レプリカとオリジナル
正直な話、海斗はこの場から立ち去るべきかどうか、本気で悩んでいた。
なぜなら一年前から、海斗はそうやって生きてきた。自分から騒ぎに介入しようとはせず、逃げることができるのならば迷わずその選択肢を選んで、自分の平穏を保つ。
だってそうすれば、不幸な結末も幸福な結末も得られなくて済むから。求めたのは〝変わらない日常〟で、それが脅かされなければ後はどうでもいいと、彼は面倒ごとに関わることをやめていたのだ。
この時だって、海斗は逃げれたはずだ。目の前で起こっていること無視して、何も見てないふりをして立ち去れば、彼はいつもの日常に戻れたはずだ。
だけどそうすることができない。何故か、この悲鳴を聞いてから、頭痛が止まらない。
(……っ、なんだ……?)
脳裏に浮かぶ、鮮やかな朱色の水。そしてそれに濡れた一つの肉塊。他の思考がノイズにまみれている中、その映像だけは鮮明であり続ける。
(なん、で……こんなにも、リアルに……⁉)
今までも、何度か突然この光景が再生することはあった。だが今回は度合いが違いすぎる。
雨が地面を叩きつける音が、辺りに蔓延する血の臭いが、目の前で血を流し続ける肉塊の質感が、あまりにもクリアに浮かび上がる。
こんな鮮明さ、もはや再生を通り越して再現に等しい。とても、こみ上げる吐き気を止められそうになかった。
「ぅぷ、ゴボっ、ゴハッ……うぇ……」
たまらずせり上がってきたものを全て吐き出す。
(くそっ、こんな時に……‼)
口を拭いながら顔を上げる。……案の定、二人の不良はこちらに気づいていた。
「……なんだテメェ、そこで何してる……?」
二人のうち、金髪のガラの悪い方――比弓燕尾はこちらへゆっくりと近づいてきた。
そして、眼鏡を掛けたもう一人―――烏野彰は怪訝そうに眼を細める。
「チッ、見られたか。……おいお前、これからどうなるかわかるな?」
まだ、今なら逃げられる。向こうの問いを無視して踵を返し、人気の多い大道りへ行けば、この不良も諦めるだろう。たとえ向こうの足が速くても、最悪能力を使えば追いつかれることは、まず無い。
だけど……
「……どうなるんだろうな?」
海斗は二人を挑発する。ただ、あの麻袋の中身が気になって、だから争うことを選択した。ここで勝てば何かを取り戻せるような、そんな予感があった。
そして二人は海斗の挑発を聞いてニヤリと笑う。
「そりゃお前、ドラマとかでお馴染みの口封じってやつだ。……殺ってしまえ、燕尾‼」
「応ッ‼」
次の瞬間、燕尾が音も無く突撃してきた。
開いた距離を詰めるのに要した時間は約一秒。海斗が刀の柄に手を掛けた時には既に眼前にいた。
「―――ッ⁉」
そして燕尾は握りしめたナイフを容赦なく海斗へ突き出す。だがその前に海斗は抜刀してそのナイフへ刀をぶつけた。金属同士の弾ける音と共に、燕尾のナイフは海斗の頭上を越えていく。
「ハッ、運のいいヤツだなァ‼」
自分の攻撃を弾かれた燕尾は、そのまま海斗の頭上を飛び越え、突撃の慣性に従って後方へ。
海斗が振り返るのと燕尾が再度突撃したのは、ほぼ同時だった。
だが今度は海斗は既に抜刀している。彼は突撃してくる燕尾の軌道を見極め、再び突き出されたナイフめがけて全力で刀を叩きつける!
……いくら覚醒者と言えど、大抵の者は人間の体とさして変わらない。皮膚を触れば柔らかく弾力があり、包丁で指を切れば血が流れ、車に撥ねられれば骨折する。鋼鉄の刀を全力でぶつけられようものなら、粉砕骨折はまず免れない。
ましてや今回は燕尾の突撃による速度と、海斗の一撃の威力が合わさり、すさまじい負荷が燕尾の腕にかかる。最悪の場合、燕尾の腕が千切れるという状況になり得た。
引き起こす結果は凄惨なものだが、それで戦意を喪失してくれればこれ以上戦わずに済む。この時、海斗は内心勝利を確信していた。
しかし、
「何ッ⁉」
その驚愕に満ちた声は、他ならぬ海斗のもの。
刀が燕尾の体を易々と切り裂いたと思えば、その体がまるで霧の如く消えて無くなったのだ。
―――タッと、背後から何かが着地した音が聞こえる。
振り向いている暇は無い、そう判断した海斗は全力で首を横に振った―――直後、頬紙一重の位置をナイフの切先が通過する。
「う、おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお‼」
戦慄で停止しかける思考とは裏腹に、体が本能で動く。刀の柄から片手を放し、その空いた手で真横にある燕尾の腕を掴んで、雄叫びと共に体を捻じり放り投げる。
だが片手だけでは力が足りず、体勢も回避から立て直し切れていないのもあって、如何せん力が足りない。放り投げられた燕尾は最初は驚きこそしたものの、余裕を持って彰の横に着地した。
「……へぇ、あれだけ動いて息一つ乱さないとはな」
体勢を立て直しながら刀を構えて牽制を行う海斗を見て、彰は感嘆の息を漏らす。
だが海斗にとってそんなことはどうでもいい。それよりも気懸りなことがあった。
それは先程の衝突。音も無く高速移動をしたり、突然その体が霧散したり……明らかな人の域を超えた現象。つまりは、
「……お前ら、能力を使ったな」
呟くようにそう言って、海斗は二人を睨みつける。
この街の『騒乱防止条例』によって禁じられた行為を、この二人はさも当然といった調子で破っていた。
「んなことよォ、当り前じゃねえか! 俺たちの能力は使うためにあるんだからなァ!」
「まったくだ。なぜ俺ら覚醒者が旧人類の定めた条例に縛られなきゃならない。そんなもの、力を持ってる俺らには全く意味が無いのにな。この街にはそんなこともわからねえ平和ボケしてるバカが多すぎる」
興奮しきっている燕尾の言葉に賛同する彰。そんな二人に、海斗は深い嫌悪感と怒りを抱いた。
「ああ……なんて惨めで、無様で、浅ましい、不愉快な連中だ」
俯いた海斗の口から、憎悪の籠もった言葉が吐き出される。
「何が使うための能力だ、何が平和ボケだ、くだらない。……俺からしてみれば、お前たちの方がよっぽど平和ボケしてるよ」
その言葉に燕尾と彰は怪訝な顔をする。
「ああ? そりゃいったいどういうこった?」
「わからないなら、わかりやすく教えてやる」
ゆっくりと海斗が顔を上げる。もはやその目は二人を睨んではいない。
「お前ら、よくその程度の実力で挑んできたな」
その目は二人を蔑み、見下していた。
「……お前、少し口が過ぎるぞ」
苛立ちを募らせた彰が圧を掛けてきたが、その程度で海斗は止まらない。
「自分の能力を過信して、相手をよく分析しないまま攻撃を仕掛けて……一応聞くけど、俺がお前たちより強かったらどうするつもりだ?」
「……テンメェ……言わせておけば……ッ⁉」
唐突に燕尾の言葉が途切れたのは、周囲の異変に気付いたから。
パチパチと静電気のような音が辺りに発生していく。それに呼応するかのように、海斗の髪は揺らめき、その服ははためきだした。やがて音はバチバチと激しさを増していき、ついには無数の紫電がそこかしこを走り出す。
海斗は、能力を使っていた。
「―――今回は俺がやる」
周囲の変容に戸惑う二人をよそに、海斗は口を開く。……まるで、ここにはいない別の誰かと会話しているように。
「大丈夫、殺しはしない。……こいつらの傲りを、後悔させてやるだけだ」
その一言が、戸惑っていた二人を正気に戻し、結果的に引き金となった。
「ハッ、逆にそっちを後悔させてやるよ……行くぞ、燕尾ッ!」
「よしきたァ!」
再度、燕尾がナイフを突き出し突撃してくる。……だがそれ自体はまやかしだ。
彰の能力『念力=幻影投写』は、空気中の水分を操作し光を意図的に反射させ、立体の幻を空中に投影するというもので、今のように幻の燕尾を作り出して突撃させることで相手を撹乱させることができる。ただし、作れるのはあくまでも光の作り出す虚像のため、殺傷力を持っているわけではない。何かしらの干渉を受ければ、先程のように幻は霧散する。また彰の脳の処理能力の問題で、作れる幻は一体が限度だ。
だがその完成度は見事なもので、本物との違いはほとんど見られない。こうなれば、本物と偽物の区別がついていないどころか、彰の能力の詳細すらわかっていない海斗は対応するしかない。
そしてその行為によってできる隙こそが、彼を敗北たらしめる致命的なものになる―――そう、彰は考えていた。……しかし、
「……何だと……?」
海斗は特にこれといった動きを見せず、そのまま迎撃することなく突撃してくる幻影を受け入れた。海斗の体にぶつかった幻影は形を保てずに霧散する。
勘ではないだろう。いくら幻とはいえ、自分の体に凶器が刺さったのだ。ならばそれが幻だったことに対する多少の安堵や、傷跡が本当に無いか確かめるくらいはあってもいいはずだ。
……だというのに、海斗は表情一つ変えはしない。まるで、突撃してきたのが幻だと確信しているような……。
だが彰の困惑を知らない燕尾は、幻が霧散したとき、既に海斗の頭上高くにいた。
(さっきは着地の音でばれたが、今度は空中……音なんて立ちやしねぇ!)
燕尾の能力は『加速=音無疾走』。その名の通り、一方向に一瞬だけ音も無く加速するというもの。方向によっては空中へ飛ぶこともできる。しかし再度能力を使用する場合は、前の能力使用による加速が完全に停止していなければならないという条件がある。
先程は慣性に従い海斗の後方へ行くふりをして、空中で能力を使い元の位置に戻って突撃を行ったが、その際発生した着地音によって悟られ、躱されてしまった。
その反省を活かし、今度は空から海斗の首を狙う。こちらを見ていないことから、自分の位置は悟られていないと燕尾は判断し――そのまま加速して急降下する。
(――その首、貰ったァ‼)
湧き上がる勝利への確信。自然と表情から笑みが零れる。……だがその一撃を、海斗は見もせず弾いた。
「何ッ⁉」
奇しくも先ほどの海斗と同じ、驚愕の声を上げる燕尾。そんな彼を、海斗はようやく目視した。
「―――対応が遅い」
その場から動かず、一言。それが挑発ということは明白だが、頭に血が上った燕尾にはそれが判断できない。
「調子乗ってんじゃねぇぞ!」
一方、直接戦闘を行わない彰は、海斗の異様性に気づきかけていた。
(……あいつは、いったい何で俺らを捉えている……?)
「彰どうしたァ! ボーとしてんじゃねぇ!」
だが湧き上がった疑問も、燕尾の催促によって掻き消される。すぐさま考えることを止め、幻影の配置に意識を集中した。
幻影による幻惑と本物による奇襲。ワンパターンではなく、何度も配置や順番を入れ替えて相手の予想に合致しない状況を作り続ける。
普通なら翻弄されるはずだ。普通なら察知できないはずだ。
なのに、
「クソッタレが! なんで一撃も当たらねぇんだよォ⁉」
海斗は未だ、その体に傷を付けていない。
突き出されたナイフを躱し、向かってくる幻影を無視して、死角からの攻撃を弾き、視界の端に映る幻影には目もくれない。
一向に進展しない状況に、彰は疑問を越して不気味さを感じ始め、燕尾は苛立ちを募らせていた。
二人は最後まで気づかなかった。海斗は不可視の電磁フィールドを辺りに張り巡らせ、周囲の状況を全て把握していることに。
たとえ幻影を走らせようと、死角から攻撃を仕掛けようと、海斗には全て視えていた。
「……もういいか?」
そしてようやく、海斗が動く。だが燕尾は耳を貸すことなく、何度目になるかわからない背後からの突撃を行う。
けれど、
「次は俺の番だ」
静かに紡がれたその言葉。彰がその意図に気づいて燕尾を止めようとしたが、もう遅い。
「―――は?」
聞こえた燕尾の間の抜けた声。―――直後、振り向き様に放たれた神速の一撃が炸裂した。
まるで野球における打者の様。初撃とは明らかに違う、攻撃する意思を纏った海斗のスイングは、燕尾を打ち飛ばし壁へ叩きつける……ことを超えて、その体は深々と壁にめり込んでいた。
「ギ、ギェ…………」
そして燕尾は呻き声を上げながら、壁から剥がれ落ちる。気を失ったか、倒れたまま動かない。
「燕尾⁉」
今更の如く、放心していた彰が焦燥の声を上げた。すると海斗は刀を弄びながら、
「この刀に刃は付いていないから安心しろ。怪我したとしても、せいぜい骨折程度だよ」
と言った。もう既に、燕尾のことなど眼中に無い様子だった。
「何なんだお前は……いくら強力な能力を持っていようが、こちらの方が数と連携で上回っていたはずなんだぞ……⁉」
彰は穴が開きそうな勢いで海斗を睨みつけている。だが海斗は彰に背を向けたまま、刀を下した。
「いいよ、歯ごたえは無いだろうけど」
呟かれた海斗の一言。――直後、彼の持つ空気が一変した。
先程までとは明らかに違うその威圧は、もはや別人と言っても過言ではない。
そんな突然の変容を遂げた海斗に対し、思わず彰は身構えた。その時、彰は一つの情報を思い出す。
「いや待て、その白い刀、それにさっき使ってた電気系統の能力……まさか、まさか―――⁉」
それは『乖離の箱庭』における一つの伝説。『四神』と呼ばれる覚醒者の一人と、目の前の覚醒者の特徴が合致している。つまりは―――
「―――お前は、『雷神』なのか⁉」
その名を口にした瞬間、海斗の首が彰の方を向いた。
その目は、まるで、別人の―――
「―――私を呼んだかしら?」
声も、姿も、変わっていない。
なのに、海斗の姿をした、別の誰かがそこにいた。
「……は、ハハ、ふざけんなよ、なんでよりによってお前なんだ……なんだって『雷神』なんかが、俺らの前に現れんだよォ⁉」
あまりの絶望を目の前にして、彰は思わず笑ってしまった。
偽物という可能性はない。なぜなら先程までの戦闘が、他とない証拠になっている。あのような芸当を行えるものなど、少なくとも彰は知らない。
圧倒的な戦闘力の差。これを前にすれば、たとえ命を捨てるような特攻を行ったとしても、彰には自分が勝利するビジョンが見えなかった。
「ざけんな、くそっ! こんなの、『雷神』に対する対処法なんざ、俺は知らねぇぞ⁉」
なおも喚き続ける彰を一瞥した海斗は、周囲に紫電を迸らせる。そして、
「戯言を吐いてる余裕があるなら、―――全力で避けてみなさい」
―――ズバン‼ という音が響くと同時に、海斗の体が射出される。
……彰はずっと海斗を見ていた。たとえ無様に喚いていようが、その視線は一貫して海斗を捉えていたはずだった。……だというのに、
「は?」
視界から海斗の姿が掻き消えたと思った次の瞬間、彰の眼前に海斗が踏み込んできていた。
「―――なんだ、遅すぎるじゃない」
ふざけんな、お前が速すぎるだけだ、と。
湧き出た彰の怒りの抗議も、発声することすらできなかった。
直後、凄まじい衝撃と共に自分の体が宙に浮く。首を掴まれたのだと理解したときには、すでに壁に叩きつけられ、吊るし上げのような格好になっていた。
「ア、ぐ……ッ⁉」
「はい、これで私の勝ち。……さて、敗者はどう料理してやろうかしら?」
そう告げる海斗の顔には、確かに残忍そうな笑みがあった。
海斗は、笑っていた。
「い、嫌だ、イヤだ嫌だいやだ嫌だ! た、助けてくれ、誰か! 助けて! し、死にたくない、死にたくないシニタクナイジニダグナイ――――――‼」
必死にもがきながら、彰は命乞いをする。その様子を見て、海斗は更に笑う。
「安心なさい、殺しはしないわ。アンタ如きの命の責任なんて、私は取りたくないもの」
話してるのは海斗なのに、その中に海斗はいない。
「―――ただし、『罰』は与えるわ。そうね、下半身を永久不随にしてやろうかしら?」
その声はまるで子供を諭すように優しく、そして獰猛な獣の唸り声に匹敵する。
そして周囲に再び、バチバチと弾ける音が響く。
処刑執行の用意は整った。あとは彰の身体に電気が流れて、全てが終わる。
「い、嫌だ、助け―――――――――!」
涙と鼻水で顔をグシャグシャにした彰が、泣き声の混じった悲鳴を上げて必死の懇願をしてくる。だけどそんなもの、今の海斗が受け入れるとは到底思えない。
ところが、
「……なに、本当にそれでいいの?」
また、独り言。なのに適当に相槌を打つ海斗は、端から見れば本当に誰かと話しているように見える。
すると突然、海斗は彰の首から手を放した。
「あ、え……?」
てっきり助からないと考えていた彰は、海斗に突然開放され呆然とした。
「実力の無さに感謝しときなさい。アンタらが弱すぎるせいで、この子は死闘はおろか運動にすら感じてなかった。だからこのいざこざに勝敗は存在しない、アンタにも永久付随ほどの罰は与えなくていいだって」
なんと傲慢な理由だろう。だが、この理由が事実なのも否めない。
先程の戦闘も、先手を取られたとはいえ、彼らは一度も海斗に一撃を決めれていない。それどころか、逆に翻弄され力の差を見せつけられる始末。
彰たちが拮抗しているのだと感じたのはまやかしで、海斗は脅威にすら感じていなかった。
その事実に体が震える。全身から出る危険信号に従い、彰は腰が抜けて立てなくなった体を引きずるように、その場から立ち去ろうとした。……だが、
(……にっ、逃げなきゃ、こんなっ、化け物の相手なんて、勝てるわけグァハッ⁉)
追い打ちをかけるように放たれた海斗の一閃が、容赦なく彰に直撃する。そのまま宙へ飛んだ彼は、受け身も取れずに地面に落下。バウンドしながら転がっていく。
「今のは私の個人的な怒りの分。たとえ本人が見逃すと言っても、何も無いままは終わらせれない。犯した所業には何かしらの対価を払わせる。……今回はそれで済ましてあげるわ。けれど、次に女の子をあんな風にしてみなさい」
振り返れば、そこには膨らんだ麻袋。先程まで悲鳴を上げようと抵抗していた中の少女は、外の異変に気付いたか今は静かに動かない。
そして再び海斗は首を動かし、骨が砕けたのだろう、今も掠れた息を吐き痛む箇所を押さえながら、立ち上がろうとしている彰を睨み見る。その目が海斗と合った瞬間、彰の表情が絶望に染め上げられた。
「――次は、命すら保障しかねるわ」
もう、ここにいては、殺される。
混じり気の無い恐怖が彰の感情を支配した。
「う、ぅあ、あああああああああああ――――――――――!」
そして悲鳴を上げながら、脱兎の如く大道りへと逃げて行く。もう彼に、自分の仲間を回収できる余裕はどこにも無かった。
そんな彰を見送り終えた海斗……ではない誰かは自嘲気味に微笑みながら、
「さて、こんなものかしら。それじゃあ海斗、後は頼むわよ―――」
そう言って目を瞑った。すると海斗の表情から笑みが消えていく。
再び海斗が目を開けた時、そこには本来の彼がいた。
「―――わかった、後は俺がどうにかするよ。……って、もう寝たか……」
呆れたように一人呟いた海斗は、今も倒れたまま気絶している燕尾を見た。
「警察沙汰にするのは面倒だし、あいつは放っておいてもいいかな。……それより、」
続いて視線を移動させ、問題の麻袋を見た。中にはまだ人が入っているのだろうが、戦闘の途中で確認した時から少しも動いていない。
「……えーと、流れ弾を当てないように注意してたし……大丈夫だよな?」
海斗としては独り言のつもりだったのだが、それで中の少女は事が終わったことを認識したらしい。再び体を動かし、塞がれた口から声を出そうと低音の悲鳴を上げる。
それを聞いて、また海斗を凄まじい頭痛が襲う。
「ァグ……くそ、さっきから何なんだ……⁉」
思わず頭を抱えそうになったが、そんなことをしている場合じゃないと、海斗は頭痛に顔を顰めながら、麻袋へと近づいていく。
「待ってろ、今出してやるから」
そう言って、海斗は麻袋の口を縛っている荒縄に手を掛けた。
一秒が経過するごとに、頭痛の酷さが増していく。まるで頭の中で鐘を鳴らされているみたいで、しまいには視界すら灰色のノイズに浸食され始めてきた。
……海斗は気づいていない。その体の反応が、心の拒絶によって引き起こされていることを。
原因は明らかに麻袋から聞こえるこの声。心はこれを聞いた瞬間、中の少女が海斗の精神を破壊すると判断したのだ。
なぜならば、この声はもはや類似の比ではないレベルで、かつての人物と一致する。
その事実に気づかぬまま、海斗は紐を解いていく。
割と厳重に縛ってあった結び目に悪戦苦闘しながらも、ようやくその封が解かれた。
―――ヤメロ、ヤメロ、ヤメロ!
心臓が早鐘を打ちながら最大の警告を行ってくる。今からでも遅くはないと、引き返せと無意識下へ働き掛ける。
だが最後まで、海斗はその危険信号に気づくことなく、中の少女を解放した―――
「…………………………………………………………………………………は?」
中身を見た瞬間、海斗の思考が、停止した。
中にいたのは、長い茶色の髪を持つ大人しそうな少女だった。その目は怯え、口には猿ぐつわを噛ませられており、体は縄で縛られている。
だけど海斗にとって、そんなことはどうでもよかった。
問題なのは、彼女の容姿。
なぜ彼女の姿が、なぜ彼女の声が、なぜ彼女の全てが。
なぜ、一年前に自殺したあの少女と、まったく同じなのか。
頭痛も、ノイズも、知らない間に消えていた。だけど体が硬直したまま、動けない。あまりの衝撃に、四肢の全てに力を入れられない。
しかし、今も恐怖で震えている少女の目から、一滴の涙が落ちる。それを見て、海斗は彼女が縛られているままだったことを思い出し、無理やり四肢に力を籠めて縄を解いていく。
縛っていた縄を全て解き、口の猿ぐつわを外すまで、海斗は終始無言だった。
ようやく解放された少女は、変わらず怯えた目をして海斗から距離を取ろうと後ずさる。
「え、えっと、あの、その……」
やはりその声は、一年前に死んだ少女と同じだった。その事実に、再び海斗は硬直する。
しかし少女の方は、彼の強張った顔を見て震え上がると、一目散に繁華街の方へ走っていった。
後に残ったのは、彼独りだけ。
海斗は、少女が逃げていった方を、呆然と見つめることしかできなかった。
◆◇◇◇◆
三日月が浮かぶ夜空の下、海斗は今更ながら帰路についていた。
しかしその表情は心ここにあらずといった様子で、歩く姿はまるで彷徨うゾンビを連想させる。
だけど、そうなるのも仕方ないかもしれない。
脳裏に浮かぶのは、先程の少女。そして、……一年前に亡くなった、彼の友人。
こうして思い出すだけでもわかる……二人はあまりにも同じだった。
―――いや、もしかしたら、或いは……。
海斗は次の可能性を考える。もしもその予想が当たっていれば、彼はあの少女と関わることは避けられない。
そうなった場合、訪れる未来が同じものならば―――
何か、複雑な感情が彼の心で渦巻く。恐怖にも、高揚にも似たその感情。
その正体を暴こうとしたが、ちょうど家に着いてしまった。
考えることを止め、家の玄関をくぐる。上着を脱ぎ捨て、海斗はソファーへ倒れこんだ。
途端、今日一日でできた疲労が、睡魔を引き連れてやってくる。
その誘惑に抗うことはしなかった。