されはしないけどね。でも、思う所はあるって話だよ」
「それなら良いんだけどね。でも水賀森、警察官だからって正義を考えすぎるのは良くないと思うよ? アメリカとかじゃ、あくまでも仕事として割り切っている感じだしね。警察官って仕事も僕や上川地と同じく1つの仕事として割り切った方がいいと思うけどね。変に正義って事を重く考え過ぎない方が良いと思うよ? 潔癖症は身を滅ぼすとも言うしね」
「いや、そんなに重くは考えていないし、潔癖症でも無いつもりなんだけどな……」
「そう。あ、そろそろ仕事に戻るよ。悪いね、こっちから電話したのに」
「いや、いいよ。じゃあ海外出張、気をつけてな」
「うん、ありがとう。また今度ね」
水賀森は電話を切ると、携帯電話の電源を落した。
水賀森は駅前のロータリーをぼんやりと眺めながら思う。
やはり自分がやろうとしている事は単なるテロと看做される類の物なのだろう。自分もまだ警察官であり法令遵守は大切な事だと思う。とはいえ、それは見方を変えると少し怖い気もする。万が一にもおかしな法令が強行採決されたとしても、自分達はそれを守らせようとする側に立つという事でもある。
法治国家が悪いなんて全く思わない。きっと正しい。けれども証拠が無ければ無罪になるという事も事実。それで苦しんでいる人がいるのもまた事実。
有罪になったからと言って被害者が救われる訳ではない。有罪になった事で次のステップの『赦す』という段階に移行するというだけだ。
しかし矢多村の場合、その『赦す』というステップの前で止まっている。証拠が無いから無罪。赦すも何も無いのだ。現状の法治国家としての限界。
数十年後、もしかしたら上川地が言った自白剤なる物が合法になる日が来るのかも知れないが、今現在に於いてそんな方法はない。
聞いた話では矢多村は用意周到という事で、証拠を残さないように細心の注意を払って犯罪を行っていたのだろう。若しくは矢多村についた弁護士が優秀だったのかも知れない。いくつもの容疑が掛かり、全てに於いて無罪となった。
起訴まで行かなかった事案もあったかもしれない。きっと今後も矢多村は罪を犯すのだろう。そしてまた無罪になり、街を闊歩するのだろう。罪を犯し続け、償う事無く生きてゆくのだろう。
署長の田神から聞いた「殺人を犯した警察官」の行動は、最初に聞いた時には正しくないと思った。だが『最後に正義を』という考えは理解できる。
法で縛る立場にいるのに、その法に縛られるという当り前の事に対し、矛盾と感じる。
警察と言う公権であるからこそ厳然と運用しなければならない。故に証拠が無ければ罪には問えないという事も理解は出来るが、そういった事を矛盾と捉えてしまうしまう状況に違和感を覚える。
何の為に、誰が為に、何を護る事が正しいのか分からない。
水賀森が警察署を後にしてから既に1時間近くが経っていた。署内ではようやく「拳銃紛失」という情報が署長の田神の耳に入った。その報告を聞いた田神はすぐに水賀森の事が頭に浮かび、地域課の西嶋の元へと走った。
「西嶋課長、今日、水賀森巡査が来て無かったか?」
「水賀森ですか? ああ、私物整理に来るとか言ってましたけど、まだ見てないですね。水賀森がどうかしましたか?」
「大至急、水賀森巡査の所在確認をしてくれ。緊急だっ!」
「は、はいっ!」
水賀森は駅出口付近に立つ柱を背に、ロータリーをぼんやりと眺めていた。気付けば既に1時間以上が経過し、辺りは薄暗くなり始めていた。水賀森は俯きながら溜息をついた。
「は~あ、何してんだろ俺。考えてみれば人を探すなんて1人じゃ無理だよな。そもそもここに矢多村がいるかどうかも分かんないってのに……。拳銃まで盗んじまって……。すでに手配されている可能性もあるよな……。潔くお縄を頂戴するかな……」
君嶋は「駅の周辺に矢多村がいる」と言っていた訳ではなかった。確度の低い情報として「居るかもしれない」という話だった。水賀森は拳銃を入手した事で有頂天となり、あまりにも冷静さを欠いた自分の行動に呆れた。
ふと、終末ケアセンターに於いて井上に言われた「残されるご家族や親族の事も考えていますか」という言葉を思い出した。その言葉を思い出すと同時に改めて自分の行動を悔んだ。
水賀森は深い溜息と共に顔を上げ、ぼんやりと周囲を見渡した。すると、駅入口に立つ水賀森がいる方へと向かって、ゆっくりとした足取りで向かって来る1人の男性の姿が水賀森の目に留まった。
ベージュの半袖シャツにゆったりとした茶色いコットンパンツ。俯き加減に歩く男性は水賀森に徐々に近づいてくる。左手をポケットに入れ、右手で持つ携帯電話に視線を落とし、前方を確認するために時折チラッと視線だけを上げながら歩いていた。
矢多村真一。水賀森が写真で見た矢多村の髪色は明るい茶色であったが、目前に迫る矢多村の髪色は金色であった。しかし整えられた顎鬚に黒ぶちの丸い眼鏡をかけた特徴のあるその輪郭に、水賀森はそれが矢多村であると直ぐに分かった。
水賀森は口を半開きに矢多村の姿を見つめていた。矢多村を本当に見つけたと、水賀森自身が驚くかのように目を見開き見つめていた。
矢多村は俯き加減に携帯電話に目を落としながら歩き続け、自分を見つめる水賀森のその視線には一向に気付かないままに水賀森の目の前を通り過ぎ、駅の中へと入って行こうとしていた。
警ら中の君嶋は、水賀森がいる駅のロータリー付近の歩道を、自転車を押しながら歩いていた。そのまま駅の東西出口を繋ぐコンコースを通り、反対側の駅出口の交番へと戻る途中だった。
「あれ? あいつ何してんだ?」
君嶋は駅出口付近の柱を背に立つ水賀森の姿を見かけた。水賀森は呆然とロータリーを見つめ、周囲を何度か見回した後に何かを凝視し始めた。
君嶋が水賀森の視線の先を追うと、そこには俯き加減に歩く金髪の男性の姿があった。
「ん? 水賀森の友達か? 随分と派手な奴と付き合いがあんだな」
君嶋はその金髪男性が矢多村だとは一切気付かず、何の気なしにそんな事を思いながらコンコース入口、水賀森の立つ駅の入口へと自転車を押し歩いていく。
そのまま君嶋が水賀森の事を見ていると、金髪男性は水賀森の前を通り過ぎ、水賀森は声を掛ける事無く見つめ続けていた。その様子を君嶋が不審に思った瞬間、水賀森がお腹の付近から何かを右手で取り出し両手で握り、金髪男性の背中へと向けた。
腰を落として両手で構えたその水賀森のその動作に、君嶋は水賀森が手にしている物が拳銃であると即座に思い至った。
「水賀森っ!」
君嶋は大声で叫ぶと同時に自転車を放り出し、水賀森の元へと駈け出した。水賀森は自分の名を大声で呼ぶ君嶋には一切反応せず、目の前を歩く矢多村の背中に銃口を向けつつ安全装置を外し、照準を合わせた。
君嶋の水賀森を呼んだその大声に、矢多村は何気なく足を止め振り向いた。振り向いた矢多村の目には、自分に銃口を向けている水賀森の姿が飛び込んだ。
君嶋は振り向いた金髪男性の顔を見て、ようやくその人物が矢多村真一である事を知った。
パンッ! パンッ!
駅のコンコース内に銃声が響き渡った。矢多村は胸に突然衝撃を覚えたと同時によろけた。矢多村は自分の胸に視線を落とすと、ベージュの半袖シャツはみるみるどす黒い色で染まり出しているのが目に映った。矢多村は急激に力が抜けるようにして、その場に膝を付いた。思わず胸を押さえた両手からは黒ずんだ赤い血が溢れ出す。
突然の銃撃と流血という状況に、コンコースを歩いていた人達は悲鳴を上げながら逃げ惑った。
「お、お前、だ、誰だよ……お、俺がお前に何したってんだよ……」
矢多村は息も絶え絶えに力無く言った。水賀森は地面に膝を付いてる矢多村に対して、片手で持った拳銃の銃口を尚も向けていた。
「お前が俺に何をしたって訳じゃない。これは俺の正義だ。だからお前を殺す」
「……は? い、意味わかんねーよ。……ひょ、ひょっとしてこの前の裁判の事を言ってんのか? ……無罪だろうがよっ!、証拠なんて何も無いだろうがよっ! だから俺は何も悪くねーだろうがよっ! だから救急車呼んでくれっ! まだ死にたくねーっ!」
矢多村は意識が途切れそうな中、必死で叫んだ。とそこへ「水賀森っ! 銃を捨てろ!」と、水賀森の後ろに位置した君嶋が、両手で握った拳銃の銃口を水賀森の背中に向けつつ叫んだ。
「君嶋か。悪いがこいつは殺す。それが俺の最後の正義だ」
水賀森は後ろを振り返らずに自分の後ろにいる君嶋に言った。先程の水賀森を呼ぶ声が、君嶋の声である事には気付いていた。
「はあっ!? 正義とか何言ってんだっ! どうでもいいから銃を捨てろ! でないとこっちも発砲するぞっ!」
「撃ちたければ撃てよ。それがお前の正義って事だろ?」
「ふざけんなよっ! 何が正義だ! お前自分が何をしてんのか分かってんのか! お前のやっている事は殺人なんだぞ! 頭がおかしくなったのか!?」
君嶋の言葉に水賀森はフッと笑った。
パンッ! パンッ! パンッ! パンッ! パンッ!
水賀森は矢多村めがけ立て続けに3回引き金を引いた。それに一瞬遅れて君嶋も引き金を2回引いた。
水賀森は2発目を撃ったと同時に背中に衝撃が走ったが、そのまま3発目を撃った。水賀森は急激に意識を失いそうになり、膝から崩れ落ち、うつ伏せに地面に倒れ込んだ。
水賀森と矢多村との距離は2メートル。矢多村は水賀森の至近距離からの銃撃により仰向けに倒れ、目を開けたままに絶命し、辺り一面はまさに血の海となっていた。
5分後、数台のパトカーと2台の救急車が到着したが、矢多村は絶命していた為に救急車で運ばれる事は無かった。
水賀森はかろうじて脈があり、救急車で運ばれたが車内で事切れた。同期の警察官に撃たれた水賀森の表情は笑っている様に見えた。満足だとでも言っているかのように笑って見えた。
◇
その後、事件に関する警察発表がなされた。
駅前で起きた射殺事件の容疑者は現職の警察官であり、誤って警察署内のトイレに放置された拳銃を盗み、かねてから勝手な逆恨みを覚えていた今回の被害者である矢多村真一氏に対し、その思いが暴発した結果、凶行に及んだものと推察される。なお、遺書等は無いので現在の所、断定は出来ない。
又、今回の容疑者である警察官が凶行に及んでいる最中、その場に偶然立ち会った警ら中の警察官の再三に渡る警告を無視した為、やむなく警察官は発砲に及んだ。
容疑者である警察官が亡くなった事は非常に残念ではあるが、発砲自体は正当な物であったと考えている。今後は銃器の保管等に関して徹底的な綱紀粛正を図り、監視を強化するよう警視総監の名で全国の警察に指導していく。
そう言った内容の発表がなされた。
そして今回の事件は容疑者死亡と言う事で書類送検を持って幕を閉じた。また、警察幹部は今回の事件を通じて現場で働く警察官が感化される事態を恐れ、水賀森が起こした事件は決して正しくないのだと、全国の警察本部に対して綱紀粛正と啓蒙を促した。
事件直後から、世間ではワイドショーを中心に被害者である矢多村の過去が次々に明るみにされていった。
常に婦女暴行の影が付きまとっていた矢多村が、裁判では常に無罪となっている。世間は水賀森を正義のヒーローとして扱う意見が大半を占めた。
「司法が矢多村に対して何も出来ていないから、このような事が起きたのではないか?」
そんな言葉が毎日踊っていた。
当然、有識者や法曹界、そして政府は、あくまでも水賀森はただの殺人の容疑者であるという事を訴え続けた。矢多村は裁判という場において無罪となったので問題は無く、あくまでも今回の被害者であるという事に終始した。
水賀森の行いはただの殺人であり、司法の介在しない今回のような事は正義などではなく、どちらかと言えばテロであると訴えた。
矢多村の遺族はあくまでも我々が被害者側であると、過去の裁判は全て無罪になっているのだから悪い事など何もないと訴えたが世間は納得しなかった。そんな矢多村の遺族への執拗な嫌がらせや中傷、抗議の電話といった事は止む事は無く、警察にも相談したが解決には至らず、矢多村の遺族は徐々に疲弊していった。
矢多村の葬儀は通常通り行われたが葬儀に来る人は少なかった。矢多村の過去が暴かれた以上、そんな矢多村と付き合いがあると思われたくないという友人知人の多くが参列を自粛した。
そして現在、矢多村の遺族は逃げるように地方の過疎とも言える地域に引っ越していった。
水賀森の父親と母親は、自分達の息子が世間的には正義のヒーローと言われていたとしても、実際には殺人の容疑者である事には変わらず、数は多くはないが殺人犯の家族という誹謗を受けていた。近所の目も一見好意的に見てくれてはいるが、どこか冷めた目で水賀森の家族を見ていた。
水賀森の葬儀は密葬という形式で行われたが、水賀森の行動に共感した人々が多数押し寄せ警察が出動する事態にまで至った。その中には過去に矢多村の被害にあった人達も含まれ、線香を手向ける際には涙を流し、仏壇の水賀森の写真に向かって「ありがとうございました」と言う人までいた。
水賀森が勤務していた警察署では線香を上げに行くなとは言わなかったが、決して制服では行かないよう署長名で通達がなされ、同僚達は喪服で水賀森の実家を訪れた。
訪れた中には過去に矢多村を逮捕し送検まで出来たものの、裁判では無罪となり、苦渋をなめさせられた警察関係者も多数駆けつけていた。
水賀森を射殺した君嶋は数日後に依願退職した。同僚達や上司は慰留を迫ったが聞き入れなかった。水賀森の葬儀にも顔を出さなかった。
後日、水賀森の墓前に1人で現われ「すまん」と涙を流しながら線香を手向けた。今は遠くの地にて人目を避けるように暮らしている。
上川地は密葬に参加させて貰った。神錦はこの事を海外出張から帰ってから聞かされた。後日、沈痛な面持ちで水賀森の実家を訪ね線香をあげた。
上川地は「自分が矢多村の話をしたせいで、水賀森が殺人を犯し死んでしまった」と、責任を感じ塞ぎこんでしまった。
そんな上川地に対して神錦は「僕も止められなかった。最後に水賀森と電話で話をした時に少し違和感を感じた。すぐにでも気づいてあげれていれば、こんな事にはならなかったかもしれない。だから上川地だけの責任ではないよ」と、上川地を慰めた。
水賀森の両親は、成人しているとはいえ自分達の子供がしでかした事なので誹謗中傷を受け入れると最初は思っていた。だが息子が死んだ事での精神的ショックに加え、父親が勤める会社に対しての抗議の電話や周囲の目と言う事もあり、父親は自主的に会社を辞めざるを得なくなり、やせ細り床に伏せったままの母親と共に、静かに街を去っていった。
それから暫くの間、水賀森の墓前からは線香の煙が絶える事は無かった。
◇
20XX年『終末管理法』制定。
制定されると同時に、厚生労働省には『終末管理局』が新設された。新設された終末管理局の役割は、当局の管理監督の下で、個人に対して、個人の終末日、つまり亡くなる日を通知する、というのが主な役割である。しかし、あくまでも医療行為、健康診断等の膨大な身体情報を基に、本省のコンピュータシステムで計算した物で有る為、事件事故等、不測の事態で亡くなる場合には無意味である。また大病を患っている、持病がある等の場合にも無意味である。この制度は、健康体の人物を対象とした、福祉の一貫として位置づけられている。
個人に終末日を伝える方法は葉書とされた。毎月の月末日に、厚生労働省の本省に設置されているコンピュータシステムで終末日を算出し、同時に終末通知の葉書を作成する。作成後は、即刻、郵便として全国へと発送される。対象期間は、月末日から2か月以内に死亡予測が出た個人宛に発送される。
また、葉書を受領した人達に対する精神ケアの為に、各自治体には『終末ケアセンター』を設置する事も義務付けられた。終末ケアセンターの役割は、通知葉書を受領した人たちへのカウンセリング、そして安楽死の実施という、2つが主な役割とされた。
安楽死の方法は飲料による服毒と定められた。安楽死が目的の為、飲む事によって苦しみを一切伴わず、且つ終末の飲料としても美味しい事も求められた。その要求に対して、飲んだ直後から急激な睡眠作用を誘導、同時に脈拍低下が始まり、数分後に完全な心停止する飲料が開発された。そしてその仕様を邪魔しない味を求めた結果、ぶどうを原料としたワインが開発された。
財政的にも公的支援が図られる事になる。終末日を迎えた時に負債があれば公費で負担する事になった。そのかわり、終末日は保険金融業界にも連携され、クレジットカードは即時利用停止となる。終末日以降はローンも組めず、銀行の現預金か、現金決済のみとされた。
終末日以降の自殺での保険金搾取も考慮し、生命保険も停止という措置がなされる。そのかわり傷病での医療費の負担は公費で全額なされる。資産の相続についても軽減措置がなされ、名義変更が必要な家や車と言った資産については、妻子を優先に自治体のシステムで、自動的に名義変更まで行われる。
遺体の引き取り先が無い、若しくは引き取りを拒否された場合には、自治体により火葬、埋葬まで行われる。その際は、自治体の共同無縁墓地へと埋葬される。これは行旅死亡人と同様の扱いである。
終末を通知された人が、自暴自棄になる事も想定され、人は勿論、社会に対して、破壊衝動に駆られる危険性を考慮の上、終末管理局にてそれらの衝動に駆られそうな危険人物の特定も行われる事になった。これも本省の最新のコンピュータシステムで、過去の実績等(事件事故等)の警察情報をデータベース化し、システムにより人物抽出される。これらを担うのは、終末管理局直轄の部門で『終管Gメン』と呼ばれた。
終管Gメンは、警察庁との情報を含めた密な連携を取り、対象者の監視拘束を行う。そして一度拘束されると、終末日まで拘束される事になる。
それ程の強権を発動する事に対して、賛否は拮抗しているが、終末日の通知は残りの時間を有意義に過ごすという、福祉の一貫であるにも関わらず、個人の身勝手な破壊衝動に対しては、社会の安定を第一に考え、強権を持って抑えるというものである。
終末日を知らせる葉書は『終末通知』と呼ばれた。
そして、安楽死を行う飲料は『終末ワイン』と呼んだ。
2019年 09月11日 4版 一部改稿
2019年 08月30日 3版 誤字含む一部改稿
2018年 11月25日 2版 誤記修正、冒頭説明分を最後尾に移動
2018年 11月20日 初版